61 協定相手は救済野郎?
俺はすぐにROOTSへ連絡を入れた。
状況を説明して、部隊の要請をする。
フェンリルに加え、救済野郎という未知の敵まで浮上した以上、自分たちの身を守りながら鏡見を護衛し続けるのは、今の戦力では不可能だと判断したからだ。
通信の向こうで俺の要請を受けた真神支部長は、事態の深刻さを即座に汲み取り、直ちに精鋭部隊を編成してこちらへ向かわせると約束してくれた。
だが、通信を切る直前。支部長の口から漏れた言葉に、俺は凍りついた。
「――神楽、もう一つ伝えておくことがある。例の『過去からの帰還者』たちだが……先ほど、入院中の病院から忽然と姿を消したそうだ。一人残らずな」
「……本当ですか!?」
厳重な警備が敷かれていたはずの病棟から、療養中だった者たちも含め、全員が煙のように消え去った。
フェンリルの襲撃、救済野郎という未知の敵への警告、そして帰還者たちの集団失踪。
点と点が、俺たちの預かり知らないところで不気味に絡み合い、巨大なうねりとなって動き出している。
底知れない何かが足元から這い上がってくるような、不吉な予感が胸中を埋め尽くしていった。
◇◆◇
昨日の夜はほとんど寝ることが出来なかった。
――外傷がないように見えた鏡見だったが、藤宮が詳しく調べた結果、胸のあたりに小さなアザのようなものが見つかった。
鈴の話によれば、外部から強制的に『氣』をかき乱されているらしい。
呼吸は安定しているが、その眠りはあまりに深く、まるですべての感覚をどこか別の場所に持ち去られたかのように静かだった。
今この瞬間にも、彼女の体内で何かが進行しているのではないか。
もっと速く、奴の牙から彼女を引き剥がせていれば、結果は違ったのだろうか。
答えの出ない問いが脳内を延々と巡り、一秒が永遠に続くかと思われた、長く冷たい夜だった。
軽く身支度を整え、重い体を引きずるようにしてロビーへ降りる。
階段を下る途中で、人のざわめきが聞こえてきた。
ロビーにいたのは、黒服に身を包んだ数人のROOTS職員だった。昨晩、真神支部長に要請した部隊が既に到着したらしい。
そしてその中心には、見慣れた姿があった。
「鬼頭さん。実家の方は、もういいんですか?」
思わず声をかけると、鬼頭さんが頭を俺の方へ向けた。
「家のことは気にするな。話はつけてきた」
「何が話はつけたよ。あの調子じゃ、いくら時間があったって足りないから、話を切り上げてきただけでしょ」
鬼頭さんの背後から、鬼灯さんの呆れたような声が響く。
「なぜ、鬼灯さんまでここに?」
「実家の件ではあなたたちにお世話になったしね。貸し借りは作らない主義なのよ。それに、これから鬼灯家は正式にROOTSと相互協力することになったわ」
不敵に微笑む彼女の隣で、鬼頭さんは黙って腕を組んでいる。鬼灯家が手伝ってくれるなら心強い。
すると、後ろから藤宮の声がした。
「鬼灯さん、おはようございます」
「あら、藤宮さん。おはよう。先日は助かったわ。……鏡見さんは大丈夫?」
「まだ目を覚まさないんです……」
藤宮はそう言って、不安そうな顔で肩を落とす。無理もない、一晩中付き添って、容態が変わらない彼女を見守り続けていたのだ。
「そう、それは心配ね……」
鬼灯さんは表情を曇らせたが、すぐに切り替えるように鋭い視線を俺に戻した。
「申し訳ないけど、昨夜の事をもう少し詳しく聞かせてもらえるかしら? 状況を正確に把握しておきたいの」
俺たちは大人数で座れるロビーのソファ席へと移動し、現状分かっていることを皆に説明した。
「――なるほどね。敵はフェンリルっていう、人の言葉を話す狼なのね?」
「はい。……それと、攻撃には『グレイプニル』という鎖の武器も使用していましたね」
「確か北欧神話に出てくる、フェンリルを捕縛するために作られた魔法の鎖だったかしら?」
「でも今回はフェンリルの意思に従う味方として、攻防一体の厄介な動きをしていましたけどね」
俺がそう言って結を見ると、昨夜の苦戦を思い出したのか、苦虫を噛み潰したような渋い顔をした。
ちなみに、鈴は昨日からずっと鏡見の側を離れず、今も彼女の部屋で付き添っている。
「フェンリル自体の攻撃はどうだったの?」
「基本、前足による打撃と、鞭のような尻尾の攻撃でした。あの時は鏡見を咥えていたから使いませんでしたけど、間違いなく強力な噛みつき攻撃もあるはずです」
「でしょうね。神話でも確か、最終戦争で最高神オーディンを丸呑みにした、世界を食らい尽くす最強の狼だと言われているしね」
鬼灯さんのその言葉に、その場の空気が一気に凍りつく。
伝説上の怪物の名に、誰もが戦慄していた。
だが、俺は一人、静かに思考を巡らせる。奴らが本当に神話に語られる「伝説そのもの」なのか、正直確信が持てなかった。
確かにフェンリルは強い。圧倒的と言ってもいい。
けれど、最近経験した本物の神と比べると……。
あの有無を言わせぬ絶対的な神威に比べれば、どうだろうか。
神の御業は、正直言って俺たちがどうこうできるような次元の代物ではなかった。一瞥だけで因果を捻じ曲げられるような、あの底知れない感覚。
それに比べれば、フェンリルやヘルの攻撃は、どれほど苛烈であっても「力」で対応できる範疇にある気がしたのだ。脅威ではあるが、手の届かない領域ではない。
……いや。
もし、フェンリルたちが、わざと力を抑えているのだとしたら?
そうしないといけない、何かがあるのか?
そう考えた時、ふと脳裏に一つの可能性が浮かび上がる。
あの時、ウォッチャーがヘルに言った言葉。
――“協定違反”。
俺や藤宮たちとの戦闘時、ヘルがとてつもない力を行使しようとした際に、ウォッチャーが割って入って止めた事実。
もしかして、協定によって力を制限されている?
……じゃあ誰とだ?
「……先輩? どうかしました?」
黙り込んだ俺を何事かと覗き込む藤宮の声で、意識が現実に戻る。
「いや……なんでもない。ただ、奴ら以上に警戒しなきゃいけない相手がいるかもしれない、と思ってな」
俺は視線を上げ、みんなを見る。
「フェンリルが去り際に言い残した言葉があります。『救済野郎が動き出した』と」
その名を口にした瞬間、俺の背中を再びあの冷たい戦慄が駆け抜けていった。隣に座る藤宮が、短く息を呑むのが伝わってくる。
俺は、そっと藤宮の手を握る。
微かに震える指先が、縋るように俺の手を強く握り返す。
「前に、ヘルとの戦闘の際に聞いた言葉があります。――“協定違反”だと」
重苦しい沈黙が落ちる中、俺は言葉を選びながら、間違っていてくれと思いながらも、確信に近い推論を口にした。
「もしかしたら、ヘルやフェンリルたちと協定を結んでいる相手……自分を救済者だと言って疑わない奴ら。『セイヴィア』じゃないかって気がするんです」
証拠があるわけじゃない。だが、救済というワードを聞いてから奴のことが頭から離れない。
こう言っては何だが、俺の「嫌な予感」はよく当たる。
――残念なことにな。
「確かに宇宙人にさらわれたという帰還者たちの存在。可能性は高いか……」
そう言った鬼頭さんの表情がより一層険しくなる。
「今回も、かなりの厄介事に巻き込まれたみたいだな」
「――はぁ。俺も不本意なんですよ……」
いや本当に……。




