60 最悪の心当たり!
丸太のような右足が、暴風を伴って眼前に迫る。
「――ッ!!」
凄まじい衝撃音が夜の空気に破裂した。フェンリルの剛脚が俺を捉える寸前、俺は『念装』を右腕に一点集中させガードすると、あえて力に逆らわず後方へ跳ぶことで衝撃を分散させた。
それでも骨が軋む。ガード越しですら、大型トラックに正面から跳ね飛ばされたような破壊力が全身を駆け抜ける。
「ぐ……っ!」
吹き飛ばされながら、今度は足裏に念装を集中させて強引に踏ん張る。それでも勢いは殺しきれず、アスファルトを深く抉りながら十メートルほど後退する。
「ほう。今のを即座にガードしたか。……だが、いつまで持つかな?」
フェンリルの姿が再びブレる。
今度は左、いや、右か。奴は鏡見を咥えたまま、重力を無視したような動きで俺の周囲を旋回し始めた。銀色の残像が幾重にも重なり、俺を包囲する。
(速すぎて捉えきれない……。なら!)
俺は目を閉じ、念動を薄く全方位に広げた。視覚に頼れば惑わされる。肌に突き刺さる殺気と、念動から伝わる微かな『歪み』を直接感じ取る。
――右後方!
俺は念装を解くと同時に、最短距離の瞬間移動を発動。フェンリルの背後、その死角へと一瞬で転移する。
「そこだッ!」
再出現と同時に念装を纏い、拳を叩き込もうとした、その瞬間――。
フェンリルは振り返りもせず、太い尻尾を鋼の鞭のようにしならせ、俺を迎え撃った。
「甘いぞ、小僧!」
――バチィィッ!!
空中で迎撃され、俺はホテルの外壁まで弾き飛ばされた。背中から激突し、コンクリートに亀裂が入る。
「かはっ、……後ろに目でも付いてんのかよ」
「くはは! その程度か、小僧!」
フェンリルが低く笑う。
奴はただの獣じゃない。戦いを知り尽くした、冷徹な戦士だ。
視界の端では、鈴と結がいまだに『グレイプニル』の鎖に阻まれ、こちらへ加勢できずにいる。
俺は壁から這い出し、破片を払いながらフェンリルを睨み据えた。
「なかなか頑丈ではないか!」
「……最近肩が凝ってたんで、丁度よかったよ」
「ほう。言うねぇ」
鏡見を咥えたまま、フェンリルの口角が釣り上がる。
(……考えろ。奴は鏡見を咥えたままだ。そのおかげで噛み攻撃はしてこないが、もし奴の目的が鏡見の生死を問わないのであれば、あまり挑発するのはマズいか)
喉の奥がヒリつく。フェンリルが少しでも顎に力を込めれば、彼女の命はそこで終わる。この状況は完全にこっちが不利、一秒ごとに、彼女の命をチップにした最悪のギャンブルを強いられている。
奴の目的が『生』なのか『死』なのかも分からない以上、一刻の猶予もない。
(……それなら、これしかない!)
俺は纏っていた念装を解き、全意識を転移のイメージに注ぎ込んだ。
「くはは、どうした! やはり諦めたか小僧。その力(念装)無しで、俺様の攻撃に耐えられるのか?」
「……あいにく、諦めの悪さには自信があってね!」
銀色の巨体が地を蹴った。
フェンリルの剛脚が、爆音を伴って俺をめがけて振り下ろされる。
だが、俺は動かない。
奴が俺を仕留めようと完全に踏み込んできた、その刹那――。
――いまだ!
俺の姿が掻き消え、フェンリルの前脚が空を切る。
直後、俺が出現したのは、フェンリルの巨大な顎の真横。猛獣の呼気と、銀色の体毛が肌に触れるほどの至近距離だ。
「なにっ……!?」
驚愕に揺れるフェンリルの緑色の瞳が、間近で俺を捉える。
俺は右手を伸ばし、奴の牙の間に横たわる鏡見の腕をしっかりと掴んだ。
「……捕まえたッ!」
彼女の体温を感じた瞬間、間髪入れずに二度目の瞬間移動を発動させる。
フェンリルが顎を引こうと反応するよりも速く、俺たちの存在はそこから消失した。
ホテルの屋上へと着地した俺は、荒い息を吐きながら腕の中の茜を確認する。
一方、獲物を奪い去られたフェンリルは、追撃する素振りも見せず、忌々しげに鼻を鳴らした。
「ふん。逃げ足の早い奴だ。だが、あの瞬間移動とやらは面白いな。“奴”が目を付けるのも頷けるぜ」
フェンリルが、いまだ背後で戦闘を続けている鈴と結へ視線を向ける。
「少し物足りないが、これ以上は奴に目をつけられるか」
その言葉を合図に、二匹を翻弄していた魔鎖『グレイプニル』が、煙のように淡く霧散した。
「おい、そこのキツネども! 今日のところは一旦引いてやるよ。それから、あの小僧に伝えておけ。――『救済野郎が動き出した』ってな」
フェンリルはそれだけ言い残すと、足元に現れた泥のような黒い渦へと、その巨体を沈めていく。
「待つのじゃ!」
鈴が鋭い叫び声を上げて飛びかかったが、その爪が空を裂いた時には、フェンリルの姿は影も形も消えていた。
後に残されたのは、抉れたアスファルトと、半壊したホテルの外壁。
騒ぎを聞いて集まってきた宿泊客。
そして深夜の静寂を切り裂いて、遠くから近づいてくるパトカーのサイレンの音が聞こえる。
◇◆◇
その後のホテルは、まさに蜂の巣をつついたような大騒ぎだった。
何事かとホテル着姿で集まってくる宿泊客たちに、ライトを振りかざし、抉れたアスファルトや半壊した外壁を神妙な面持ちで検分する警察官。深夜の静寂は、赤色灯の明滅と喧騒にかき消されていった。
俺は騒ぎに乗じて、いまだ意識の戻らない鏡見を抱え、バルコニーからこっそりと彼女の部屋へと運ぶ。
その途中、戦いの場から離脱してきた鈴と結、さらには騒ぎを聞きつけて飛び出してきた藤宮とブッチと合流した。
「先輩、茜ちゃんは……!」
「意識がない。悪いが彼女を任せていいか。念のために怪我がないかも見てやってくれ」
鏡見を藤宮に託すと、彼女は「わかりました」と強く頷き、ブッチと共に部屋の奥へと消えていった。
静かになったリビングの片隅。俺は深く椅子に腰を下ろし、ようやく一つ、大きな息を吐き出す。しかし、休んでいる暇はない。俺は隣に座る鈴と結に向き直った。
「……さて。あいつは、最後に『救済野郎が動き出した』なんて言い残していきやがったんだな?」
「うむ。フェンリルがわざわざ警告を残すとは、穏やかではないのう。『救済野郎』とは何なのじゃ?」
鈴が不機嫌そうに尻尾を揺らせば、結も真剣な表情で頷く。
「……救済野郎、か」
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏にはあのおぞましい顔がちらつく。
異様に肥大化した頭部。白目のない、底なしの深淵を湛えた真っ黒な瞳。そして、耳元まで裂けた口元には、慈悲など微塵も感じられない歪な笑みが張り付いている。
――セイヴィア。
救済という甘美な名を掲げながら、その実態は、多くの生命を拉致し、尊厳ごと弄ぶ実験体へと変える最悪の知的生命体だ。
フェンリルという強大な暴力を前にした時とはまた違う、湿り気を帯びた得体の知れない恐怖が背筋を駆け抜ける。
奴がこの近くまで、音もなくにじり寄ってきている。その可能性に、俺の背中には嫌な汗がじわりと伝わった。
「どうした、顔色が悪いぞ。なにか心当たりがあるのか?」
鈴の声に、俺は思考を現実に引き戻す。
「……ああ、最悪の心当たりがな」
フェンリルは感情を表に出すタイプだった。だが、セイヴィアは違う。
感情を表に出さない、そして他者を理解しようとしないタイプ。
奴は自身の行いを微塵も疑わず、真実「救済」であると信じ切っているようだった。
理解も、共感も、交渉も通用しない。己の正義に従って他者を蹂躙する。あれは、“悪意のない悪”とでも呼ぶべき、救いようのない絶望の体現者だ。




