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10話

 黒く長い鉤爪が、振り下ろされた。


 前へ出たカーターの剣が受け止める。

 火花と金属音が、湿地の静寂を打ち破った。


 「……くそっ。待ち伏せか」


 ヴァルカーの低い声が落ちる。


 ザンッ!


 薙いだ鉤爪から生じた鎌鼬が、顔の横を過った。

 栗色の髪が、ぱらりと散る。


 「ビィ!」


 前方から飛んだカーターの声に、かろうじて答えた。


 「だ、大丈夫……!」


 霧が、視界を切り刻んでいた。

 倒れた幹と、水を含んだ苔。開けた地面は、この一角だけだった。


 霧の向こうでは、カーターが雲を裂くもの(ヴォルケンライザー)の前脚を剣で受け流している。

 鉤爪が刃を噛み、火花が散った。


 カーターの背後、木々の隙間に立つヴァルカーが、片手で術式を組み上げる。

 淡い光が霧を透かし、魔獣の翼へ走った。


 ビィはさらに後ろで、足を縫い止める術を差し込もうとしていた。

 しかし――


 カーターが魔獣へ踏み込み、雲を裂くもの(ヴォルケンライザー)が翼を打つ。

 その間を、ヴァルカーの術光が横切った。


 射線がめまぐるしく重なり、狙いを定める暇がない。


 その時、雲を裂くもの(ヴォルケンライザー)は翼をひるがえし、ヴァルカーの術から身を外した。

 鱗に覆われた巨体が、霧の向こうへ沈む。


 ――今のうちだ!


 指先へ意識を集める。

 術式の輪郭が、薄く浮かびかけた。

 だが、次の瞬間には砂が零れるようにほどけていく。


 「っ……」


 まただ。こんな時に。

 もう一度、と指先へ力を込める。


 ふと、霧の奥で、何かが光を返すのが見えた。


 木々の隙間。

 水面へ月光が落ちたような、薄い揺らぎ。

 目を凝らすより早く、それは霧の向こうへ消えた。


 「……?」


 ビィは眉をひそめ、指先へ意識を戻す。


 霧を裂いて、重い羽ばたきが鳴った。

 白い靄を押し下げるように巨大な影が落ち、鉤爪がカーターの肩口へ振り下ろされる。


 カーターは半歩踏み込み、剣を立てた。


 ギィン……!


 耳を刺す音が響く。

 爪が刃を滑り、足元の土を深く抉った。湿った腐葉土が跳ね、カーターの外套を汚す。


 魔獣の体勢が、わずかに傾く。


 その隙に、ヴァルカーの指先で組み上がった術式が、淡く白く収束した。

 けれど、その光が向いているのは、翼の根元でも、むき出しの脇腹でもない。


 その先には、剣を構え直す、カーターの背――。


 「ヴァルカーさん、そこは――」


 白光が走る。


 カーターは振り返らなかった。

 けれど、何かを避けるように、わずかに身を沈めて横へ滑る。

 光は外套の端を焦がし、背後の太い幹へ突き刺さった。爆ぜた樹皮が、霧の中へ散る。


 同時に、カーターの剣が翻る。漂う霧へ向けて。

 その刃は空を切る――はずだった。


 ざくり、と鈍い音がした。


 白い靄の奥で、鱗に覆われた胸が仰け反る。血が細く弧を描き、雲を裂くもの(ヴォルケンライザー)の巨体が現れた。

 しかし、カーターは魔獣を追わず、周囲へ視線を走らせる。


 その視線がビィを捉えた瞬間、声が飛んだ。


 「下がれ!」


 ――また、足を引っ張るのか。


 耳元で、誰かが囁いた。


 息が止まる。

 身体が、動かなかった。


 カーターの手が腕を掴み、引き倒されるのと同時に、鉤爪がその場を薙いだ。

 すぐ脇の太い木の幹が、鈍い音を立てて裂ける。


 ――何が、起こっているんだ……?


 「チッ!」


 ヴァルカーの鋭い舌打ちが聴こえる。

 彼は霧の奥を睨み据えたまま、組みかけた術式を解いていた。


 「……鏡の魔獣《イルジオンシュピーゲル》の幻惑か……」


 短く吐き捨ててから、こちらへ鋭い視線を向けた。


 「見えているものを信じるな。聞こえた声にも返すな」


 聞こえた声にも。

 背筋に、遅れて冷たいものが走った。


 理解するより早く、雲を裂くもの(ヴォルケンライザー)が翼を打った。

 巻き上がった霧が、周囲を塗り潰す。

 剣のぶつかる音が二度、三度。次いで、太い枝がへし折れる音がする。


 「カーター!」


 ヴァルカーの声が飛ぶ。


 「ここを持たせろ。離脱する」

 「了解した」


 短い答えが返ると、カーターの声がこちらへ飛んだ。


 「ビィ、行け」

 「嫌だ」


 考えるより先に、言葉が出た。


 「兄さんを置いていけるわけないだろ!」


 霧が揺れる。

 その隙間から、カーターの背が見えた。

 雲を裂くもの(ヴォルケンライザー)と正面から向き合い、翼の付け根へ剣を突き立てている。


 「行くぞ!」


 横から、ヴァルカーの手が腕を掴んだ。

 振りほどこうとした、その指が――黒く濡れた鉤爪に見えた。


 息を呑む。

 節ばった人の指に、鱗のようなものが重なる。指先だけが長く伸び、腕へ食い込んでくる。


 「っ……!」


 反射的に、手を引く。

 その向こう、霧の奥で金の髪が沈むのが見えた。


 「兄さん!」


 叫んで、ビィはヴァルカーの手を振りほどいた。

 金の髪へ向かって駆け出す。


 霧が、ふいにほどけた。


 目の前には剣を構えた兄。

 そして、迫る鉤爪――。


 「ビィ!」


 横から、カーターに突き飛ばされた。

 強い力に弾かれ、背中から地面へ転がる。

 頬に、生ぬるい何かが散った。


 カーターが、立っていた。雲を裂くもの(ヴォルケンライザー)との間に、盾のように。


 剣を構えたまま、わずかにこちらを振り返る。


 「大丈夫か」


 その胸元が、深く裂けている。

 暗く重いものが溢れ出して、霧の湿り気の中をゆっくりと落ちていく。

 頬に散ったものが、何か、わかった。


 「逃げろ」


 鋭くそれだけ言うと、カーターはすぐに雲を裂くもの(ヴォルケンライザー)へ意識を戻した。

 剣を構え直し、再び魔獣と向き合う。


 ――待って。


 膝が笑っていた。それでも立った。

 術が組めなくていい、隣にいるだけでいい――と前へ踏み出したところで、首根っこを掴まれるように腕を引かれた。

 ヴァルカーの手だ。


 「離して、兄さんがあんな――!」

 「ここに残れば、またあいつに庇わせる」


 引く手に力がこもる。


 「足手まといだ!」


 肺の底まで刺さった。


 「……あいつなら大丈夫だ。君は知っているだろう」


 続く声は、ひどく静かだった。

 それが余計に、胸に沈んだ。


 返す言葉がなかった。


 霧の向こうへ駆け戻りたい衝動は消えない。

 それを奥歯で噛み殺し、引きずられるように走り出した。


*


 枝を払い、ぬかるみに足を取られながら、霧の中を駆けた。


 背後では、羽ばたきと剣戟が途切れ途切れに響いている。

 遠ざかっているのか、霧に呑まれているのか、もうわからなかった。


 それでも、振り返りそうになるたび、ヴァルカーに引かれる腕が、ビィの身体を前へ連れていく。


 垂れ下がった枝を避ける拍子に、腕を掴んでいたヴァルカーの手が離れた。


 その瞬間、足が宙を踏んだ。


 斜面だとわかったのは、転がり始めてからだった。

 木の根が脛を打ち、泥が口に入り、空と地面の区別がつかなくなる。


 手が、伸びた。

 いつもそこにあるはずの――兄の手を探して、指先がさまよう。


 虚空をつかむ。


 斜面の底に叩きつけられて、しばらく何も聞こえなかった。

 羽ばたきも、剣の音も、ヴァルカーの声も。


 霧だけが、静かに流れていた。


*


 右手が、まだ虚空を探っていた。


 さっきまで引かれていた感触を追うように、指が何度か霧を掴む。

 泥の冷たさが、指先からじわりと這い上がってきた。起き上がろうとした途端、足首に鈍い痛みが走る。


 息を詰めて、そっと体重をかける。


 ――折れてはいない。たぶん。


 それだけを確かめて、ビィは立ち上がった。


 「ヴァルカーさん……! 兄さん……!」


 声は白い霧の中へ吸い込まれた。

 返事はない。羽ばたきも、剣がぶつかる音も、何も届いてこない。


 斜面の上を見上げた。濡れた土と木の根が、少し先で霧に呑まれている。

 さっきまで続いていたはずの足跡も、もう辿れなかった。


 ――戻らなければ。


 足首をかばいながら、斜面へ向けて一歩を踏み出す。


 術式を組もうとした。

 けれど、指先へ集めようとした魔力は、形になる前にほどけて消えた。


 今だけは。せめて、兄さんのところへ戻るために――。


 霧が、変わった。


 肌にまとわりつく白さが、急に重くなる。

 濡れた布を顔に押しつけられたように息苦しい。視界を隠すだけだったはずの霧が、考えの隙間へまで入り込んでくる。

 踏み出した足が土を踏んだはずなのに、どこへ体重を預けたのか、急にわからなくなった。


 足裏の感覚が、薄い。


 霧の奥で、水面のような淡い揺らぎが走った。


 ――鏡の魔獣《イルジオンシュピーゲル》。


 幻惑が、始まっている。


 湿った土の匂いが、ふっと遠のいた。


 白い霧の向こうに、見覚えのある天井板が浮かぶ。

 低くて、少し埃っぽい、見慣れた天井。


 窓の外では、子供たちが笑っている。

 熱で火照った頭で、ぼんやりと聴いていた。


 自分は窓を開けることもできなかった。

 寝返りを打つだけで、頭の奥がずきりと脈打った。


 廊下が軋む音が聞こえる。

 ひとつ、ふたつ。聞き慣れた足音が近づいてくる。

 甘いミルク粥の匂いがした。


 はやく、はやく……。


 その足音だけが、ビィの世界のすべてだった。


 ――幻だ。


 足首に鋭い痛みが走った。


 森にいる。

 ここは、あの部屋じゃない。


 痛みに縋るように、足を踏み出す。


 靴底の下で、泥が硬くなった。石畳の角が、足裏へ鈍く当たる。

 幼年学校の中庭だ。


 広場の端に、小柄な子供が立っている。

 汚れた袖口を握りしめ、肩をすぼめていた。


 「おい、親なしのチビ。こっちに来るなよ」

 「うつるだろ」


 笑い声が重なる。

 肩が、さらに縮こまった。


 できるだけ体を小さくして、壁際の影へ溶けようとした。

 いなくなれないなら、せめて見えなくなれるように。


 門のほうを、ちらりと見やる。

 兄の迎えは、まだ来ない……。


 ――足を、止めるな。


 泥に汚れたズボンを握りしめ、歯を食いしばる。


 石畳が、にじんだ。


 いつの間にか、薄暗い廊下に立っていた。


 半開きの扉の向こうから、紙とインクの匂いが流れてくる。


 「……あいつ、ちょっとデキるからって」

 「鼻につくんだよな」

 「小賢しいんだよ」


 壁の向こうで、声が低く笑った。

 同じ教室の、誰だったか。


 息を吐く。

 そうか、と思った。それだけだった。

 怒りも、悲しみも、どこかへ落ちていった。

 飲み込むことには、もう慣れていた。


 霧が、滲んだ。


 石床がやわらかく崩れ、湿った土を踏む感触に変わる。


 深い、針葉樹の森だった。

 砕かれた苔の匂い。その奥に、焦げ付いたような残り香が混じる。


 霧の中に、横たわる影が見えた。


 足が止まる。


 金の、髪だ。

 泥に汚れた、動かない、金の髪。

 霧がその輪郭をぼかしても、色だけははっきりと見える。見えてしまう。


 目が、逸らせない。


 ――兄さん……


 喉の奥で固まったまま、出てこない。

 影は、動かない。


 自分を突き飛ばした背中が脳裏をよぎった。


 正面から振り下ろされた鉤爪。胸元へ沈んだ、鈍い音。

 身体の奥から、冷たいものが這い上がってくる。


 兄が、いなくなる。

 自分の手が届かないところへ行ってしまう。


 膝が、折れそうだ。

 ここに座り込んでしまったら、もう立てない気がする。

 でも、それでもいいような気も、する。霧の中に沈んで、何も見ずに、何も考えずに……。


 ――足手まとい。


 自分の声だった。

 誰でもない、頭の中に鳴った、自分の声。


 今もそうだ。

 兄はまだ霧の向こうで戦っているのに、幻に足を縫い付けられている。

 足を止めて、膝を折りかけて、兄が迎えに来るのを待とうとしている。


 ――またいつもの、僕だ。


 拳を、握る。

 爪が泥ごと掌に食い込んだ。


 「兄さんに――」


 声が震えた。

 霧に呑まれて、すぐに消えた。


 それでも、もう一度息を吸う。


 「愛想を尽かされたくないんだ!」


 叫んだ声が、針葉樹の間へぶつかって消える。


 強くなりたいと思っていた。

 役に立ちたいとも思っていた。


 けれど、喉の奥からこぼれたのは、そんな綺麗な願いじゃなかった。


 捨てられたくない。

 置いていかれたくない。

 ――兄がいない場所に、ひとりで残されたくない。


 それだけだった。


 呼吸が荒い。膝が笑っている。魔力は、とうに底をついていた。

 それでも、頭だけが動いている。


 正面から術を組んでも、霧散する。

 今の自分では、幻惑の内側を潰すだけの魔力はない。


 ならば、外縁を叩く。


 幻惑は、外から感覚を塗り替えてくる。

 内側へ手を伸ばせば、その分だけ魔力を持っていかれる。侵食の境目だけを崩せばいい。


 霧の濃さ。足裏から消えた感覚。さっき見えた像。

 ばらばらだったものが、頭の中で勝手に噛み合っていく。


 反転霧の極性を逆に使う。

 逆位相の干渉を一点に集める。

 触媒が一つあれば――。


 懐を探ると、指先が小瓶に触れた。

 月光草の蒸留液。使えば、爆ぜる。

 冷えて、震えて、倦怠感で骨まで重い指が、それでも迷わず動く。


 小瓶を抜き取り、霧のもっとも濃い一点へ向けた。


 白い靄が、そこだけ裏返ったように揺らぐ。

 横たわる影が、金の髪ごと、ひときわ大きく歪んだ。


 霧が、弾けた。

 視界が白く塗りつぶされる。


 次の瞬間、泥の冷たさが足の裏に戻ってくる。

 足首の痛みが鋭く蘇った。

 針葉樹の、生の匂いが鼻腔に飛び込む。


 本物の霧だ。

 粘りつくような重さが消え、頭の奥が澄んでいく。


 術が、通った。


 崩れそうな膝を、どうにか支える。

 荒い息をひとつ吐いて、泥に沈みかけた足を踏み直した。


 ――兄のもとへ、向かわなくては。


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