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人の心が壊れる仕組みを考える。






 私は人の心が壊れる仕組みの1つに「世界(自分以外)からの否定」があると思っている。これは高知能者が精神疾患を抱えやすい事と映画『ビューティフルマインド』を見た自身の感想、それとグレゴリーベイトソンのダブルバインドといった話を借りて考えたものだ。


 詳しい人からすると「なんだ、そんな分かりきった話か。」と思うかも知れないが、『世界からの否定』という言葉の真価は、対人関係の構築や誰かの痛みを理解するために役立つ“コンパクトな式”であることだと私は思っている。


 次の項目から人の精神について考える。



◇

 私は最近、とあるアニメを見て「没入感を阻害するものがあり、楽しめなかった。」という感想を抱いた。


これは完全な個人から生まれた感想ではなく、第一線で活躍されているアニメーターの方が、「シリアスシーンの後の重たい空気を緩和するために、次の場面ではデフォルメしたキャラクターを使ってどんよりとした空気をリセットする。」といった話をしていたのを知っていたからこそ、そのアニメに没入できなかった、という感想を抱いた。


しかし、そのとあるアニメを高く評価している人は多くいるので私は肩身の狭い思いをしている。


 これは『世界からの否定』である。


 誰かが私を否定しているわけではないのだが、自身の気質や人生体験から生まれた極小さい思想やある考えは、どうしても多数派という存在から無言の圧力を受けることになる。その無言の圧力を、私は『世界からの否定』と考える。


 ――とは言え、それについて私は精神を病むような気落ちをしていない。私は私であり、他者は他者であるからだ。私が自身の広がりに限りある人生の中で何かに感想を持つように、他人もまた、限りある人生の中で何かに感想を持つのは当たり前のことだ。


 それを踏まえると、『世界からの否定』という式だけでは説明しきれないものがある。


 自身の経験を使って違う角度から考えてみる。



◇

 私は学生のときに、ヤンキーから殴られた事がある。


 ヤンキーが私の上着に鼻くそを付けてきたことから、小競り合いが発生した。


私はそのヤンキーに「お前、いっつも同じ上着着てるな。」と言ったのだが、ヤンキーはその発言に怒り狂い、私の右頬を殴りつけた。


その後、仲間たちに取り押さえられていたがそのヤンキーは「お前!この上着〇〇だぞ!」と叫び、ずっとこの上着がどうのこうの言っていた。


 

 ヤンキーが激昂したのはおそらく、自身の心を守るために纏(まと)っていた自分の中では最高のブランドの上着を、「いつも同じ上着着てるな」という言葉によって貶められたからである。


大人からすれば「いつも同じ上着をきているな」という言葉は「温かいからね。」で済む話だが、多感な10代からすれば、その言葉は「ダサさ」や「貧困」と言われているのと同じであり、メンツを気にし、ブランドの上着で弱い自分を隠していたそのヤンキーからすれば、到底許せない言葉だったのだろう。


つまりこれは、“自分の選択によって選んだ上着を貶められたゆえの激情”であり、人はそうした『自分自身に触れる否定をされたとき』に強いストレスを感じる。


 これも分かりきっていることだが、こうした言語化は『世界からの否定』という式を改良し、人が精神を病む理由の1つを理解する助けになる。



◇

 ヤンキーの話から、人は『自分自身に触れる否定をされたとき』に強いストレスを感じる事が分かった。


そしてそれを『世界からの否定』という式に加えると、『世界からの“自身”の否定』という改良をすることができる。


 “自身”とはなんや?


 という話だが、『自身』とは、その人が強いつながりを感じているもの(例のヤンキーの上着など)や、その人の身体特徴(顔、体毛、毛穴、身長など)、精神的特徴(穏やか、短気、心配性、楽観など)のことを言う。


つまり、『世界からの自身の否定』という式を展開すると、“人は自分を構成するものを否定されたときに精神が壊れる”という話にまとまる。



 それを踏まえると、私のアニメに対する感想が多数派による無言の圧力によって否定されていたとしても、そのアニメに対して私は何の愛着も持っていないし、私を構成する重要なものでもないので、精神的ストレスは感じないのは妥当なのかもしれない。



◇

 『公正世界仮説』という思い込みがある。

 簡単に言えば、「良い行いには幸運を、悪い行いには厳罰を」というものだが、だいたいの人間はそうした思いを持っている。


 私はそうした思いをあまり持っていない。

 悪い奴は普通に生きているし、良い人間がろくな死に方をしないという、人が『混沌』や『地獄』呼ぶような状況が当たり前で、悔しいが『世界』にとって個人の思いや事情なんてものは至極どうでもいいことである、と実感してきたからである。


 自分の事情なんて世界には関係ない。

 病床の人間に対しての「生きてほしい」という祈りは、誰かの生死に影響しない。



 この話を聞いて、あなたが嫌悪や不快感を感じたのであれば、それはあなたの公正世界仮説が私の話によって否定されているからであり、そうであるならば、“『世界からの自身の否定』によって人は心を壊す”という話はそれなりの妥当性があるのだと思う。



 



【あとがき】


 私は命が消える瞬間を見た事がある。


 私はハムスターを飼っていたのだが、部屋の湿度を過度に気にしていた彼女はエアコンを強め、動物看護師の資格を持っていた彼女が「ハムスターは寒さに強いから大丈夫」と言ったことから、私はそれを鵜呑みにした。


 ハムスターの名前は「毛玉」という名前だったのだが、毛玉の体調の異変を感じたその瞬間に病院へ駆け込んだが病院から帰ってくると、毛玉はケージの隅へと歩いていき、その小さな身体がいつもより大きく膨らんだと思ったら、敷いている床材が揺れるほどに息を吐き、それっきり、身体が膨らむことは無かった。


毛玉を両手ですくうと、命が消える瞬間を見たからなのか、そこに毛玉の魂は感じられず、指先をくすぐるまだ柔らかい毛と、温かい皮膚の下にある細い骨の頼りない脆さを両手に感じた。


 私は毛玉に生きて欲しかった。

 しかし、私の考えと意志の足らなさがそうした結果を招いた。


 このエッセイで私が言いたいことは、身近な誰かに長生きしてほしいならば、自分の何気ない言動がその相手を否定していないか気にかけたほうがいい、という話だ。


 毛玉は、私がその存在を否定したために早くに死んでしまった。そうした自分の選択による身近な者の死は、そう何度も経験するものではないと思う。


 『世界からの自身の否定』というフレーズは覚えておいてほしい。



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