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人生でガチで許せなかった出来事を振り返る。



 私はめったに怒らない。

 一般的な悪口では怒らないし、状況が理解できないほどの不当な体験をしても怒らない。


 カスみたいな言動をされても、なるべく相手の事情を考えてその言動に理解を示そうとするし、正式に謝るならば大抵のことは許す。



 そんな私でも、ガチで許せないと思う出来事がある。それは「2人のカス教師から褒められた」という、地獄みたいな出来事だ。


 人生の汚点と言ってもいい。



◇

 前回のエッセイで私は、「ヤンキーと揉めた」という話を少し書いたが、その後には続きがある。


 ヤンキーたちが興奮して騒ぐから教師がきた。少年院を出て保護観察がついていた私は、面倒事をきらって、仲間に立たせてもらっているヤンキーに手を伸ばし、「俺も悪かったよ。ごめん、これからは仲良くしよう。」と握手の提案をした。


 ヤンキーや教師はあっけにとられていたが、揉めていたヤンキーはバツが悪そうに顔を背け、私の手をとり、「⋯ヤンマー」と言った。


 ヤンマーの意味は分からないが、とりあえず場は納まったのでそれで良かったのだが、問題はこの後だ。



 その場から立ち去ろうとする私の肩を、1人の女性教師が捉え、「〇〇偉かったよ、なかなかできることではないよ〇〇。」と褒めてきた。


 私はそれを『不敬』だと感じた。


 私は「あぁ⋯そうっすか。あざっす。」と言い、注目が続くことを嫌がり、お気に入りの場所へと移動した。


 授業をサボり終わったあと、下駄箱にいる先輩や後輩たちと適当に話していると、また女性教師が近づいてきた。


 私に用事があるらしい。


 友達たちから離れ、窓際に寄った私は、その教師から「あんた、今日偉いことしたらしいやん。〇〇先生から聞いたけどやるじゃん。」と肘で突かれた。


 私はそれを『不敬』だと感じた。

 


◇

 人から褒められることは、本来嬉しい体験である。

 しかし言葉と具合によっては、「普段あなたを侮っています」という告白になりえると私は考える。



 初めに褒めてきた教師は、自身が受け持つクラスからサボりが出ている原因を私だと決めつけ、一時期、全く何もしていない私に対して当たりが強かった。


それは自身の推察能力を過信し、大人として自身のコントロール権を失った、いわば子供の振る舞いである。


そのような人間の口から「偉かったよ」という褒め言葉が出る様子は、普段の私を侮っている節を感じさせると共に、大人としての面目を保つための保身に見える。



 2人目の教師は、死にたいという女子生徒に「それなら地雷原に行ってその命を少しでも役立てたら?」と言い放った人間である。


それは『教師』という役を大幅に超えた自身の思想であり、どんな場合であっても口に出してはいけない言葉である。


そうした言葉の重みが無い人間からの「偉いことしたらしいやん。」という言葉には、敬意や感嘆が少しほども含まれておらず、私(・)に(・)と(・)っ(・)て(・)は(・)全く無駄な言葉である。



 私は『魔界(=秩序が崩壊した地域)』出身ゆえに、普段から、良き人間であろうと心がけて学校生活を送っていた。


グループから疎外され、授業中に遠い目をした生徒には「〇〇さん、大丈夫?」と声をかけ、不登校の経験から学校に来づらい生徒には共通の趣味を持つ先輩を紹介した。


学校帰りのバスで寝てしまい、停留所で運転手から痴漢された生徒の話を聞き、自宅まで送った。


見た目の違いからイジメられ、小学校から不登校だった後輩には放課後掛け算を教えた。


しかし、そうした私の言動が、2人のカス教師によって無遠慮に引き起こされる不具合の尻拭いであるということが当の本人たちは理解しておらず、「偉いことをしたから褒める」という表面的で、安易な上から目線でしか“1人の人間”である私と向き合えなかった。



 つまり私は、カス教師が引き起こした不具合の尻拭いをしていたのに、当の本人たちから「偉い」と言われたわけである。


それはまるで、タバコのポイ捨てをしている張本人から、吸い殻を拾っている様子を褒められているようなものであり、私はそうした自身の言動を省(かえり)みることをせず、相手がしている言動にすら敬意を払えない「褒め」は不敬だと感じる。


 私はあの2人の教師からの「褒め」は、日々の私の姿への侮辱であると考える。


 到底許すことはできない。

 



【あとがき】


 「褒める」とは、ただの言葉や行動だろうか?

 

 私は違うと思う。

 「褒める」という行動に、相手への尊敬や感嘆が含まれていなければ、それは好感度を稼ぐ、あるいは自身の面目を保つための姑息な行為でしかない。


 私が誰かを褒めたのなら、それは御世辞ではない。

 本当にそう思うからそう言っている。


 『金色のガッシュベル!!と心の成長』というエッセイでは、私と付き合っている彼女が私に認められず、悔しい思いをしているという描写があるが、私は安易で敬意のない“褒め”は、人を「褒め不信」にしてしまうと考えている。

 

 あなたは褒められたら、その言葉を素直に信じられるか?

 もし信じられないならば、御世辞が蔓延する社会によって褒め不信になっていると私は思う。だから、人から褒められても、自分で自分を褒めても、肯定感が育たない。


 私はそれはおかしなことだと思っている。



 私が付き合っている彼女は愛着障害と呼ばれる人と信頼を築きにくい特徴がある。そして「褒め不信」でもある。


 だから私は安易に彼女を褒めない。

 以前、もしかしたらそうした自分の考えが間違っているかもしれないと思い、安易な褒めをしていたが、状況の歪さからその褒めが妥当でない、ということを感じ取られ、彼女を傷つけてしまった。


 私はそうした安易で敬意のない御世辞が蔓延する社会はおかしいと感じる。


 だから私は、安易、かつ敬意のない褒めはしない。

 その褒めが、既に褒め不信の人に届かなくても、私は何度でも言い続ける。それが本当のことだからだ。



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