65 招かれざるもの
唐突にフェンリルの体を、閃光が貫いた。
「――おやおや。急に反応が消えたかと思えば、こんな所にいたんですね」
抑揚のない無機質な声が、無機質な空間に響き渡る。
その声が聞こえた方向に目を向けると、二メートルほどの球状物体が宙を漂っていた。
「ぐっ、ガハッ……! くそっ、ここには近づかないと思ったんだがな……」
フェンリルは口からどろりとした黒い血を吐き、その場に崩れ落ちる。
傷口からは不気味な靄が噴き出し、腐食するようにフェンリルの体を蝕んでいった。
「別に避けていたわけではありません。利用価値がなくなったので、近づかなかっただけですよ」
「どうだかな……」
「そんなことより、これは明らかな協定違反ですよ」
「ガハッ……少し遊んでただけじゃねぇか」
フェンリルが怨嗟のこもった視線を向けた先。
球状物体の上半分が、てっぺんから割れるようにして静かに開いていく。
――そして、そこには椅子に座る“異形”がいた。
異様に大きな頭部。
真っ黒で白目のない眼。
耳元まで裂けた口が、感情の欠落した笑みを形作っている。
「セイヴィア……ッ!」
その姿を視界に捉えた瞬間、俺の口から悲鳴に近い叫びが漏れた。
声に反応し、セイヴィアの首がゆっくりとこちらへ向く。
「――お久しぶりですね、救済対象:E-189467」
目が合った瞬間、心臓が跳ね上がり、背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走る。
数か月前、俺と藤宮を拉致し、尊厳ごと踏みにじろうとした――あの時の記憶がフラッシュバックした。
「おい! そいつは、まだ俺との遊びの途中だぜッ!」
フェンリルが、ふらつきながらも立ち上がり吠える。
「おや、しぶとい。その傷でよく立ち上がれますね」
「はん。この程度、どうってことねぇ!」
強気な態度は崩さないものの、その呼吸は荒く、立っているのが精一杯なのは明白だった。
「これ以上、私の邪魔をするというのなら――『先進五大種族会議』からのペナルティを覚悟してもらいますが」
セイヴィアは淡々と告げる。
「ヘルさんも、すぐには復帰できない現状です。ここであなたまで戦線を離脱するのは、あまり好ましい状況ではないのでは?」
「……くそっ! やつらに報告するつもりか!」
「この施設の隠蔽機能を停止させましたからね。当然、ここもウォッチャーの監視対象になっているでしょう」
フェンリルが苦虫を噛み潰したように犬歯を剥き出し、低く唸る。
だが――やがて大きく一つ、ため息を吐く。
そして全身から放たれていた暴力的で鋭い気配が、ふっと霧散する。
「ちっ……仕方ねぇ。遊びはここまでか……」
忌々しげに吐き捨て、フェンリルは俺のほうを振り向いた。
「……消化不良だがしかたねぇ。もう会うことはねぇかもしれねぇが――運良く生き延びてたら」
不敵な笑みを浮かべる。
「その時は、また楽しもうぜ!」
そう言い残し、フェンリルは出現した漆黒の渦の中へ、吸い込まれるように消えていった。
嵐が去ったあとのような静寂。
俺は心の中で「二度と御免だ」と毒づきながら、正面に浮遊するセイヴィアを射抜くように睨みつける。
半球体に乗ったセイヴィアが、音もなく、ゆっくりと床へ降下してくる。
俺は、いつでも動けるよう神経を研ぎ澄ませた。
背後では、藤宮が顔を真っ青にして震えている気配が、はっきりと伝わってくる。
「さて……もう一度、『救済』のチャンスを与えましょう」
「……断る。誰も救済なんて頼んじゃいない!」
怒りを込めて叫ぶ俺に対し、セイヴィアの裂けた口から漏れる声には、感情の欠片すら宿っていない。
「救済は絶対。不完全な存在であるあなたがたには、理解できないだけです」
――やはり、こいつは俺達を見下し話を聞こうとはしない。
奴にとっての「救済」は慈悲などではなく、呼吸をするのと等しい絶対的な行為。
ある種の盲信にも似た、狂ったロジックに支配されているのが伝わってくる。
「それで……諦める気はない、ってことだな?」
俺の問いかけに、セイヴィアは表情一つ変えず、深淵のような黒い瞳でこちらを見つめ返す。
「無論です。特にあなたの能力は、我らの『悲願』を達成するために不可欠なピース。必ずや、『救済』を受け入れていただきます」
――悲願、だと?
「お前の『悲願』とはなんだ? 何でそこまで俺の能力にこだわる!」
俺は隣にいる藤宮、そして少し離れた場所にいる鬼頭さんたちをちらりと確認しながら問い返す。
「……まあ、いいでしょう。聞かせて差し上げましょう」
そう言って、セイヴィアは悲願とやらを語りだす。
「かつて、この施設で研究されていた『過去への移動』の実現」
過去への移動……タイムトラベルのことか?
「そんなことが、本当に可能なのか?」
「その実現までもう少しなのです。この実験さえ成功すれば、より多くの“救済”が可能になるのです」
たしか過去の改変は、未来を変える危険があるんじゃないのか?
詳しいことは分からないが、映画やマンガでよく描かれる、たしか『バタフライ・エフェクト』だったか?
――過去のほんの小さな変化が、時間の経過とともに連鎖し、最終的に予測もつかないほど大きな未来の変化を生んでしまう現象。
そんな事態になれば、現在はおろか、未来にどんな破滅的な影響が出るか分かったものではない。
「……過去改変の危険性を考えないのか? 些細な変化がすべてを壊す可能性だってあるんだぞ!」
俺の必死の訴えを、セイヴィアが呆れたように答える。
「やはり、理解が足りないようですね」
「どういうことだ!」
「そもそも、時間とはあなたがたが認識しているような“流れる”ものではありません」
時間が……流れていない?
「あなたがた未熟な種族は、未来が『これから創られるもの』だと錯覚しているのです」
未来なんだから、これから創られる決まってるだろう?
「考えうるすべての結末。……成功も、失敗も、あなたがたが選ばなかった別の道も――そのすべては、収録済みの映像データのように、既に『完結した物語』として存在しているのです」
――過去も未来も、最初からすべてが既に存在している、だと?
「我々の『選択』とは、未来をゼロから創ることではない。無数にあるアーカイブの中からどの映像(物語)を再生するか――つまり、どの未来のチャンネルに自分を合わせるかを決めているに過ぎないのです」
こいつが言っているのは、「過去を変える」というのは改変行為ではない。
単に、今見ている物語を閉じて、別の「物語」へチャンネルを切り替える……ただ、それだけのことだと言うのだ。




