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13話

 剣戟も、咆哮も、もうどこにもない。

 降りしきる白だけが、音もなく世界を埋めていく。


 ヴィンセントは泥の上に膝をつき、兄の上半身を抱えていた。


 「兄さん」


 呼びながら、掌を傷へ当てる。経路を開く。焼け爛れた魔力は、術の形になる前にほどけて消えた。


 もう一度。


 ほどける。


 もう一度。


 血の広がる速さ。傷の深さ。下がっていく体温。頭の隅で、数字が勝手に答えを出し続けている。


 ――違う。間違っている。こんな計算、当てになるものか。


 空色の瞳が、ヴィンセントを見た。焦点が、合う。

 震える手が持ち上がり、ヴィンセントに触れる。

 その手を、つよく、握ってきた。


 「大丈夫……」


 掠れた、声だった。


 「ずぅっと、いっしょだよ……」


 その顔は、少し苦しげに、歪みながらも、笑っていた。


 握り返して、離さなかった。

 温かさが、指先から失われていく。

 少しずつ、少しずつ。握った手が、重くなっていく。


 「兄さん」


 返事がない。


 「兄さん」


 返事がない。


 「――兄さんっ」


 返事が、ない。


 胸の奥で、何かが崩れた。

 崩れて、底が抜けた。


 「いやだ」


 空を仰いで、叫んだ。


 「いやだ、いやだ、いやだぁぁぁ――」


 兄の身体に縋り付いて、子供みたいに。

 止め方がわからなかった。止めようとも思わなかった。


 どのくらいそうしていたか、わからない。

 いつの間にか声が出なくなっていた。涙も出なくなっていた。

 ただ、冷たくなっていく手を握ったまま、雪が積もるのを見ていた。


 頭が、真っ白だった。


 この後どうすればいいか、わからなかった。

 どこへ行けばいいか、わからなかった。

 兄のいない場所へ、どうやって歩けばいいか――考えようとするたびに、思考が白く塗り潰されて、何も残らなかった。


 傷が痛んだ。頭が熱い。意識の縁が滲んでいた。

 それでも、この手を離せなかった。

 雪が積もり続けた。赤が、白に塗り込められていった。


 そのとき。


 ――あっ。


 思考の隅で、何かが光った。


 反魂術。


 高魔力の結晶を媒介に魂を召喚し、身体に宿らせる――文献で読んだことがあった。禁忌とされている。

 しかし理論上は――魂がまだ消滅していなければ――媒介さえ揃えば――


 術の大半は、媒介の結晶が担う。術者は、接続の経路を繋ぐだけでいい。

 焼き切れかけた、今の身体でも――できる。


 弾かれたように、顔を上げた。

 雪の向こう、黒い裂け目のそばに、山のような影が伏している。

 深淵の斬り裂き手《アプグルント・シュナイダー》の死骸。あれほどの個体なら、高魔力結晶を内包している可能性がある。


 気づけば、離せなかったはずの手を、離していた。

 死骸に手を差し込む。肋骨の残骸が掌を切ったようだが、どうでもよかった。


 指先が硬いものに触れると、それを抉り出す。

 それは手のひらの上で、暗い光を帯びていた。


 鑑定。魔力量――十分だ。属性の比率――合っている。複数条件の精密な合致――全て、揃っている。


 これだ。


 頭の中で、術式の手順が展開されていく。

 媒介となる結晶を中心に魔法陣を描く。冥界との接続を開く。魂を呼び寄せ、肉体へ還す――理論上は、できる。できるはずだ。


 兄の傍らに戻り、膝をつく。

 魔法陣を描く指先は、迷いなく動いた。


 結晶を中心に置き、祈るような気持ちで、残った魔力のすべてを接続へ注ぎ込んだ。

 魔法陣の縁から光が漏れ始め、光柱が立ち昇った。

 目の前の空間が歪み、どこでもない場所への回路が開いていく感覚がした。


 呼んだ。


 兄の名前を、心の全部で、呼んだ。


 開いた回路を、光が奔り――遺体の周りで、淀んだ。

 渦を巻くように停滞し、肌に触れる寸前で、掻き消える。


 …………応えがない。


 ――術式の経路か。


 組み直した。完璧だった。


 ――媒介の条件か。


 鑑定し直した。全て揃っている。


 ――魔力の量か。


 残滓まで絞り出した。光柱が一段高く昇った。

 それでも、応えは、ない。


 ――では、魂の消滅か。


 いや。まだそんな時間は経っていない。まだ――


 ならば…………。

 全ての可能性を潰し終えた。

 術式は完璧だった。媒介は完璧だった。魔力は十分だった。消滅は、まだ起きていない。


 それでも、来ない。

 光は遺体の周りで淀んだまま、届く寸前で、掻き消え続ける。


 ――拒絶だ。


 声にはならなかった。

 罪を犯した自分が呼ぶから。禁忌に手を伸ばした自分が呼ぶから――兄は、戻ることを拒んでいる。


 指先から、熱が消えていた。

 抱き上げたときにあれほど確かだった温かさが。

 焼け付くほどだった血の熱が。

 清流の石のような冷たさへと、完全に変わっていた。


 腕の中には重さが残り、熱だけが、なかった。


 膝から、力が抜けた。

 雪の中にへたり込んだまま、ヴィンセントは動けなかった。

 気づけば、また兄の手を探して、握っていた。


 傷が疼いた。頭が熱い。意識の縁が、もう長くないと告げていた。

 このまま兄の隣で死ぬのだと、思った。

 それでいいと、思った。


 ――でも。


 兄の冷たい手が、まだ自分の掌の中にある。


 「ずぅっと、いっしょだよ」という声が、耳の奥に、残って……。


 この声が、消えてしまう。この手が、土に還る。この重さが、なくなる。


 ――それだけが、耐えられなかった。


 …………死霊術、ならば。

 魂の召喚ではなく、肉体に疑似人格を与えるのならば――媒介も要らない。起動に要るのは、火種ほどの魔力。

 あとは術が、僕から勝手に取り立てていく。


 指が震えた。

 術式を描く手が、初めて、震えた。


 ――これは、禁忌だ。


 わかっていた。


 ――兄が望むことじゃない。


 わかっていた。

 それでも、止まらなかった。止め方がわからなかった。「ずぅっと、いっしょだよ」という声が、頭の中で鳴り続けていた。


 魔法陣が昏く光り、術が、完成した。


 兄の瞼が、ゆっくり、持ち上がる。


 「――ビィ」


 兄が、笑う。

 血に塗れた有様にそぐわない、きれいな笑み。


 ヴィンセントは、息をした。

 それだけで、ひとまず、息ができた。


 魔力が、抜けていく。


 身体の奥から熱が引いて、骨まで冷えていく感覚がした。

 魔力が何かに吸われていく――兄を動かし続けるために、絶え間なく、止まることなく。

 鉛になった。世界が遠くなった。


 これが、自分のしたことの重さだと思った。

 自分の犯した罪の重さだと、思った。


 この重さと共に生きていくことが――できるか。


 遠くで、雪を踏む足音を聞いた気がした。

 それが誰なのかを考える力は、もう残っていなかった。


 ヴィンセントは、眉間に、指を当てた。

 最後に残った術式を、自分自身へと折り返す。

 封じる。この選択を。震えた指先を。拒絶された事実を。禁忌を犯したことを。


 ――封じなければ、生きていけない。


 意識が遠くなっていく。

 雪の中に崩れ落ちる寸前、兄の声だけが残った。


 ずぅっと、いっしょだよ――


 やわらかくなった。

 世界が、やわらかくなった。


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