64 犬との戯れ?
フェンリルを禍々しい黒い靄が包み込み、その体が膨れ上がっていく。銀髪の男の輪郭は失われ、代わって現れたのは、銀色の毛並みをした巨大な狼の姿だった。同時に、地面に広がった黒い渦からは、意志を持つ蛇のように無数の鎖――『グレイプニル』が這い出し、空間を侵食していく。
直後、フェンリルの姿がかき消えた。
鼓膜を直接叩くような爆音とともに、死神の鎌にも似た巨大な爪が俺たちへと肉薄する。
「っ!?」
俺は反射的に藤宮の襟首を掴んだ。『念装』によって極限まで引き上げられた身体能力を爆発させ、弾かれたように後方へ飛び退く。コンマ一秒前まで俺たちがいた場所には、四筋の深い亀裂が刻まれていた。ホログラムのはずの宮殿の床が、凄まじい衝撃で現実の瓦礫となって弾け飛ぶ。
「神楽、守りに徹しろ! こいつはこっちで引き付ける!」
銀色の光を放ちながら、鬼頭さんが床を蹴った。その姿は既に、人を超越した『オニ』へと変身を遂げている。
鬼頭さんの鋼の拳と、フェンリルの巨躯から繰り出された前足が正面から衝突した。
「ガギィィィンッ!」
およそ肉体同士のぶつかり合いとは思えない、硬質な金属音が空間に響き渡る。
「なかなかの攻撃だぜ、オニ公!」
狼の裂けた口から、愉悦に満ちた声が漏れる。
「よそ見は感心しないわね。……『紅鬼灯』!」
不敵に笑うフェンリルの死角、いつの間にかその背後を奪っていた鬼灯さんの右腕から、猛烈な熱量を伴う紅蓮の炎が噴き出した。
それは瞬時に凝縮され、彼女の腕の一部として鋭利な「刃」を形作る。
鬼灯さんは一切の慈悲もなく、紅蓮の刃をフェンリルへ振り下ろす。
フェンリルがその攻撃を察知し、身を翻そうとした瞬間――鬼頭さんが、フェンリルの前足をガッチリと掴んで固定した。
紅蓮の刃が、フェンリルを捉える。
熱波を伴った一刀は、分厚い獣の肉を何の抵抗もなく焼き切り、前足を両断した。
切断面からは血の代わりにどろりとした黒い靄が吹き出し、切り落とされた足は地面に落ちる前に霧となって霧散していく。
「チッ! オニと殺るのは初めてだが……ハハッ、なかなか楽しめそうじゃねえか!」
フェンリルの全身から、青白い電光が激しくほとばしる。それは雷などではない。超高密度の力が限界を超えて溢れ出している、暴力的なまでの力の本流だ。
揺らめく光の向こう。二体のオニがフェンリルを冷徹に睨み据えている。
◇◆◇
四方八方から、生き物のように蠢く漆黒の鎖――『グレイプニル』が襲いかかってくる。
俺は念動を両手に集中させ、迫りくる鎖の猛攻を正面から引き受けた。狙いを定め、そのうちの一本を強引に掴み取る。
「――おおぉぉっ!」
手に伝わる冷たく不気味な感触を無視し、念装で強化した腕力に全霊の念動を乗せ、力任せに振り回した。引き寄せられた他の鎖たちが、俺の振り回す一本によって次々と弾き飛ばされ、金属同士が激突する火花が散る。
少し離れた場所では、藤宮と鈴が連携して攻防を繰り広げている。
鈴も既に巨大化しており、濃密な「氣」を放ち、グレイプニルの標的を自身に集中させる。
生き物のように蠢く鎖の包囲網を、紙一重の演武のような動きでいなし続ける鈴。彼女が作り出した一瞬の隙を、藤宮が逃さなかった。
「……お願い、ミーちゃん!」
藤宮がその手に構えた『ミョルニル』が、眩い閃光とともに黄金の光弾を撃ち出した。
神話においてフェンリルを縛るために作られた鎖といえど、最強の雷神の力を宿した攻撃はてきめんだった。
黄金の雷を纏った光弾が、逃げ場のない速度でグレイプニルを次々と撃ち抜いていく。
撃ち抜かれた黒い鎖は、まるでガラス細工のように脆く砕け散り、霧となって消滅していった。
「さすがミーちゃん!」
あっちは、問題なさそうだ。
鈴の俊敏性と、藤宮による火力が噛み合っている。
「こっちも、負けてられないな」
俺は、これまで『念装』の応用として密かに練習を重ねていた、未完成の“新技”を使う。
『念刀』——。
その名の通り、念動力を極限まで圧縮し、鋭利な刃の形に固定した武器だ。
「まだ力の制御が不安定だが……強力なぶんには問題ないだろう」
深く呼吸を整え、意識のすべてを一点へと研ぎ澄ませる。脳裏に描き出すのは、一振りの鋭利な『刀』。
体表を覆う念動の衣を右手の拳へと収束させ、その輪郭を固定していく。
拳の先に凝縮された念動力が、空間を歪ませながらバチバチと火花を散らした。やがてそれは、半透明の淡い光を放つ一振りの刀へと姿を変える。
「さて……試し切りといきますか」
俺は光を帯びた『念刀』を握り直し、目前に迫るグレイプニルへ向かって一気に振り下ろした。
「――一閃!」
鋭い呼気とともに放たれた光の刃が、黒い鎖に衝突する。触れた瞬間、粘りつくような強い抵抗が右腕を襲った。まるで鋼の粘土を切り裂くような感覚。だが、俺は構わず全霊の念動を上乗せし、強引にその抵抗を押し通した。
瞬間、グレイプニルは無残に両断され、霧となって弾け飛ぶ。
「よしっ! まだ固定が甘くて『斬る』というより『叩き割る』に近いけど、これなら十分いける!」
手応えは十分だ。
俺はそのまま、四方八方から蛇のように鎌首をもたげて襲い来る黒い鎖の群れへ、自ら突っ込んでいった。
水平に一閃。唸りを上げる念刀が、次々と迫るグレイプニルを断ち切り、粉砕していく。
◇◆◇
「藤宮、鈴! あと少しだ!」
「はいっ!」
「まかせるのじゃ!」
返声とともに、攻撃の速度がさらに跳ね上がった。
鈴が引きつけ、近くは俺が切り、遠くは藤宮がミョルニルで粉砕する。
完璧な連携の前に、無限に湧き出るかと思われたグレイプニルも、次第にその数を減らしていった。
――そして。残りの鎖をすべて叩き伏せようとした、その瞬間だった。
視界の端で、鮮やかな色彩を放っていた風景にピリピリとしたノイズが走る。
それと同時に、今まで俺たちを包み込んでいたサンゴ礁も、豪華絢爛な竜宮城の幻影も、霧が晴れるように掻き消えた。あとに残されたのは、鈍い光を放つ無機質な金属の壁。
そこは、夢の都などではなく、冷徹な機械に支配された「施設」の内部だった。
「なんだこれ? ホロ映像が……消えたのか?」
あまりに急激な変貌に、俺は思わず足を止める。
すると、沈黙していたはずの通信機から、電子音が響き渡る。
「本部からの通信も回復したクワッ!」
通信機を確認していたブッチが声を上げる。
この施設に足を踏み入れてから沈黙していたすべての電子機器が、一斉に息を吹き返していく。
「急にどうしたんだ、一体……」
俺は困惑したまま周囲を見回した。その時だった。
信じられない光景が目に飛び込んでくる。
唐突に、視界を焼き切るような鋭い閃光が走る。
――そして、フェンリルの体を貫いた。




