第244話 退却/社会勉強/竜
「遺憾ながら……全軍退却とする」
居並ぶ諸将を前に、ショウは重々しい口調で告げた。
「閣下、退却は良しとして……あの姒鯀なる者が持ち込んだ兵器はどこへ秘匿いたしましょうか」
謹慎を言い渡されていたはずの軍師シエンが、命を破って幕舎内へ足を踏み入れた。
「何……? どういうことだ貴様! 謹慎しておれと命じたはずだぞ!」
ショウの眉間には激しい皺が寄り、顔つきが険しさを増す。
「お叱りはごもっともにございます。ですが、下さねばならぬご決断があり、不敬を覚悟で参上いたしました。……やはり、あの男の申す通り、これは千載一遇の好機にございます。あの兵器を深く地中に埋設し、追撃してきたアマンの軍勢が踏み越えた瞬間に――」
バキィッ――!!
シエンの言葉が終わるより早く、ショウの容赦ない鉄拳がシエンの顔面を打ち抜いていた。 激しい衝撃で吹っ飛んだシエンは、床畳を転がっていく。
「あのような地獄の悪夢を……二度と繰り返してたまるかァッ!!」
それは血を吐くような、ショウの悲痛な叫びであった。
「私はこの目で確かめたのだぞ! あの美しかった村々が一瞬にして瓦礫の山へと変貌したさまを!一切の生き物が死に絶え! 凄惨な火傷に塗れて苦しむ人々……不気味に蠢き続ける消えぬアンデッドの群れ! そして……焦土と化した後も呪いの毒気がはびこった! あのときクロ様とアオ様がおられねば、大地はいまでも……!」
そこまで叫び散らした瞬間、ショウの脳裏に一つの巨大な疑問が過った。
(あのクロ様が……本当に魔王に加担し、人類の脅威となるというのか……?)
(いや……今はそのような妄執に囚われている場合ではない)
ショウは首を振って現実へと意識を引き戻した。
「シエン、貴様は引っ込んで謹慎しておれ!」
それだけを冷たく言い捨てると、ショウは待機していた他の将校たちへ素早く退却の指示を出し始めた。
立ち上がったシエンは、口元から垂れる鮮血を無言で拭うと、静かに幕舎を後にした。
そしてその夜――シエンは影に潜むように、密かに本陣を離脱していった。
◇
カイは暗く汚れた路地裏の隅で体を丸め、力なくうたた寝をしていた。
ここ数日はゴミ箱を漁り、腐臭の漂う廃棄物を口にしてどうにか飢えを凌ぐ凄惨な日々を送っていた。
「……様」
「ひっ……す、すいません! すぐどきますからっ!」
突然頭上から声をかけられ、カイは怯えたように慌てて立ち上がろうとした。
「陛下、ここでの社会勉強はこれで終了です。参りますよ」
目の前に立っていたのは、美しい佇まいのジョカエルであった。
「ジョカエル……」
思わず口から名前が溢れ出た。 胸の奥底から、深い絶望と溢れんばかりの安堵、そして湧き上がる怒りが混ざり合い、一気に込み上げてくる。
「陛下……魔力が覚醒されましたね」
ジョカエルは優しく手を差し伸べ、地べたに這いつくばるカイを引き起こした。
「どういう……こと……?」
「こういうことです」
ジョカエルはカイの手の甲をそっと指差した。
「あつッ……!?」
その瞬間、カイの手の甲が一瞬だけ焼鉄を押し当てられたように熱した。
「な、何をするんだ!」
慌てて自分の手元を凝視する。指先ほどの小さな範囲だけ、肌が極っすらと赤く変色していた。
カイは不服そうにジョカエルを強く睨みつけた。
「今のは貴方のスキルです。どうやら貴方の能力は、自身の魔力を触れさせた対象の『温度』を自在に変調させるようですね。今のは極僅かに皮膚の温度を引き上げ、火傷の一歩手前に調整いたしました」
「こ、これが……僕の……能力……!?」
カイは困惑しながら、再び自身の小さな手を見つめ直した。
「ところで陛下、この数日間の下民としての生活はいかがでしたか?」
「いかがって……散々だよ! 人には騙されそうになるし、怪しい奴らに攫われそうにもなった! だから……こんな惨めな暮らしをしてるんだろ!」
「惨め、ですか。ですが今の世界では、四人に三人が今の陛下のように糧を得られず喘いでいるのが現実です」
「え……?」
カイは絶句し、呆然と口を開ぐ。
「人口の八割は、今日を生きるのも苦しい極貧の暮らしです。陛下のように豪壮な城で暮らせていた者など、一握りもおりません。私の友人なども金銭に困窮し、自らの身を奴隷同然に売り払って生計を立てておりましたが……そうした境遇すらこの世界では日常茶飯事なのです。陛下は……ご自身の治めるべき国がこのような様子で良いとお思いですか?」
「……思うわけないだろ」
カイはぽつりと、掠れた声で答えた。
「霊教国は神の御許、万民が平等の理にあります。少なくとも、今の陛下のような惨めな子供は一人としておりません。だからこそ陛下にも、そのような国を築いていただきたいのです」
「……もし、僕にそんな国が作れなかったら?」
ジョカエルは可憐にクスリと微笑んだ。
「別にどうとも。ただこの旅をここで打ち切り、陛下には未来永劫、この路地裏で今の生活を続けていただくだけです」
「……君は、本当にひどい奴だな」
カイは悔しそうにジョカエルを睨みつけた。
「ひどくなどございません。先ほども申し上げた通り、これが世界の『普通』なのです。貴方がた王家は、これまで何世代にも渡り、さらに多くの民にこの苦痛を強いてきました。別にそれは貴方個人の責任ではありません。……ですが、これから創り出す未来は変えられます」
ジョカエルが前を見据えて歩み始める。カイは何も言わず、その小さくも凛とした背中を静かに追った。
◇
魔王ハクが治める大白の領域――その近郊に広がる荒涼とした大荒野。
「うおあぁぁぁぁぁッ――!!」
アマンの行方不明となったカイ王捜索隊――隊長リユウとその部下たち、そして同行していたジョイエルは、全身に分厚い羽毛を纏った巨大な異形の竜に追い回されていた。
「だめだ! あの異様な羽毛に阻まれ、矢も剣も深手を与えられん!」
悲鳴を上げた一人の精鋭兵が、羽毛竜の巨木のような尾の一撃を喰らい、空へと吹き飛ばされた。
羽毛竜は落下してきた兵を巨口で丸呑みにせんと、空中ではさみ捕らえる。
「あああッ……!」
絶望的な悲鳴が荒野に響き渡る。
「させるかぁッ!」
リユウが鋼糸の結ばれた手裏剣を渾身の力で投擲する!
しかし、硬質化した羽毛の防壁に弾かれ、皮膚へ突き刺さることすら叶わない。
「くそがぁッ!」
絶叫と共に、仲間の肉体が容赦なく咀嚼されていく。
リユウは死線の中で鋭く周囲へ視線を走らせ、岩山に生じたわずかな亀裂を見つけ出した。
「今だ! あの岩の隙間へ滑り込めぇッ!」
リユウとジョイエル、そして生き残った兵たちは、雪崩れ込むように狭い岩の隙間へと転がり込んだ。
「何なんだあの化け物は……王国の領域にあれほどの魔獣など存在しなかったぞ!」
リユウは息を荒らげながら、岩の影から外の様子を伺った。
羽毛竜は息絶えた兵を喰らい尽くすと、ぎろりと血走った巨目でこちらを凝視している。
護衛の兵たちも修羅場を潜り抜けてきた猛者たちだ。
怒りに身を震わせこそすれ、恐怖で動けなくなるような失態は見せない。
(だが……あの化け物をどうやって撃退する……? 去るまでここで耐え忍ぶか……)
そう思案した矢先、羽毛竜が地響きを立てて接近してきた。
グアアアアアアッ――!!
岩の隙間に醜悪な鼻先を無理やりねじ込み、絶望的な腐臭を放つ息を吹きかけながら、中に潜む人間たちを喰らおうと狂暴に蠢いている。
「そうだ……! 今なら……!」
ジョイエルが懐から素早く何かを取り出した。 ――スマホだ。
「ジョイエル! クロ様に救援を乞うつもりか!? 待て、アマン様からは神の助けを簡単に借りるなといわれている!」
リユウは咄嗟にジョイエルの手首を強く掴んで制止した。
「そんな悠長なことを言っている場合ですかッ!」
ジョイエルはその手を強引に振り払い、画面上のクロのアイコンをタップした。
数秒間、能天気な呼出音が荒野に響く。
『ジョイエルかー? どうしたぁ? 私が恋しくなったのかな?』
画面の向こうに、呑気なクロの顔が映し出された。
「クロ様! 助けてください! 今すぐですッ!」
『ん? おう、わかったよー』
通話はそれだけで一方的に切断された。
直後――空間全体を揺るがすほどの圧倒的な転移魔力が満ち渡る。
……と思った瞬間、岩の狭間のすぐ入り口に、何事もなかったかのようにクロが立っていた。
突如として現れた絶大な存在感に、羽毛竜は本能的な恐怖を感じ、思わず絶句して後ずさる。
しかし、次の瞬間――本能の狂気に任せて咆哮を上げた。
クアアアアアアアッ――!!
だが、巨口を大きく開けたその瞬間、魔獣は悟ってしまった。 ――己の確定した『死』を。
羽毛竜は全身の毛を逆立て、恐怖に引きつりながらゆっくりと後ずさる。
だが、全てが遅すぎた。
クロが静かに指先を掲げると、そこに奈落の『闇』が圧縮生成される。
羽毛竜の巨目がその闇を捉えた。 それが、この世で見た最後の光景となった。
咆哮を上げる暇すら与えられず、羽毛竜の巨体はまるで底なしの深淵へ滑落していくかのように、空間ごと『闇』の中へと呑み込まれ、消滅した。
「お前ら……そんなところで何やってんの?」
岩の隙間にぎゅうぎゅう詰めに挟まっていたジョイエルたちへ、クロは呑気な声を投げかけた。
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