サイバーパンクエッジランナーズ2を観た感想(やや否定的)
※サイバーパンクエッジランナーズ2のネタバレがある。
念のために断っておくが、あなたが感じた「おもしろい!」があなたにとっての正解である。
私はこのエッセイで楽しみにしていた作品をなぜ楽しめなかったのかを分析している。発表されたときは、目玉をひん剥いて小躍りをした。それから毎日、指折り日にちを数えては、ランナーズ2の配信を楽しみにしていた。
このエッセイは楽しめなかった作品に対する恨みではない。
ランナーズ3を心待ちにしているからこその反省録である(気が早い)。
これを書かなければ、きっと私はランナーズ2の何がハマらなかったのかも分からないままに、「前作のランナーズ2は合わなかったもんな〜」という先入観を持ったまたランナーズ3を観ることになる。
それは『サイバーパンク2077』という作品から生まれたランナーズシリーズに対する冒涜である。
あー、でももし⋯⋯私のようにハマらなかった人のモヤモヤの理解の助けになれば幸いだと思う。
私は昨日、サイバーパンクエッジランナーズ2を観た。前作が面白かったからだ。
しかし、変な知識がついている私に2は合わなかった。
ここから先は2を気に入った人には読まないでほしい。
◇
私はサイバーパンクエッジランナーズ2(以下、ランナーズ2)の世界に没入できなかった。
2077はプレイ済みで、用語が理解できなかったわけではない。
「キョウコ」というキャラクターを見ると、私の目には製作者やデザイナーの姿が映った。
そこにいるわけではないが、私には確かに見えたのだ。
つまり私は、そうしたサイバーサイコシスの兆候によって、あの世界に没入できなかった。
キョウコはサイバーパンクの世界では珍しい三等身である。そして彼女は、大企業アラサカで働いていた元研究員であり、人口コンストラクトを作り上げていることからも、非常に高い技術を持った人物である。
とても興味深い。
しかし、そうした設定たちが私のサイバーサイコシスを発症させかけた。
キョウコは三等身である。
しかし、その必要性とキャラクター背景が分からないために、「シリアスシーンを緩和するためのキャラクター」としてデザインされた“サイバーパンクが持つ重苦しい空気感を否定するために用意されたクッション材”にしか見えなかった。
なぜキョウコは、サイバーパンクの世界では珍しい三等身であるのか?
キョウコはカプリコーンを作り上げるほどの高い技術力を持つはずなのに、トタンをベタ付けしたかのような身体と機械が融和していないチープな改造を顔に施しているのはなぜか?
なぜキョウコの声優として国民的アニメであるドラえもんの声優を起用しようとしたのか?
なぜキョウコはサイバーパンクの世界線として標準的な体型にさせてもらえなかったのか?
考えたって正解なんて分かるわけではない。
――だが、サイバーサイコシスの兆候として精神がブレている私の目には「作品の完成イメージ(=制作陣たちの世界)から逆算してキャラクターをデザインする人間」の姿がずっと見えていた。
◇
私は中学生のころ、クリーチャーデザイナーになりたかった。
クリーチャーをデザインし、それをその世界で息づかせるためには、その世界の理屈や空気感を深く、愛おしく理解する必要があると私は考えた。
世界があるから生物がいるのだ。
キョウコを除くランナーズ2に出てくるキャラクターたちは、不純渦巻く『サイバーパンク』の世界にいそうなデザインだ。
ロマンは、こめかみ当たりにサイバーパンクの世界ではマストな身体改造を少しだけしている。
Dは不純な襲撃によってついた火傷が顔にあり、ネットランナーとしての改造が手の平にもある。
タリアはホットドッグを器用に食べられるほどに精密な機械の口と、壁すら登れる機械の手足を付けている上に、サイバーパンクらしい自由な洋服を着ている。
キングはクロームまみれの身体であり、ある時点からクロームを控えてはいるが、体の状態からクローム利用者であることは分かる。洋服からはナイトシティで生きてきた年季も感じられる。
――だがキョウコは違う。
大人であるはずなのに三等身で描かれ、高い技術力を持つ人間としてはあまりにチープすぎるシャッターのような旧式の機械デザインが顔に貼り付けられている。
洋服のデザインを見れば、サイバーパンクらしからぬ現代風、かつどこか『ドラえもん』の世界がちらつくような色を配置している。
画面に映れば、デフォルメキャラクターのように体や声を大きく使う感情表現を行い、マッドサイエンティストであるキャラクター性を補うために、たまに非倫理的な描写が入る。
これらの様子は、シリアスシーンを緩和するためだけにデザインされた歪な姿にしか見えず、サイバーパンクの世界で生きていたであろう「キョウコ」というキャラクターが、製作者の都合で矮小化されているように見える。
つまりキョウコは、『サイバーパンクの世界』から生まれたDたちとは違い、『Dたちのシリアス』から生まれた付属的キャラクターのように見え、私はそこに制作陣の姿をはっきりと見た。
◇
私は原理主義ではない。
だから2の結末もサイバーパンクの世界線上にあるものとして、いいものだと思う。
ただ、キョウコのデザインやキャラクター性が私にサイバーサイコシスを発症させかけ、そこにいるはずのない製作者たちの姿を見させてしまったのは、とても残念に感じる。
【あとがき】
私は人が死ねば無条件で感動するタイプではない。
私が感動するのは、心の余裕が無くなったときに「投げ出したい、逃げたい」という本能に逆らい、自分の意思で道を決める姿を見たときだ。
ナイトシティには人の心の余裕を奪うものがたくさんある。前作のエッジランナーズでは、そうした環境に奪われてもなお、自分の大切なものを守ろうとしたデイビッドやメインに、私は感銘と感動を抱いた。
ランナーズ2では、みな心に余裕があるように見えた。
その余裕は家族などの関係性や、Vやデイビッドがもたらした被害の恩恵によるものなのだろうが、心の余裕が完全に無い状態での剥き出しの命による選択を好む私には、そこが合わなかったのかもしれない。




