『パンク精神』と私。
トゲトゲした文章。
お利口ではない文章。
私は最近、『サイバーパンク』というアニメを観た。
その中で「パンクとは何なのか?」という思いが湧いた。私自身、モヒカンにして鋲がついた洋服を着たパンクファッションをしていたからこそ『パンク』を考えてみたくなった。
パンクにはいろんなものがある。
・体制へのパンク。
・表現としてのパンク。
・精神としてのパンク。
今回は、精神としてのパンク『パンク精神』を考える。
◇
私は、『パンク精神』とは単純な反抗ではなく、“美学を持って反抗を貫く精神の様”なのではないかと思う。
パンク精神を単なる反抗と考えたとき、教師に反抗する不良も『パンク精神』を持っていることになる。
私はその考えに、「不良もパンク⋯?」と釈然としない気持ちを感じる。
この気持ちはおそらく、不良の反抗はまだ始まったばかりのものであり、『精神』と呼べるほどの結晶には、まだ成長していないからではないかと思う。
つまり、『パンク精神』を宿すためには、人生を通すような、長い反抗を続ける必要があると私は考えた。
◇
そしてこれは私の持論だが、反抗をするならば「自分の考えや美学によって、反抗してほしい」と私は思う。
世の中には「パンクとは反抗だ!!」と、言われること、なされること全てに、“反射的にNOを突きつける仕草”をする人間もいる。
だいたいは若い人間であるようだが、私はその仕草がパンクとは対極にある「お利口さんの仕草」に見えて、すごくダサいと感じる。
そうした言動を見ると、腐った玉ねぎに再度潜り込もうとする蛆を見たときよりも、数段、酷いものを見せられているかのように感じてしまう。
『パンク』は確かに反抗である。
しかし、それをそのまま自分の言動に被せ、自分なりの考えや美学の無い「中身のないNO」を繰り返す仕草は、パンクらしく見せるために、解き方も分からない模範解答を用意した小さいお利口さんにしか見えない。
それは違うだろ?
パンクは反抗だ。
だがそれは、誰かが用意した回答を振り回して叫び、自分が凄いやつになった気になるための道具じゃない。
自分なりの考えを持って行動して、譲れない部分には何がなんでも「NO」と言う。そうした人生を歩んでこそ、自身の心に『パンク精神』が宿る。
それに、“パンク”という言葉は分からず屋を意味する言葉ではない。「望まれたから(反射的に)NOと言った」なんてパンクじゃない。
本当に『パンク精神』が欲しいのであれば、自分の人生経験から紡ぎ出した美学を汚すものに「NO」と言い続ける必要があると私は思う。
つまり『パンク精神』とは、人生経験から紡ぎ出された美学を持った人間が、その美学を汚そうとするものに反抗を続けた結果、立ち現れるものなんだと思う。
反抗は、必ずしも対立や争いを呼ぶものではない。
自身の心の中と、それによる人生の選択によってクソな奴らに「NO」を示すことだってできるのを忘れないでほしい。
【あとがき】
私は「なろう」で活動する上で感想欄を封鎖しているが、これには3つの理由がある。3つ目の理由は、少しパンク的と言えるかもしれない。
1つ目は「リアルが忙しいこと」。
私は感想を読み、じっくり考えてから返信をする。今は忙しくてそれができない。
2つ目は「エッセイの趣旨をぶれさせないため」
私が書いたエッセイを読み終えた後の読者の思考タイムをブレさせるような感想を書かせないためである。
3つ目は「誰かの感情のゴミ箱にならないため」
「感想欄を解放してこその作者である」という意見も分かるが、私はそれが絶対、あるいは作者の品格とは思わない。
「なろう」のようなネット小説群は、作者と読者の距離が近く、文章を読み終えた読者がその感情を反芻することなく、高ぶった感情の赴くままに作者へ感想を書くことができる。
そうすると、時たま話題になる「おまえは〇〇が分かってない!」といった“作者の物語や考えに文句をつけて修正することを望む読者”が出てくる。
それは批評ではなく、文句である。
「ここの部分が分かりづらかった」
「〇〇の感情がもっと見たい」
こうした感想であれば作者の力になり得る『批評』であり、場合によってはその先の展開に影響しうるものであるが、作品を読んで不快になり、その不快感を解消するために、動物的な跳躍で作者へ飛びかかって不満をぶちまける様は、私からすればパワハラと同じ構造である。
そうした自身の不満を解消するために、他人を道具として扱う行為は、ハラスメント一覧に並ぶ行為たちを鑑みると明確な問題であり、私はそうした人間がいる以上、自衛策として感想欄は封鎖する。
私のこうした考えに理解できない人もいるだろうが、それで構わない。私は私の表現を守っているだけであり、一時期はそうした多方面に配慮した下書きをたくさん書いたが、どれも吐き気がするほどつまらなかった。
どの下書きも、私の表現スタイルを著しく損なうもので、私は感想欄の開放が向いていないタイプのようだ。
それに、私は他人からの批評を受けずに、尖りすぎた方向へ行ったとしてもその結末を受け入れる覚悟をしている。
そう覚悟した私が、孤独に精神を壊していくのもまた「作品」として一興なのではないかと思っているからだ。




