9話
――数日前、王都。
「来たか、シュトラウス。例の件だ」
扉を閉めるより早く、机の向こうから声が飛んだ。
「失礼します」
ヴァルカーは一礼した。小太りの軍務局次長は、その動きを待ちもせず、散らかった書類の山から一通の委任状を引き抜く。
ちょび髭の先を指で撫でながら、年季の入った革張りの机の上へ滑らせた。
封蝋の押された紙が、ヴァルカーの手前で乾いた音を立てて止まる。
立ったままそれを手に取り、依頼先の欄へ目を落とした。
カーター・アイゼンハルト。
外部協力者へ高難度の討伐を委ねる、いつもの書式だった。
だが、添えられた資料の表題を読んだ瞬間、指先が止まった。
鏡の魔獣討伐特務。
「……鏡の魔獣、ですか」
思わず漏れた声は、思ったより低く響いた。
次長は椅子の背にもたれ、短く息を吐く。卓上の地図を広げると、王都から遠く離れた南西の一角に、赤い印がいくつも並んでいた。
「幻に誘われたと訴える者が増えている。討伐隊が二度、丸ごと戻らなかった」
地図の上で、太い指が赤い印を叩く。
「二年前の凍てつく凶霧でも、深霧を壊滅に追い込んだ一因だ。……奴が引き起こした惨事を、おまえも知っているな」
眉間を親指と人差し指で揉み込んだ。
ヴァルカーは何も答えなかった。
その名を聞けば、嫌でも思い出す。
霧を押し留めるために張られた防衛線で、そこにいないはずの誰かの名を呼び、戻れなくなった者たちを。
ともに戦ったはずの仲間に、憎しみを込めた剣を向けた者たちを。
次長の声が、記憶を引き戻す。
「並の隊では、近寄ることもできん。現地には協力を求めてあるが、あてにはするな。予算も、事後の責任の所在も、必要な手続きは済ませてある」
書類の端を整える。
「こちらで道はつけた。あとは、うまく動かせ。いつもどおりな」
ヴァルカーは、委任状の端を指先で押さえた。
返事を待つ様子でもない。
「承知しました」
声だけを平らに整え、委任状を二つに折る。内ポケットへしまうと、机の向こうでは、すでに次の書類をめくる音がしていた。
ヴァルカーは一礼し、執務室を出た。
執務室を離れると、回廊を行き交う伝令や文官たちが、ほんのわずかに歩みを鈍らせた。
こちらを認めた視線は、目が合うより早く逸らされる。書類を抱えた若い文官も、ヴァルカーの前で足を止めると、目を伏せて脇の廊下へ曲がっていった。
禁忌に手を伸ばした英雄。
その傍らにいる者まで、触れれば傷を負うもののように、人は遠ざける。
ヴァルカーは、そうした視線に慣れていた。
「――いつまで、療養の名目であの狂人を放置するつもりだ」
行き過ぎようとしたとき、半ば開いた会議室から、押し殺しきれない苛立ちを帯びた声が漏れた。
ヴァルカーは足を止めた。
扉の隙間に、濃紺の長衣の裾がのぞいている。魔導院の者だろう。
「禁忌に手を出した者を、拘束も処分もせずに抱え込む。それが国家の判断ですか」
「今は、処遇そのものを決する席ではありません」
硬い声が答えた。
「では、何のために抱え込むのです。国境の向こうへ、まだ英雄がいると示すために?」
「あの方が、まだこの国にいると知れれば、それだけで踏みとどまる者もいる」
「国威のために、危うい術者を抱え込むと」
「国威だけの話ではない」
低い軍人の声が割って入った。
「深霧は戻らん。今、あれを失えば、その穴を埋める手立てもなくなる」
室内で椅子が軋んだ。
ヴァルカーは目を伏せる。
あの方を救うという話だけが、その場にはなかった。
量られていたのは、危険か、使えるか、失えば何を失うか――そのことばかりだった。
ヴァルカーは、その場を離れた。
回廊の窓の外で、王都を覆う霧が白く揺れていた。
内ポケットの小さな革袋から、ドライフルーツを一つつまみ、口へ放り込んだ。
噛みしめても、甘みはどこにもなかった。
砂を噛むような味がした。
いつから、こんな味になったのか。
もう、はっきりとは覚えていない。
少なくとも、あの方と出会った頃には、まだ甘かったような気がする。
*
五年前。
そのころのヴァルカーは、自分の才を疑ったことがなかった。
名門の魔導師家系に生まれ、魔導学校では首席を取り、宮廷魔導師にも最速で任じられた。積み上げてきたものは本物だと、自負していた。
もっとも、魔導院という場所に、何の不満もなかったわけではない。
術式の出来より家名。現場で上げた成果より、どの師の系譜に連なるか。どれほど才があろうと、派閥の枠外にいる者には、都合のいい実務だけが回される。
それでも、ヴァルカーは恵まれた側にいた。
名門の出と首席の実績があれば、歪んだ制度の内側でも、上へ進む道までは閉ざされない。
苦々しく眺めながらも、自分の立場を危うくしてまで、それを変えようとはしなかった。
旧い仕組みを覆すだけの後ろ盾は、彼にはなかった。
ある日、向かいの机から同僚が身を乗り出した。
「聞いたか、シュトラウス。魔導学校の怪物が来るらしい」
ヴァルカーが書類から目を上げると、男は肩をすくめた。
「理論も実践も、上の連中が騒ぐほどだと。任官前から、特任の話まで出ているらしい」
ヴァルカーは羽根ペンを置き、わずかに眉をひそめた。
「また、教本育ちか」
口にしてから、その言葉の響きに覚えがあることに気づいた。
――また教本育ちか。
――青いうちは、現場の人間を動かせん。
かつて自分に向けられた、苛立ち混じりの声が、記憶の底で重なった。
ヴァルカーは、羽根ペンの先に滲んだ墨を見た。
それでも、その言葉を飲み込むほどではなかった。
ほどなく魔導院へ来た後輩は、ヴァルカーの予想を裏切った。
派閥の会合には顔を出さない。上席への根回しも、愛想もない。相手の機嫌ひとつで、術式の結論を曲げることもなかった。
そのくせ、結果だけは出した。
崩れかけた防壁術式の綻びを見つけ、誰も手をつけたがらなかった旧式の結界を組み替えた。
現場から持ち帰られた不完全な記録を読み解き、調査隊が進むべき経路を示した。
机上で何日も揉めていた術式の欠陥を、ほんの数行の修正で片づけてみせた。
当然、快く思わない者もいた。
教本育ちの青二才だ。
後ろに、誰かがついている。
成果が続いたのも、たまたまだ。
そんな囁きが、院内のあちこちで交わされた。
ヴァルカーも、はじめはその一人だった。
理論に秀でた異才ではあるのだろう。
紙の上で答えを見つけるのが、人より早いだけだ。
戦場は、そんなふうにはいかない。
そう思っていた。
――四年前の、あの雨の日までは。
*
生温かい雨が、戦場を斜めに打っていた。
丘の上に組まれた見張り台で、濡れた板が靴底の下で鈍く軋む。
眼下では、前線がじりじりと丘の側へ押し戻されていた。
泥を跳ね上げながら迫る魔獣の群れに、盾を構えた兵たちの列が、少しずつ押し返されている。
後方から魔導師たちの術光が断続的に走っても、群れの勢いは鈍らなかった。
後方火力を担う自分たちが、ここまで前へ出た時点で、戦況はすでに常道を外れていた。
視界を埋め尽くす魔獣の群れは、想定をとうに超えている。
前線はもたない。
防壁も、兵の気力も、限界に近かった。
ヴァルカーは顔を濡らす雨を拭い、掌の計算盤の縁を親指で押さえながら、先ほど告げられた手順を頭の中でもう一度なぞった。
後退。砲撃。絶縁術式の同期。結界。
そして、降り続く雨を媒介にした連鎖雷撃。
閣下が、数息のうちに組み上げた作戦だった。
一つひとつは、見慣れた術だ。
絶縁術式など、基礎術式にすぎない。魔力の流れを断ち、術式同士が食い合わぬよう隔てるものだ。
それを複数人で同期させ、退く兵たちを、雨の媒介から切り離す結界へと組み直す。
理屈は通る。
だが、理屈が通ることと、戦場で成立することは別だった。
雨は敵味方を選ばない。結界の位相が半拍でもずれれば、雷撃は退路の内側へ回る。
砲撃で足を止められる時間も短い。泥に足を取られた者も、負傷者を引きずる者も、号令を聞いてなお動けない者も、雷の届かない内側へ収めなければならない。
盤上なら、棄却する案だった。
危険が多すぎる。
それでも、他に札はなかった。
前線の指揮官が、喉を裂くように叫んだ。
「後退!」
命令を受けた兵たちが、ほとんど反射だけで退きはじめる。
直後、砲弾が前線で炸裂した。
湿った空気を震わせる不協和音が、見張り台まで突き抜ける。鼻の奥を刺す臭気に、ヴァルカーは息を詰めた。
魔獣の群れが地を這うように伏し、退路がわずかに開く。
煙の向こうで、人影がひとつ崩れ落ちた。後続がぶつかり、列が滞る。
伏した魔獣が立ち上がるまで、ほとんど猶予はない。
「絶縁術式を同期させろ」
雨音を透かして、平坦な声が届いた。
ヴァルカーは濡れた指を掲げる。手の内の震えを、術式へ押し込めた。
「結界展開――!」
喉の奥から、声を絞り出す。
周囲の魔導師たちが一斉に術式を開いた。
ばらつく魔力の流れへ、自分の術式をねじ込む。わずかなずれを噛み合わせ、退路を囲う結界の拍を、ひとつに揃えていく。
足元を走っていた魔力が、ひとつに噛み合った。
退路だけが、降り続く雨から切り離される。
上質なローブの袖から、一筋の白い手が静かに空へ掲げられた。
雨が、一息に白く弾けた。
轟音とともに、雷撃が地平の果てまで奔る。
霧の奥で蠢く魔獣が、次々と閃光に呑まれていく。
なのに、退く兵たちの背には、一筋たりとも触れなかった。
結界の外側だけを、正確になぞるように走っていった。
轟音が遠のくと、耳の奥に残ったのは雨音だけだった。
見渡す限りの地表に、黒い焦げ跡が広がっていた。
兵たちは呆然と座り込み、誰も声を上げない。
その光景を前に、ヴァルカーの脳裏は白く塗りつぶされた。
掌から、計算盤が滑り落ちる。
それまで自分が積み上げてきた知識も術式も、彼の前では脆い砂細工のように思えた。
あの日、ヴァルカーの世界は塗り替えられた。
後に、万魔の魔導公と呼ばれる、ひとりの魔導師によって。
*
連鎖雷撃事案から、ひと月ほどが過ぎたころだった。
ヴァルカーが前線の記録を届けに執務室を訪れると、机の前に若い魔導師が立っていた。
その向こう、書類に埋もれた机の主は、顔も上げない。
腕には図面を抱え、指先だけが落ち着きなく紙の端を擦っている。
その脇には、専任護衛に就いたカーター・アイゼンハルトがいた。
「だ、第三防壁の継ぎ目に、霧が溜まっています」
若い魔導師は、図面を机へ広げた。
「見張りに眩暈を訴える者が出ていて……補強術式を組み直す許可をいただきたく」
グリモワールは図面へ目を落とした。
指先が、外縁を一度なぞる。
「西へ逃がせ」
それだけ言って、次の書類へ手を伸ばした。
若い魔導師は、しばらく図面を見下ろしていた。
「ですが、西側は旧壁に負荷が――」
「崩れない。西側は、外縁魔力圧が逆位相へ抜けている」
「え? ……外縁魔力圧、が……?」
喉が鳴る。
「……あ、いえ。その、どの術式を使えば」
グリモワールが顔を上げた。
問いのどこに躓いたのか、測りかねるような目だった。
若い魔導師の肩が、わずかに強張る。
「西の基部には、旧式の残留緩衝層が――」
言いかけて、グリモワールの視線が図面の上を移った。
西壁の基部、継ぎ目、外縁を、視線だけが行き来する。
「図面をお預かりしましょう」
カーターが、若い魔導師へ柔らかく声を掛けた。
「閣下に必要な箇所へ印をいただきます。詰所と工事班には、私から話を通しますので、あなたは術式班を集めて、いつでも動けるようにしておいてください」
「で、ですが、夜の番を止めるかどうかも――」
「止めずに済むようにします」
迷いのない返答に、若い魔導師は張り詰めていた息をほどくように頷いた。
「……分かりました」
深く頭を下げ、図面を残して執務室を出ていく。
扉が閉じると、カーターがこちらへ目を向けた。
記録を抱えたまま待っていたヴァルカーと目が合う。
カーターはわずかに会釈し、もう少しだけ待ってほしいと示すように、片手を軽く上げた。
ヴァルカーは黙って頷く。
カーターは図面を机の端へ寄せた。
「閣下。術式班へ渡すため、判断の要点と、今すぐ必要な指示だけいただけますか」
グリモワールは図面を引き寄せた。
余白へ細かな文字を書き始める。
「詳しいところは、問いが来てからにしましょう」
カーターが短く問いを挟むたび、筆先が止まった。
グリモワールは図面の一点を指し、あるいは余白へ数語を書き足した。
やがてカーターは内容を確かめるように目を走らせ、静かに頷いた。
「ありがとうございます。こちらは私が回します」
グリモワールは、もう返事をしなかった。
けれどカーターは気を悪くした様子もなく、図面を丁寧に巻き直した。
カーターが配属されて以来、グリモワールと周囲のあいだにあった軋轢は、目に見えて和らいでいった。
閣下と周囲の者たちのあいだで、彼はよく言葉を拾い、行き違いをほどいている。
グリモワールの傍には、必要な人物なのだろう。
ただ、そんな場面に出くわすたび、ヴァルカーの胸に言い知れぬ不満がくすぶった。
――西の基部には、旧式の残留緩衝層が――。
そこに続く閣下の言葉を、ヴァルカーは聞いてみたかった。
*
二年前の惨劇が、すべてを変えた。
凍てつく凶霧。深霧の壊滅。
魔獣の首魁を討ち取った閣下の名は、救国の英雄として王都じゅうに広まった。
それは、揺るぎない事実だった。
しかし、あの惨劇以来、あの方は本当に変わってしまった。
反魂術。死霊術。生者の領分を越える、封じられた術式。
禁忌の研究に耽る堕ちた英雄――そんな俗な噂を否定する言葉を、ヴァルカーは持たなかった。
あの連鎖雷撃事案の折、ヴァルカーは本気で思い描いた。
グリモワールのもと、旧い慣習を捨てた魔導院が生まれ変わることを。
机上で眠る術式は世へ届き、深霧はその知を携えて、霧の外へ踏み出す。
誰もが足を止める未踏の地にも、あの方なら道を作るのではないか、と。
なのに今やその知性は、たった一体の人形のためだけに、卑しい禁忌へ注がれている。
胸を灼くようなもどかしさを覚えても、ヴァルカーには、あの方を引き戻すすべがなかった。
*
気づけば、回廊の先には王都の外門が見えていた。
内ポケットの委任状が、歩くたびにかさりと鳴った。
その行く先に思いを馳せる。
浮かぶ兄弟の顔に、眉根が寄った。
手癖でまた一粒、ドライフルーツを放り込む。
やはり、砂を噛むような味がした。
それでも、今回は――。
鏡の魔獣。
人の心の奥底を掘り返す魔獣。
――あるいは……。
淡い期待を押し隠し、ヴァルカーは外門へと歩を進めた。




