第242話 悪魔は笑う
ショウ・エン軍の兵糧庫周辺。
「ふぁああああああ……」
防衛隊長を務めるウキョウは、退屈そうに大きなあくびを噛み潰した。
血煙が舞う前線とは打って変わり、ここは静寂そのもので暇を持て余すばかりである。 見上げる空は澄み渡るほどに青く、敵の奇襲が迫っているような兆候は微塵も感じられない。
「隊長! 近隣の村の者が、日頃の労いと差し入れとして酒樽を届けてくれました!」
部下が慌ただしく駆け寄り、朗らかな声で報告を入れた。
「そうか。では受け取っておけ。ただし、口にするのはこの戦が完全に終わってからだぞ」
ウキョウは緩みかけた気持ちを即座に引き締め、厳格に部下へ指示を出した。
「はっ! ……ですが隊長、村の代表者が直接将軍様にご挨拶を申し上げたいと申しておりますが、いかがいたしましょうか」
「む……差し入れを受け取りながら追い返したとなれば、閣下の名に傷がつきかねん。構わん、ここへ通せ」
「あの……村の代表は女なのですが、よろしいでしょうか?」
「なに? 女だと……?」
「しかも隊長……飛びっきりの極上な美女ですよ」
「バカ者、気を緩めるな! ……だが、面会くらいは受けてやるとしよう」
ウキョウは甲冑を付け直し、威厳を保つように身なりを素早く整えた。
◇
(おお……これは……!)
通された女を目にした瞬間、ウキョウは思わず言葉を失い、見とれてしまった。
艶やかな黒髪に、透き通るような玉の肌。
『ジョシ』と名乗る類稀なる美女を先頭に、村の女たちがウキョウの前で恭しく膝を突いた。
「お目にかかれまして、誠に光栄にございます……」
徐姫は恥じらうように頬を染め、上目遣いでウキョウを可憐に見つめた。
「う、うむ! そなたたちの温かい志、ありがたく受け取ろう。しかし今は戦の真っ只中。この酒は戦いが終わり、勝利の宴を催す際に呑ませてもらうと約束しよう」
ウキョウは目眩を覚えるような美貌に毒気を抜かれつつ、なんとか言葉を返した。
「将軍様……お願いでございます。勝利の前祝いに、ほんの一杯だけでもお酌をさせていただけませんでしょうか。立派な将軍様にお酌をさせていただけたとあっては、村へ持ち帰る何よりの自慢となります……」
ジョシは花がほころぶようにニコリと微笑んだ。
しかし――その艶やかな笑顔の奥底に、極上の【魅了】の魔導が仕込まれていることに、ウキョウが気づく術はなかった。
「そ、そうか……。では、ほんの一杯だけならば……」
「ありがとうございます……」
ジョシは深く頭を垂れながら、陰りで顔を覆い、悪魔の笑みを浮かべた。
ジョシ――その正体こそ、アマンに莫大な報酬で雇われた上級悪魔『徐姫』であった。
◇
ショウの心中は、激しい苛立ちに支配されていた。
本来であれば敵は己の十指に満たない弱小軍勢であり、最悪でも圧倒的な物量で踏み潰せると高をくくっていたのだ。
だが、謎の魔人や伝説の魔獣が乱入し、戦場は修羅場と化した。
さらにショウは、その背後に潜む得体の知れない恐ろしい魔神の気配――感知しただけで全身の毛穴が開くような凍子の魔力を、人知れず感じ取っていたのである。
「閣下、急ぎお耳に入れたき進言がございます」
魔道士シエンが、深く礼を執りながら進み出た。
「うむ……申してみよ」
「この私に精鋭をお預けください。少数で密かに霊都を襲撃し、キョウ王女殿下を身柄ごと捕らえてまいりましょう。王女さえ手中に収めれば、アマンなどただの野盗の群れと同然となります」
「待て! エン家は代々王家に仕えし忠臣だ。我らが討つべきはアマンと魔王であり、殿下に刃を向ける意思など毛頭ない!」
「閣下、どうか目を覚ましてください! 私はアマンどころか、あのキョウ王女こそが、すでに魔王の手先に成り下がっているのではないかと疑っております!」
「何だと……!?」
「そもそも、魔王が王女をさらいながら、無傷で解放するなど道理が通りませぬ。……王女が自らの意思で魔王に付き従い、自らの意志で戻ってきたと考えるのが自然ではございませんか?」
その一言を、ショウは断じて見過ごすことができなかった。
「シエンよッ! 貴様のその王家に対する不敬な愚弄、聞き捨てならん! 本来ならば不敬罪として即刻死罪に処すべき暴言だが……ここには私と貴様しかおらん。頭を冷やし、今日、1日は謹慎しておれ。去れッ!」
ショウは怒りに背を向け、冷たく言い放った。 シエンはそれ以上言葉を重ねることなく、静かに姿を消した。
◇
「ふふっ……たわいもないものじゃのう。これで金貨千枚とは、まことに楽な仕事じゃ」
ウキョウをはじめ、兵糧庫を守護していた部下たちは一人残らず酒に酔い潰れ、泥のように眠りこけていた。 やがて付き従っていた女たちの肉体が霧のように崩れ去り、徐姫の足元へと収束していく。
彼女こそ、かつてチュウエイの手によって召喚され、その後は気ままに各地を渡り歩く傭兵となった悪魔・徐姫であった。
やがて、男たちの荒い寝息が徐々に小さくなり、一人……また一人と完全に止まっていく。 酒杯を握りしめたままのウキョウの手から力が抜け、毒を孕んだ酒が溢れて乾いた地面へと染み込んでいった。
「人間、どうせ最後は死ぬのじゃ。このような甘美な幸福感に包まれて絶命することこそ、至高の救済というものであろう?」
徐姫は倒れ伏した兵たちの魂を優雅に手元へ集めながら、もはや息絶えた屍しか存在しない死の陣中を、楽しげに歩く。
「アマン殿からは何もかも焼き払ってよいと言われておるが……それも勿体ない話じゃの。奪えるものはすべて奪っておくとしようか」
『野槌』――。
本来は物資を保管するための汎用ストレージスキルに過ぎない。
しかし、絶大な魔力を誇る徐姫が打って変わり、うずたかく積まれた大量の兵糧へ向けて白い手をかざすと、空間が歪み、そこにある物資のすべてが勢いよく吸収され始めた。
異変を察知した周辺の見張り兵たちの混乱した足音が、遠くから近づいてくる。
「まあ……こんなところじゃな」
徐姫の全身から破滅的な魔力が解き放たれた瞬間、兵糧陣地は一瞬にして猛烈な業火に包まれた。
「これだけの金があれば、当分の間はまた贅沢に遊んで暮らせそうじゃのう」
徐姫は満足げに一人ごちると、燃え盛る紅蓮の炎の中へと姿を消した。
あとに残されたのは、駆けつけた兵たちの絶望の悲鳴と、幸福な夢の中で命を落とした屍たちが、一人……また一人と炎に呑み込まれていく、凄惨な煙だけであった。
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