11話
はぁっ、はぁっ……
足を引きずるたび、足首の奥に鈍い痛みが走った。
泥に沈んだ靴を抜くだけで、息が切れる。それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
――兄さんのもとへ。
白い霧を掻き分け、歩を進める。
その先で、不意に森が静まった。
剣戟も、羽ばたきも、魔獣の唸りも聞こえない。濡れた針葉樹から落ちる雫だけが、どこか遠くで泥を打っていた。
「……ヴァルカーさん?」
霧の底、太い木の根元に、見慣れた濃紺のローブが見えた。
ヴァルカーは、泥の上に座り込んでいた。
裾は黒く濡れ、片手は力なく地面に垂れている。
焦点の合わない瞳は虚空を見つめ、唇だけが、そこにいない誰かへ答えるようにかすかに動いていた。
「ヴァルカーさん!」
返事はない。
――まずい、幻惑に囚われている。
ビィは痛む足をかばいながら、泥のそばへ膝をついた。
腰の小袋から、気付け薬の硝子筒を取り出した。
ヴァルカーの顔の前で握り潰す。
ぱきり、と乾いた音がした。
硝子の欠片とともに、青白い粉がふわりと広がる。
湿った霧の中を漂い、ヴァルカーの鼻先をかすめた。
「ヴァルカーさん。聞こえますか」
長い睫毛が、わずかに震える。
瞳が、霧の奥から現実を探すように揺れた。
「しっかりして。ここにいます。ヴァルカーさん――」
紫青の瞳が、ひとときビィを映した。
けれど次の瞬間、その視線はまた、彼の背後にある何かへと逸れていった。
*
――……カーさん。……しっか……して……。
誰かが、自分を呼んでいる。
声が、遠い。
ここは……どこだ……?
肺を刺す針葉樹の芳香が、薄れかけた魔霧に閉じ込められた死臭と混ざり合っていた。
ぬかるんだ足元に、黒い塊が沈んでいる。
霧の切れ目から、裂けた魔獣の腹や、泥に伏した人の腕が覗いた。
靄のかかったような頭を抱えながら、ヴァルカーは周囲を見回した。
そうだ。
森を満たしていた魔力の濃霧が、雪へ変じたと報せがあった。
魔力を帯びた霧は、天候で姿を変えるものではない。
その異常を確かめるため、偵察に入った。
針葉樹の枝には、いつの間にか白いものが積もり始めている。
木の根元に、杖を握ったままの魔導師が伏していた。
喉元から突き出た細い矢は、斥候が用いるものだ。
すぐ脇には、短弓を胸に抱えた斥候が倒れていた。
腹には、護衛剣士の制式剣が深く食い込んでいる。
その少し先で、盾を抱えた護衛剣士の背が、丸く黒く焼け抜けていた。
あたりには、魔術の残滓がまだ薄く漂っている。
口元を覆う手が、わずかに強張った。
異常個体が招いた惨状から目を逸らし、歩を進める。
足が、止まった。
霧の切れ目に、地面を大きく抉った黒い裂け目が見えた。
苔は細かく砕け、剥き出しになった木の根が焦げている。
焦げついた空気の奥に、湿った苔の匂いが残っていた。
そのすぐそばに、見慣れたローブがあった。
小柄な人影が泥の上に膝をつき、何かを膝に抱えている。
ところどころ赤錆色に固まる金糸、投げ出された腕には、見慣れた革手袋。
ひゅっ。
一瞬、息が詰まる。
カーター・アイゼンハルト。
抱え上げられた胸は、もう、息を返さなかった。
物言わぬ骸を抱いたその人は、やがてゆっくりと空を仰いだ。
「いやだぁぁぁぁぁぁ!」
ヴァルカーの肩が跳ねる。
あの顔に、これほど強い感情が浮かぶのを、ヴァルカーは見たことがなかった。
何ものにも揺らされぬように見えたあの方が。
子供のように――
栗色の、短く刈り揃えられた髪。
惨劇の飛沫を映して、血色に歪んだ瞳。
細かな雪が、泥に濡れた肩へ落ちていく。
砕かれた苔の匂いと、焦げ付いた魔術の残り香が、足元に澱んでいた。
雪と霧の底で、慟哭だけが、世界を拒絶するように響いていた――
――……さん。……しっか……して……。
また、あの声がする。
雪の白さが、滲んでゆく。
「ヴァルカーさん!」
声が、すぐそばで弾けた。
はっと、視界の輪郭が戻る。
周囲は、濃い霧に沈む針葉樹の森だった。
目前には、栗色の、短く刈り揃えられた髪。
霧の底の不安を映して揺れる、紅い瞳が――
「グリモ、ワール……」
*
ヴァルカーに気付け薬を使った後も、ビィは呼びかけを続けていた。
だが、紫青の瞳は、すぐまた宙へ逸れていく。
幻惑が、深くなっている。きっと、鏡の魔獣の本体が近いのだ。
「ヴァルカーさん!」
ビィの幾度目かの呼びかけに、ようやく反応があった。
ヴァルカーの目の焦点が合い始める。その視線はビィを捉え――。
「グリモ、ワール……」
「……えっ?」
グリモワール。
遠い名のはずだった。
王都の奥で、伝承めいて語られる英雄の名。
なのに、その呼びかけは、ひどく耳に馴染んだ。
ズキッ。
こめかみの奥で、何かがひび割れるように痛む。足元が、わずかに傾いた。
「……っ、う」
頭を押さえた、そのときだった。
「ビィ!」
弾かれたように顔を向ける。
霧の切れ目から、ずっと探していた兄の姿が目に飛び込んできた。
「兄さん……!」
思わず、足を踏み出す。
足首がじくりと熱を返すが、気にならなかった。
――よかった、無事だったんだ……!
胸につかえていたものが、ほどけかけた。
こちらに大きく手を振っている。
いつもの微笑み。
振り上げた腕に引かれ、濃紺の外套が揺れる。
その胸元は――大きく裂け、革の胸当てまで深く断たれていた。
「…………」
――兄さんは、強いから。あれくらいの傷、平気なんだ。
革の裂け目の奥に、黒く冷えた血がこびりついている。
――大丈夫だ、兄さんは。
そこから、目が離せない。
自分の呼吸が、荒くなってゆくのが聴こえる。
近づく兄は、いやに静かだ。
呼吸の音が、聴こえない。
その胸は、動いていなかった。
――遅いよ、お兄ちゃん
誰もいない霧へ笑いかけるミアの顔が、ふいに蘇る。
――なんで。
――なんで今まで、気づかなかった……。
清流の石のような冷たさも。
ヒルの傷が腫れなかったことも。
あの傷を負って、難なく戦い続けられたのも。――全部――全部――
その時、ビィの肩先を掠めて走った精緻な炎熱が、カーターの胸を穿った。
「死霊め! 消え去れ! ……その方を、グリモワールを解放しろ!」
ヴァルカーの怒声が、霧を裂いた。
*
霧の底を、二つの影が掻き乱していた。
ヴァルカーが、震える指先で精緻な魔術回路を空中に編み上げる。
幻惑の残滓に揺れる瞳が、濃紺の外套を睨み据える。
指先に灯る炎熱が、点を穿つような線を描き、その胸元へ放たれた。
カーターが動く。だが、それは「回避」ではなかった。
踏み出すための溜めがない。肩も、腰も、足も、一切のぶれがないまま――その姿が、視界から消えた。
火線は宙を裂き、行く手の幹を黒く焦がした。
ヴァルカーが目を見張る。
その視線が空を探るより先に、カーターはヴァルカーの懐へ潜り込んでいた。
外套が翻り、雲を裂くものによる裂傷が露わになる。
そこには、深々と肉を割った暗がりが、冷えきったまま口を開けていた。
カーターは、驚愕に目を見開くヴァルカーの腕を掴み上げ――
ヴァルカーの細い体が、重く湿った魔霧を切り裂いて飛んだ。
鈍い破砕音とともに太い幹へ叩きつけられ、泥濘の上へと崩れ落ちる。
泥に沈んだ指先が、かすかに一度土を掻き、浅い呼気が、白く滲んだ。
森に、静寂が戻った。
針葉樹の冷たい香気と、焦げ付いた魔術の残滓が混ざり合う中、カーターだけが、ひとつの影のように佇んでいた。
*
カーターが弟に向き直り、口元に笑みを浮かべて、歩み寄る。
「大丈夫か? ビィ。怖かっただろう」
弟の肩の震えが止まっていた。
周囲の霧が、音もなく後退する。押し留められるように。重力が変わったように。
ベリー色の瞳が、深い針葉樹の闇を呑み込んで、辰砂の色へと歪んでいく。
「兄さん……」
平坦な声。掠れも、震えもない。
「……いや……」
卑屈な早口が、消えていた。怯えが、消えていた。
その声音には、周囲の気配を押し鎮めるような重みが宿っていた。
「お前は、僕が作った、人形だ……」
ビィ――ヴィンセント・アイゼンハルト。
万魔と称された魔導師は、凪いだ声で宣告した。




