12話
「兄さん……いや……お前は、僕が作った、人形だ……」
そう、宣告された瞬間、カーターの表情が止まった。
凪いだのではない。止まった。眦の角度、口角の位置、わずかに開いた唇の形――慈愛を模した造形が、そのままの輪郭で固定され、光だけが消えた。
清流の色だったものが焦点を失い、ただの透明な球体になっていく。
――ああ、また壊れてしまった。せっかく組み立て直したのに。
惨劇の地、少女の嘆き、過去の再演。そして、兄の異変。
厳重に封じたはずの記憶の蓋に、少しずつ罅を入れ、とうとう叩き割ってくれた。
奥深くに押し込めていたものが溢れ出す。
そう。
その日は、いつにも増して、凍えるような寒さだった。
*
哭き声の森の外縁に敷かれた防衛線は、平野ごと霧に沈んでいた。
夜が明けても、魔力を孕んだ白は薄れるどころか濃さを増し、地平も、森の輪郭も奪い続けている。
湿った土と、血と、焼けた術式の匂い。
防衛拠点の最奥にある指揮所は、扉をくぐった時から、敗色が満ちていた。
「第三拠点、応答途絶……第二も、崩れかけています」
読み上げる士官の指先が、地図の上で小さく震えている。その震えの幅で、ヴィンセントは前線の劣勢を測った。
報告は、届くたびに古くなる。この霧の中では、地図の駒を動かした時にはもう、その部隊が残っているかどうかすら分からない。
――半刻前の、地図だ。
誰も、それを口にしなかった。
泥まみれの伝令が駆け込んでくる。第二拠点は維持、と告げるその男の顔を、ヴィンセントは覚えていた。半刻前、正反対の報せ――「第二拠点、崩壊」を運んできたのは、同じ男だった。
問い質された伝令は、きょとんと目を瞬いた。最初の報告を、覚えていない。
士官たちが顔を見合わせる。二つの報告のどちらかは、幻だ。そして幻は、もう伝令の記憶にまで指を掛けている。
「第四術士隊の支援砲撃が、前衛の第二猟兵隊を直撃。死者、十一」
掠れた声が、報告を続けた。
「誤射では、ありません。猟兵隊の吹いた撤収の信号笛が……術士隊には、魔獣の咆哮に聞こえたと」
合図が、通じない。
仲間の声が、敵の声になる。
ヴィンセントの頭の中を、数字が走り続けていた。防衛線の損耗率。同士討ちの発生間隔――狭まっている。後方の避難路が破られるまで、この調子なら、もって半日。
どの数字も、同じ答えを指していた。
「平野で受け続けても、削られるだけだ」
白髪混じりの戦域指揮官が、潰れた声で言った。頬の古傷に、燭台の明かりが深い影を刻んでいる。
その指が、観測班の描き込んだ魔力の偏りの線――幾重にも重なって森の深部を指す線を、叩いた。
「異常の中心は、森の奥にある。ここを断たねば、防衛線の再建はない。……退くことすら、この幻惑の中ではまとまらん。退けば、崩れた隊から順に、霧に呑まれる」
「……侵入部隊を、ですか」
声を上げたのは、着任して間もない若い士官だ。
「この霧の中へ? 外でこれだけ崩れているんです。森の中では、隊列も伝令も保たない。グリモワールを――国家の切り札を、辿り着ける保証もない森で失えば、そこで終わりです」
正論だ。
ヴィンセントも、同じ結論に行き着いていた。侵入部隊の生還率。中心へ到達できる見込み。どちらも、口にしたくない数字だった。しかし――
「分かっている。分かった上で、だ。……他に策があるなら、聞こう」
指揮官は、深く息を吐いて、そう言った。
若い士官は、答えなかった。天幕の外で、遠い炸裂音がひとつ、湿った空気を揺らした。
視線が、集まる。卓の端に立つ、上質なローブへ。
「グリモワール。……辿り着けるか」
ヴィンセントは、偏りの線を目でなぞった。霧の流れ、魔力の澱み、幻惑の濃度の勾配。奥へ至る経路は、組める。
生きて辿り着ける保証だけが、どこにも見つからなかった。
駐屯地を出入りするたび、馬車で通った表通りが浮かぶ。
窓越しの、灰色の広場。急ごしらえの防柵。荷を抱えて、押し黙って並ぶ人々。
子どもがひとり、馬車の紋章に、すがるような目を向けていた。
――父と母も、こんな朝に、出ていったのか。
帰らなかった。それだけが、今も、いやに鮮明なままだ。
「可能だ」
それでも、短く答えた。
「幻惑には、供給源がある。森の奥に、異常な魔力の核が。それを潰せば、霧はただの霧に戻る。再建も、撤退も、それからだ」
指揮官たちは互いの顔を見た。誰も、代案を口にしなかった。それが、答えだった。
「――深霧を中核に、侵入部隊を編成する」
決定が下り、編成の指示が飛び交いはじめる。士官たちの目が、いっせいに地図へ戻っていく。
ひとつだけ、戻らない視線があった。
顔を上げると、喧騒の端に立つカーターと目が合う。
兄は、何も言わなかった。
地図の上に並ぶ駒には目を向けず、ヴィンセントをただ見つめていた。
*
出立まで、四半刻。
武具庫の脇の薄闇で、カーターが黙々と装備を検めていた。
革の胸当てを着け、留め具をひとつずつ確かめ、籠手の紐を締める。最後に、使い込まれた革手袋へ指を通した。
幼いころから何百回も見てきた、見慣れた手順。その順番は、昔から一度も変わらない。
ヴィンセントはその手元を目で追いながら、頭の中で自分の手順を並べ直していた。
術式の暴走域。退避の線。自分が倒れた場合の、指揮の引き継ぎ。
ひとつずつ確かめる。穴はない。
「兄さん」
人払いした薄闇の中、指揮所では決して呼ばない呼び方で、呼んだ。
「森の中では、僕から離れないで。でも、術を開いたら、前に出ないように気を付けて」
「ああ」
「幻惑が深くなったら、僕の魔力を錨にして。同期は、繋いだままにしておくから」
「分かってる」
カーターは最後の留め具を確かめ終えると、顔を上げて、いつものように笑った。
「お前こそ、無茶をするなよ」
「……僕が倒れる場合の手順は、副長に渡してある」
「そういうことじゃないんだけどな」
苦笑した兄の手が伸びてきて、ヴィンセントの頭に、ぽんと置かれた。
国の切り札と呼ばれる魔導師の頭に、子供にするように。
振り払いはしなかった。熱に浮かされた夜も、両親を亡くした冬も、いつもそこにあった手だった。
「行くぞ、ビィ」
剣帯を締めたカーターが、歩き出す。その背中を、ヴィンセントは当然のように追った。
霧笛が、防衛線に低く響いた。
*
三十人の部隊が森へ入ったのは、正午を回った頃だった。
先導のレンジャーが藪を分け、樹皮に退路の刻みを残していく。魔導師と騎士は二人一組、数組ずつの班に分かれて命綱で繋がれ、声ではなく索の張りで合図を送る。
術は、撃たない。放った魔力は霧鴉を呼び、位置を晒す狼煙になる。だから獣は騎士が刃で黙らせ、魔導師は温存する。
五百歩ごとに隊列を止め、ヴィンセントは観測班と魔力の偏りを測り直した。
精鋭の名に恥じない行軍だった。――最初の一刻は。
「隊長。……妙です」
先導班の長が、樹皮の刻みを指した。自分たちがつけたはずの目印が、これから進む方向の幹にも、刻まれている。同じ角度。同じ深さ。
幻惑は、道標ごと森を複製しはじめていた。
レンジャーの航法が死に、測定の間隔だけが縮んでいく。行軍の速度は、半分に落ちた。
やがて、殿軍から索の信号が来た。退路に残した刻みが、消えている。あるいは、増えている。どちらにせよ、もう帰り道は信用できない。
――前進しか、なくなった。
ヴィンセントは、その計算だけを誰にも告げずに呑み込んだ。
最初の死は、渡渉で来た。
浅い沢を渡るために、隊列が一瞬だけ細く伸びた。その一瞬だった。
霧が裂け、側衛のレンジャー二人が、悲鳴の形にすら間に合わずに倒れた。
ヴィンセントが顔を向けた時には、もう何もいない。爪痕と、血の匂いだけが残っていた。
血臭に狼型の群れが湧き、騎士たちが刃で受ける。魔導師は誰も撃てなかった。射線のすべてに、味方がいた。
――速さじゃない。あれは、隊列が崩れた数秒だけを狩っている。
幻惑が陣形を崩し、崩れた端から、姿も見せない何かが食っていく。示し合わせてすらいない、ただの生態が、部隊を挽き潰していく。
日が傾きはじめた。
誘われる者が、途切れなくなった。存在しない戦友の声。誰も吹いていない集合笛。
弓を引き絞る斥候の足元へ、ヴィンセントは硝子筒を投げて砕いた。青白い粉が霧に散り、斥候の目が揺れて、焦点を結ぶ。
「……あ……隊長……? 俺、は……」
「下がれ。列に戻れ」
一人ずつなら、戻せる。だが、誘われる声は隊列のあちこちで途切れなかった。腰の革帯に残った硝子筒は、あと三本。
霧の外から、鉄を叩く音が届いた。三つ、間を置いて、三つ。
生きている者の合図だ。あるいは、そう聞こえるだけのものだ。判別する手立ては、なかった。
錨で繋がれた魔導師と騎士のペアは、まだ保っていた。錨のないレンジャーから、順に溶けていった。
内周に入ると、幻は記憶に指を掛けてきた。
騎士の一人が、なぜ森にいるのかと問うた。合言葉は、もう意味を持たない。
幻は本人の頭の中から作られる。本人が知っていることは、すべて偽装できる。
偽装できないものは、ただ一つ、ヴィンセントの魔力そのもの――規模も質も、幻には真似のできない署名だ。
以後、生存確認は彼の役目になった。心音のように一定の間隔で魔力を流し、各班は、波を感じたら索を二度引く。それだけの仕組みに、全員の正気が吊り下がった。
波をひとつ送るたび、体温を譲り渡すように、彼の魔力は細く削れていった。
破局は、内側から来た。
詠唱に入った攻性魔導師の硬直を、あの見えない爪が、陣形の内側で狩った。
至近の混戦。跳ね回る巨影。恐慌した誰かが、禁じられていた広域の火炎を解き放つ。
火は巨影に届かず、味方を薙いだ。
術光に照らされた霧の中で、ヴィンセントは見た。
杖を掲げた魔導師の喉に、味方の矢が突き立つのを。
泣きながら次の矢をつがえる斥候の腹を、護衛剣士の制式剣が貫くのを。
その剣士の背が、後方から走った援護の術光に焼き抜かれるのを。
半拍。
毎回、半拍だけ、間に合わない。
握ったままの硝子筒が、掌の中で軋んだ。
駆け出しかけた腕を、カーターが掴んだ。
「駄目だ。もう死んでる」
低い声だった。
「ビィ。俺を見ろ」
肩を掴まれ、正面から目を合わせられる。
同期した魔力の細い流れが、錨のように意識を繋ぎ止めた。
兄の呼吸に自分の呼吸が重なって、ようやく肺がふくらんだ。
数えられる生き残りは、半分を切っていた。
ヴィンセントは岩場に副長を呼び、負傷者と支援魔導師を託した。結界を張り、日没まで持たせる。中心は、残りで突く。
「……戻られるのを、お待ちしています」
副長は、それだけ言った。生還率の数字は、互いに口にしなかった。
穂先は六人で出た。
存在しない草地に誘われたレンジャー二人が泥に消え、四人になり――観測の魔導師が同じ場所を廻りはじめ、引き戻した騎士が、そのまま彼を抱えて脱落した。
気づけば、霧の中を進む足音は、二人分だけになっていた。
*
深部の霧は重く、観測の示す中心は、まだ遠い。
その途上で、それは来た。
霧の中で、地が鳴った。
一瞬前まで正面にいたものが、もういない。轟音とともに、左の樹が根ごと抉れた。爪痕だけが残る。
見えなかった。速度ではない――存在ごと、座標が変わる。
記録でしか読んだことのない名が、浮かんだ。
深淵の斬り裂き手。
象ほどの体躯。しかしその肢体に、無駄な肉は一切ない。長く研ぎ澄まされた四肢が地を蹴る瞬間、巨体であることを忘れる。
気づいた時にはもう、別の場所にいる。木が、石が、鎧が、まるで最初からそこに切れ目があったかのように、音もなく開く。
――侵攻の、先導個体。
異常の中心を探るうち、行き当たった。
避けては通れない。ここで討たなければ、こいつは崩れた部隊の残りを、外縁の防衛線を、順に狩り尽くす。
術式を組む。指先が魔力の経路を辿る。が、照準が定まった瞬間、もうそこにない。
右からの風圧。身を捻るが、肩当が、音もなく開いた。
熱が走り、じわりと滲む感触が、現実を確認させる。
銀閃。
割り込んだカーターの剣が、爪を横へ弾いた。火花が霧を散らす。
その一瞬に、ヴィンセントは術式を組み直す。
霧が揺れ、幻の残滓が視界へ滲む。敵の輪郭が、霧と溶け合っていく。
半日の行軍。署名の波を、何十回、森へ流したか。
指の先はとうに冷え、魔力の経路のいちいちが軋んだ。膝が笑いそうだった。
編むそばから、昼の光景が割り込んでくる。焼き抜かれた背中。岩場に残してきた顔。
――今は、いらない。
全部、頭から締め出す。
意識を、すべて術式に注ぎ込む。あと数拍で、編み上がる。
世界が、経路の光だけに狭まっていく。霧の冷たさも、泥に沈む靴の重さも、遠のいていく――
ザン、と。
鋭い音が、霧を裂いた。
同時に、湿った、重い音が。
顔を上げた瞬間、兄が覆いかぶさってきた。両手を伸ばし、受け止める。膝が泥に沈んだ。
「兄さん――」
背中に手を回した瞬間、指先の感覚に息を呑む。
深く、抉られていた。
鎧の隙間から、肉の奥まで。
掌に溢れてくるものが温かくて、その温かさが、取り返しがつかないことを、皮膚に伝えた。
思考より先に、身体が知った。
何かが頭の中で燃えた。
気づくと、術式が展開されていた。
編みかけていた術が、輪郭を捨てて、ただの導線に変わる。
自分の経路を裂いて開き、周囲の霧に宿る魔力を、強引に引き剥がしては流し込む。
整流も、精製もない。生の魔力が、経路を焼きながら奔った。
余力など、なかった。残っているものを全部、絞り出す感触がした――骨の髄まで。身体の熱が、根こそぎ持っていかれる。
魔力の奔流が、深淵の斬り裂き手を呑み込んだ。
巨躯が、崩れ落ちる。
大地が深く抉れ、黒い裂け目が刻まれた。砕けた苔が焦げ、木の根が炭になって崩れる。
周囲の霧が、光を失っていった。
視界の端に纏わりついていた滲みが、拭われたように晴れていく。
白いものが、ひとひら、頬を掠めた。
雪。
魔力の抜けた霧が、ただの水に還って、凍てつく大気に白く崩れていく。
ヴィンセントの耳から、音が消えた。
静寂が、落ちた。
霧の最奥で、玻璃のようなものが、一度だけ光を返した気がした。
気配が、遠ざかっていく。
追う意識は、もう残っていなかった。
腕の中の重さだけが、世界のすべてだった。




