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52 ……えっと、なにが起こったの?

 その女性は、ゆっくりと周囲を見渡し――

 そして、黒犬へと視線を向ける。


「美零さん!」


 茜ちゃんが叫ぶ。


「鏡見さんお久しぶりね」


 そう言って微笑む。


「あら、ガルム。ずいぶん傷だらけじゃない。思ったより苦戦してたみたいね」


 その言葉に、“ガルム”と呼ばれた黒犬は、まるで叱られたかのように身を低くし、伏せの姿勢を取る。


 ――え。


 さっきまで、あれだけ凶暴だった黒犬が?

 その光景に、周囲のみんなにも一斉に緊張が走ったのが、私にも分かった。


「結、茜の護衛は頼むぞ」


「まかせておくのじゃ」


 鈴ちゃんが低い声でそう告げ、結ちゃんも即座に応じる。


 ……やっぱりそれほどの相手なんだ。


 そう実感したのか、さっきまで怒涛の攻めを見せていた凛さんも、一旦攻撃を止め、完全に警戒態勢へと移っていた。


 私もミーちゃんをぎゅっと握りしめ、いつでも動けるように意識を研ぎ澄ます。

 視線は、女の一挙一動から外さない。


 すると――

 黒犬に向けていた美零さんの視線が、ゆっくりと凛さんへ移った。


 そして。


「あら……」


 どこか愉しそうに、口元を緩めて。


「あなたにも、“大嶽丸ちゃん”の血が入ってるのね」


 そう言ったあと――

 美零さんは、ゆっくりと視線をこちらへ向けた。


「それで……あなたが、ヨルが言ってたミョルニルの適合者ね」


 その声を聞いた瞬間、ぞわりと背中から首筋にかけて、冷たいものが這い上がる。


 ――まずい。

 まるで、獲物を見つけた捕食者みたいな視線。

 睨まれているわけでもないのに、身体が言うことをきかない。


 息をするのも忘れて、ただ呆然とその美零さんを見つめてしまう。


「おい、しっかりするのじゃ!」


 鈴ちゃんの声が、耳元で聞こえた。

 ハッとして、思いきり空気を肺に吸い込む。


 ……あれ?


 私、今――

 美零さんの“気配”に、完全に飲み込まれてた?


 隣を見ると、いつの間にか――

 鈴ちゃんが、大きく変身した姿で立っていた。


 鋭い視線で美零さんを睨み、完全な警戒態勢を取っている。


「ありがとう、鈴ちゃん」


「うむ。油断するでないぞ」

 低く、重い声。


「あやつは……あの犬ころとは、比べ物にならぬ化け物じゃ」


 その警告に、背筋が自然と伸びる。


 たしかに。

 美零さんが纏っている気配は、今まで出会ってきた相手とは明らかに質が違う。


 強いとか、危険とか――

 そんな言葉じゃ足りない。


 自分で言うのもなんだけど。


 今回は、好奇心より先にはっきりとした“恐怖”が、胸の奥から押し寄せてきていた。


「さて……どうしようかしら。当初の目的は達成したけど」


 美零さんは、どこか楽しそうに首を傾げる。


「ガルムも、ずいぶんお世話になったみたいだし……少し、お相手してあげようかしら」


 そう言って、片手を空へと掲げた。


 次の瞬間――

 上空に黒い渦が生まれ、そこから黒い球体が、次々と吐き出される。


 そして、手を振り下ろす。


 黒い球体が、一斉に私と凛さんをめがけて、襲いかかってきた。


「っ――!」


 私は反射的にミーちゃんの引き金を引く。


 放たれた光弾が、迫る黒い球体へと向かう。

 正面から衝突し、一瞬だけ拮抗したあと――


 バチッと弾けるように、両方が霧散して消えた。


 ……威力は、互角。


 でも――正直。

 あれが一斉に向かってきたら、自力で避けられる気がしない。

 一発でも抜けられたら終わり……。


 全部、撃ち落とさなきゃ。


 そう思い、私は次々と引き金を引く。

 光弾はすべて命中し、黒い球体と相打ちになる。


 ――けど。


 黒い渦の奥からは、また新たな球体が溢れ出してくる。


「これ、どうしよう……」


 思わず、呟きが漏れた。


「……切りがないわね」


 すると、視界の端で凛さんが黒い球体を蹴り飛ばすのが見えた。


 蹴り飛ばされた球体は、霧散するように消える。

 ――けど、その直後。


 凛さんが着ている服の一部が、じわりと溶けていくのが見えた。


(え……なに、あれ)


 嫌な予感が背筋を走る。


「凛さん、大丈夫ですか!?」


「ええ。このくらいなら、すぐに治るわ」


 そう答えつつ、凛さんは視線を外さずに続ける。


「でも、あなたたちは気をつけなさい。かなり強力な“酸性の毒”よ」


 ――酸性の毒。


 内心、「すぐ治る」って言葉に興味はあったけど、今はそれどころじゃないよね。


「わかりました。それで……どうします?」


「そうね」


 一瞬だけ考える素振りを見せてから、凛さんは即断した。


「あの女は、私が相手をするわ。藤宮さんは、黒い球体の処理をお願い」

「了解です!」


 返事と同時に、凛さんが地面を蹴った。


 一気に距離を詰め、美零さんへと攻撃を仕掛ける。

 それを合図に、私もミーちゃんで球体を撃ち落とし始めた。


 ――撃ち落としながら、凛さんの戦いを観察する。


 美零さんは、凛さんの攻撃を難なく回避する。そして今度は指先から、炎のようなものを放って反撃している。


 凛さんもその攻撃を上手くかわし、すぐに蹴りを繰り出す。


 でも――当たらない。

 全部、紙一重で避けられている。

 速い……それに、余裕すらあるように感じる。


(このままじゃ……)


「……ミーちゃん」


 私は小声で呼びかける。


「球体を攻撃すると見せかけて、美零さんを狙える?」


 一瞬の間。

 ミーちゃんが、ピカピカと光って応える。


「よし……じゃあ、よろしくね」


 私は息を整え、引き金に指をかける。


「行くよ!」


 引き金を引く。


 光弾が、数発。

 まずは美零さんの周囲に漂う球体へと向かって飛ぶ。


 ――そして。


 直前で、軌道が変わった。


 光弾は鋭角に角度を変え、そのまま――

 襲いかかっていった。


 ――しかし。


 一瞬、美零さんが驚いたような表情を見せたかと思うと、そのまま体を捻り紙一重で躱されてしまった。


(――外れた!?)


 そう思い、反射的に次の弾を撃とうと身構えた、その瞬間。


 美零さんが、ゆっくりと顔を上げた。


 その頬に――一筋、細い線が走っている。

 遅れて、そこから黒い靄が、ゆらりと溢れ出した。


(……え)


 完全に避けた、わけじゃない。


 美零さんが、こちらを振り向く。

 そして、その目を見た瞬間――息が止まった。


 ――銀色。


 ただ、それだけの感想が、頭に浮かぶ。

 さっきまで、確かに黒かったはずの瞳が、今は冷たい光を宿して銀色に輝いている。


「……私の顔に、傷をつけるなんて」


 低く、感情の温度が感じられない声。


 その言葉が終わるより早く――

 空間が、美零さんの膨れ上がる気配で、ぎしりと軋んだ気がした。


 重い。


 息を吸うだけで、肺が押し潰されそうになる。


 立っているのが、やっと。

 足が、地面に縫い止められたみたいに動かない。


 さっきまでとは、明らかに違う。


 ――怒った。


 ただそれだけで、世界の空気が変わった。


 私を含め、その場にいた全員が、言葉を失ったままその様子を見つめていた。


 そして――

 一気に、気配が膨れ上がる。


「……なに、これ」


 思わず、声が漏れた。

 圧倒的な力の奔流が溢れ出し、空間そのものを塗り潰す。

 一瞬で、その場を“支配”する。


 ……体が、動かない。


 誰一人として、指一本すら動かせない。

 抗う術など、最初から存在しないかのようだった。


 胸の奥に、重たい絶望が沈み込んでいく。


 もう、駄目……。


 そう思いかけた時。

 それは、起こった。


 美零さんの正面に、ピンポン玉ほどの大きさの、透明な“光球”が出現した。


 そして、その光球から無機質な声が響く。


『協定違反により、処理します』


 直後。

 美零さん包み込むように、網目状の光の膜が展開される。


「ちょ、ちょっと待ちなさい!」


 美零さんの、明らかに焦った声。


 でも、光球は――

 その抗議など、最初から存在しないかのように、何の反応も示さない。


 網目状の膜が、身体を完全に覆い――

 次の瞬間。


 一気に、収縮した。


 光とともに、美零さんの姿は掻き消えた。


 それに呼応するように、後方に控えていた黒犬も、音もなく消失。


 ただ一つ。

 黒犬が咥えていた細長い袋だけが、ガチャンと乾いた音を立てて、地面に落ちた。


 ――静寂。


 言葉を発することができなかった。


 ……ちがう。

 何が起こったのかを、誰一人として理解できていなかった――

 そう言った方が、きっと正しい。


 そして、どうにか脳が再起動した頃には、あの光球の姿はどこにもなかった。

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