59 緊急事態です!
無人島での慌ただしい撮影を終え、俺たちは那覇のホテルへと戻ってきた。夕食の席には鏡見も加わり、ひとまず全員でテーブルを囲む。
「茜ちゃん、今日の撮影本当に格好良かったよ!」
藤宮が昼間の余韻をそのままに、鏡見へ興奮気味に感想を伝えている。
「ありがとう、真琴ちゃん」
鏡見は少し照れくさそうに微笑む。だが、その瞳には隠しきれない疲労の色も混じっている。無理もない、あの暑さの中でのパフォーマンスに加え、あんな事件まで起きたんだからな。
「それで……明日の海での撮影は、やっぱり延期になっちゃうの?」
藤宮が心配そうに尋ねる。あの漂流者が救助された後、無人島でのロケは最低限必要なカットを急いで終わらせる形となった。
「ええ。残念だけど、明日予定していた海での撮影に支障が出ちゃって」
鏡見が肩を落として答える。警察側の見解としては、あの男性が漂流・溺水した原因が特定できていない以上、強力な離岸流が発生している可能性も捨てきれないとこと。
そのため安全が確認されるまで、一時的に海域への立ち入りそのものが禁止されてしまったのだ。
「じゃあ、明日はどうするの?」
「一応、那覇市内でのロケもあるから、そちらを先に撮るみたい」
「そうなんだ。頑張ってね、茜ちゃん!」
「うん。ありがとう」
鏡見はそう言って、いつもの笑顔になる。
俺たちはその後、他愛もない世間話をしながら食事を楽しむ。
その際、白狐の鈴と結が「食後のスイーツが食べたい!」と駄々をこねたりと、慌ただしくも平穏な時間が過ぎていく。
そうして夕食を終えた俺は、ようやく自室のベッドへと戻ってきた。
しかし、あの過去からの帰還者たちは本当に宇宙人に誘拐されたのか?
「セイヴィアか……」
部屋のベッドに寝転びながら小さく呟く。
あの『口裂け女事件』以来、同様の行方不明事件の話は聞かない。だが、「宇宙人にさらわれた」という言葉を聞くと、どうしてもあいつとの関連を疑わずにはいられない。
スマホを取り出し、試しに「口裂け女事件」で検索をかけてみる。しかし、ヒットするのは真偽不明の古い記事ばかり。事件の続報はなく、今では話題にする者すらほとんどいなくなっていた。
世界の真実が、またひとつ闇に消えようとしている。
そんな奇妙な喪失感が、沖縄の熱帯夜にじっとりとへばりついているような気がした。
◇◆◇
――真夜中。
俺はじっとりとした寝苦しさに目を覚ます。
嫌な夢を見ていた気がするが、詳細は霧のように霧散して思い出せない。
ただ、心臓の鼓動だけが不自然に速い。
どうやら寝間着に着替えるのも忘れて、寝落ちしてしまっていたようだ。
シャツが嫌な汗で肌に張り付いて気持ち悪い。
「はぁ……シャワーでも浴びるか」
浴室へ向かい、熱めのシャワーで汗と一緒に思考の濁りを洗い流す。
普段使っている寝巻き用のジャージに着替える。
「……喉が渇いたな」
嫌な汗をかいたせいか、喉の奥がからからだ。部屋の冷蔵庫は空だったことを思い出し、俺は冷たい飲み物でも買おうと、深夜の静まり返ったロビーへと降りる。
自動販売機からガタンと、ペットボトルの落ちる音がロビーに響き渡る。
――その直後。
背後から、心臓を直接掴まれるような、強烈な威圧感が押し寄せてきた。
「……エントランスの電気が、消えてる?」
照明が消え、不自然なほどに真っ暗なエントランスの先。暗闇に目を凝らし、視界が慣れてくるのを待つ。そこに浮かび上がってきたのは、四本の脚で地を踏みしめる獣のシルエットだった。
初めは鈴か結が散歩にでも出かけたのかと思った。だが、すぐに自分の見立てが甘すぎたことを悟る。
暗がりに佇んでいたのは、体長五メートルはあろうかという巨体。
月光に照らされ鈍く銀色に輝く体毛に、闇を裂いて発光する冷徹な緑の瞳。そして、その口元に何かを咥えていることに気づき、息を呑んだ。
――あれは鏡見?
「……嘘だろ」
絶望が脳裏をよぎったその時。静寂を破るように二体の白狐――鈴と結が躍り出て、銀色の獣と対峙した。
「鈴、結!」
「茜が少し風に当たるとバルコニーへ出た隙を突かれた!」
「不覚じゃ!」
二匹の顔には鮮やかな赤い隈取が浮かび上がっており、既に神力を解放して完全な臨戦態勢に入っている。
俺はホテルのロビーから外へ飛び出し、二匹の横へ並ぶと、その巨大な獣を射抜くように睨みつけた。
――フェンリル。
ヘルこと美零たち、北欧神話の名を冠する者たちの顔ぶれを思い出し、その名を絞り出す。
ロキ、ヨルムンガンド、そしてヘル。その血族の中でも「最強」と謳われ、神々の王すら呑み込んだとされる伝説の狼。
「……俺様の名はフェンリル。ヘルやヨルムンガンドが世話になったようだな」
獣の口が動いたわけではない。脳内に直接響くような、地響きに似た低い声。フェンリルは咥えた鏡見を傷つけないよう微かに牙を浮かせながら、その緑の瞳を冷酷に細めた。
「小僧、今はお前に用はない。……その命が惜しくば、黙って立ち去れ。今ならまだ見逃してやる」
「生憎だが、そういうわけにもいかないんだよ」
俺は一歩踏み出し、不敵に言い返す。その瞬間、巨大な狼の相貌が、凶悪な歓喜に歪んだ。
「ふははっ! そう来なくっちゃな、面白ぇ!」
フェンリルの咆哮が夜空を震わせる。
俺は精神を集中させ、全身に念装を纏った。不可視の鎧が身体を包み込み、感覚が極限まで研ぎ澄まされる。
それを合図に、鈴と結が左右から弾かれたように飛び出した。
神速の刺突――。
しかし、フェンリルはその巨体に似合わぬ軽やかなバックステップで二匹の爪を回避する。着地と同時に、地を這うような低い声で呪文を紡いだ。
直後、アスファルトを突き破り、無数の黒い鎖が地中から噴き出した。
「――お前たちは、『グレイプニル』の相手でもしていろ」
その鎖は、まるで意志を持つ蛇のように鈴と結へ襲いかかる。
「くっ、この鎖、生きているようじゃ!」
「鈴、油断せぬことじゃ! 絡みつかれたら最後じゃぞ!」
何本もの鎖が、あるものは盾として二匹の進路を阻み、あるものは鞭のようにしなって死角から打ち据える。完璧なまでの攻防一体。神力を解放した鈴と結ですら、次々と繰り出される鎖の連撃を捌くのに手一杯で、フェンリルへ近づくことさえ許されない。
二匹を鎖に引き受けさせたフェンリルは、悠然とした足取りで、標的を俺一人に絞り込んできた。
「邪魔者はいなくなった。さて、少しだけ遊ぼうか」
その言葉が終わるか終わらないかの刹那――フェンリルの巨体が、陽炎のようにブレた。
――速い。
視認できないほどの超加速。
次の瞬間、奴はすでに俺の眼前に肉薄しており、丸太のような右足が、暴風を伴って横殴りに振り抜かれた。




