14話
記憶の奔流が過ぎたのは、瞬きひとつの間だった。
次の瞬間、身体が後ろへ持っていかれた。
胸をつかまれ、泥の上に叩きつけられた。
カーターだったものが圧しかかり、首に手をかける。
締め付ける力に加減はなく、骨が軋んだ。濡れた腐葉の匂いが、鼻腔に押し込まれる。
見下ろす顔は、慈愛の形に固まったまま、動かない。
声だけが鳴り続けていた。同じ言葉を、繰り返し。「何も怖いことはない」「ずぅっとそばで守ってあげるから」――。
――またか。
平穏を保つための暗示が破れれば、この器はそれを「異常」と見做す。
視界の端が滲み始めていた。これで何度目か。
カーターだったものの眉間に、指を添える。
額に触れるより先に、術式の核心へ届いた。
「停止」
圧しかかっていたものが、音もなく崩れる。
金の髪が、霧の中に広がり、温度のない指先が、泥の上で開いた。
「それ」が、戻ってくる。
塞がれていた経路に、力が満ちる。
重しが外れ、懐かしい全能感がよみがえる。
上体を起こし、首に触れた。五本の指の形が、皮膚に刻まれて、紫黒く変色しつつある。舌打ちが漏れた。また始末が要る。
――手間をかけさせる。
立ち上がりながら、森の気配を検めた。
雲を裂くものの反応は、ない。器が片付けたか。
その刹那。
霧の質が、変わった。
粘りつく白が、思考の表面に指をかけようとして――滑り落ちた。
鼻から、短く息が抜けた。届いてすら、いない。
二年前、こいつの幻惑が防衛線を呑み込んだのは、凍てつく凶霧の魔力を得ていたためだ。
……それさえなければ、この程度の獣ごときに。
姿を見るまでもなく、正体は知れた。
鏡の魔獣。
霧の中に、円い鏡が姿を現す。
その身体には輪郭がない。背後の針葉樹も、足元の泥も、そのまま体を透けて見える。
ただ、周りの濃密な霧だけが、微かに歪み、その存在を示していた。
――充分な魔力。使えそうだ。
泥を払う気にもなれなかった。
霧の中で、鏡面が広がり始めた。白く滑らかな面が展開し、何かを映そうとしている。
口の端が、わずかに歪んだ。
像が結ぶより早く、指を持ち上げる。
霧が、沸いた。
大気が軋んだ。直後、白光の奔流が霧を縦に割って迸る。
幾筋もの光柱が、軌道をたがえながら鏡の魔獣へ向かって収束していく。
梢が揺れ、霧が吹き散らされ、鬱蒼と閉じていた視界がつかの間開く。
轟音が、遅れて響いた。
鏡の周囲の景色が剥がれるように揺れ、実体を結んだ。
鏡面が、粉々に砕けて散っていく。
異形の輪郭が内側から潰え、形を失った骸が泥へ落ちた。
森の静寂が戻り、残滓の燐光が霧に溶けた。
払われた霧が、枝の間からまた滲み出してくる。
ヴィンセントはその様子を見届けると、白い靄の中に沈んだ骸へ歩み寄った。
骸の傍らに膝をつき、内部に手を差し込みかけ――止まった。
――何度、こうして来たか。次、こそは……。
息をひとつ吐き、差し入れた。
何度も味わった感触。指先で探った。奥へ。もう少し奥へ。
指先が、硬いものに触れた。そのまま、静かに引き抜いた。
手のひらのそれは、暗い光を帯びた結晶だった。その光の奥に、底の知れない深みがあった。
鑑定。指先から意識を流し込み、確かめる。
魔力量――十分だ。
属性の比率――合っている。
複数条件の精密な合致――全て、全て――
結晶を透かし見たまま、動けなかった。これまで討伐してきた、どの個体とも根本的に違った。二年間、この答えを待っていた。
脳がしびれ、頬が紅潮する。
ヴィンセントは、結晶を握りしめたまま立ち上がった。
手が震えていた。この震えに与える名を、持っていなかった。ただ、身体の奥から突き上げてくるものがあった。
儀式の手順が、頭の中で目まぐるしく展開されていく。
場所。魔法陣の構成。魔力の配分。――どれも、見えていた。この瞬間のために何度も組み立て直してきた手順が、今、動き出す。
――兄さんを、本物に戻す。
それだけが、今、世界のすべてだった。
*
結晶を、中心に置く。
泥の上に膝をつき、霧の中で、魔法陣を描き始める。
指先が動くたびに光の線が走り、術式の経路が地面に刻まれていく。
手が、震えていたが、止める気にはなれなかった。
震えているなら震えたまま描けばいい。線は乱れなかった。
乱れるはずがなかった。何度繰り返してきたことか。目を閉じていても描ける。
魔法陣が、完成した。
ヴィンセントは、全ての魔力を注ぎ込んだ。
光柱が立ち昇る。霧を押しのけて、木々の梢を越えて、天へ向かって伸びていく。
周囲の大気が震えた。冷たい霧が熱を帯び、足元が、光の脈動に合わせてかすかに揺れた。
――来る。
――来るはずだ。これだけ揃っていれば、来ないはずがない。
冥界の門を、叩いた。
全力で、呼んだ。
――兄さん。
光柱が一段高く昇った。
術式の経路が完全に開いた。接続が確立された。
門の向こうへ、声が届いている感触があった。あとは――あとは、応えてくれれば――
待った。
霧が、ゆらりと揺れた。
梢で葉が擦れる音がした。
遠くで枝が軋んだ。
術式の光が地面を照らし、泥の凹凸に影を作っている。
……光の中に、応えはなかった。
――まだだ。まだ届いていないだけだ。
魔力をさらに絞り出す。術式の深度を上げた。経路を広げた。
もう一度、呼びかける。
待った。
風が、止んだ。森が、静まり返った。
光柱だけが揺れている。
先端が、霧の中でかすかに細っていた。
術式の手ごたえが、薄い。
何かに吸われる感触はなく、ただ、空白へ向かって流れ出ているような――応えのない空洞へ、魔力が消えていくような――
これまでは、まだ疑える箇所があった。
経路か。魔力か。媒介か。――疑いを潰している間だけは、答えを見ずに済んだ。
今は、ない。
経路は完璧だ。僕が組んだ。
魔力も満ちている。器への供給も止めた。
媒介も完全だ。二年かけて、探し当てた。
疑えるものが、何ひとつ、残っていない。
――拒絶。
押し込めた。違う。もう一度――
呼ぶ。
光柱が揺れ、細くなった。梢が鳴った。光の中に、応えはない。
――拒絶。
また浮かぶ。今度は、押し込もうとして――できなかった。
唇が、震えた。鼻の奥が熱くなる。
視界がぐらついて、熱いものが溢れ出した。
声にならない何かが、喉の奥から、漏れ出る。
――どうして。
――どうして来てくれない。媒介は揃えた。術式は完璧だった。何のために……何のために、ずっと…………。
――――禁忌を、犯したから。
打ち消す言葉が、どこにもなかった。
――兄さんの身体を、勝手に動かしたから……眠りを、ふみにじった、から……。
――だから、戻りたくない……兄さんは、自分のもとには…………。
光柱が、消えた。
魔法陣の光が、外縁からなぞるように、音もなく薄れていく。
ヴィンセントはそれを呆然と眺めていた。止めなかった。止めるための何かが、もう残っていなかった。
泥の上に両手をつく。震えが、肩まで伝わる。頭が、重かった。
手の中の結晶を、透かし見た。
あの深い光が、消えていた。蓄えていたものを使い果たし、ただの殻になっている。二年、探し続けたものの、成れの果て。
完璧な結晶は、何も変えなかった。
指に力がこもる。
乾いた音がして、殻が砕けた。
破片が、泥の上に散らばった。拾おうとは、思わなかった。
――ずぅっと、いっしょだよ。
声が、聞こえた気がした。
ずっと、耳の奥に刻まれている。あの夜の温かい手のひら。凍える夜に、自分の震えを止めてくれた声。
その声に、しがみつきたかった。
理屈ではなかった。
兄が戻ってこないなら……せめて、声だけでも。あの、手のひらだけでも…………。
動かない兄に目を向ける。
この骸に声を返しても、それは、本物ではない。
本物ではないと、知っている。知っていて……それでも…………。
――お兄ちゃん、そこにいるよ。
憐れな少女の顔がよぎる。
そう、兄さんは、そこにいる。……幻じゃ、ない。
手が、兄の骸に伸びた。気づいたら、触れていた。冷たい肩に。
眉間に指を添え、止めた術式の残り糸を探る。
絡んだ箇所をほどき、途切れた経路を結び直す。
慣れた手順だった。
慣れていることが、みじめだった。
それでも、手は止まらなかった。
魔法陣が昏く光り、魔力が、ふたたび骸へ流れ込んでゆく。
兄の瞼が、ゆっくり、持ち上がった。
ヴィンセントは自らの眉間に指を当てた。
封じる。
二年かけて、待ち続けたことを。
今度こそ戻ると、信じてしまったことを。
完璧な結晶を捧げても、兄は来なかったことを。
そして、また、この骸へ縋ったことを。
――封じなければ、もう、どこにも戻れない。
意識が遠くなっていく。視界が滲んでいく。
薄れゆく意識の中で、兄の顔が、少し、歪んで見えた。
「……ごめんなさい」
声が、零れた。
意識は、そこで途絶えた。
*
目が覚めると、霧の森だった。
冷たくて、静かで、深い針葉樹の匂いがした。
ビィは瞬きをした。
「起きたか」
兄の声に、ビィは上体を起こした。
カーターが隣に座っている。静謐な清流の瞳が、こちらを見ていた。
「……兄さん」
「大丈夫か。随分うなされていたぞ」
うなされていた。そうか。
ビィは自分の手を見た。泥で汚れていた。膝も、外套の裾も、酷い有様。
「兄さんも、汚れてる」
「お前ほどじゃないがな」
カーターが立ち上がり、外套の裾を払った。
ビィも笑いながら立ち上がる。ふらつくが、カーターの手が、さりげなく肘を支えた。
二人で、互いの汚れを払い始める。
ビィが兄の肩の泥を叩くと、カーターがビィの外套の裾を払う。ビィが兄の袖を払うと、カーターがビィの頬の汚れを拭う。
言葉は少なかったが、それでよかった。
カーターの手が、ビィの首筋で止まった。
触れられたところが、ひりついた。
指を当ててみる。押すと、鈍く痛んだ。
「……ここ、どうしたんだろ」
「少し、冷えるな」
外套の内側からストールを取り出し、丁寧にビィの首に巻いた。
柔らかかった。温度はなかったが、それでも、息が、少し、楽になった。
「……ありがとう」
カーターは、何も言わなかった。ただ、その手で丹念に、ストールを整えた。
ビィは兄の胸に、額を預けた。
深い針葉樹の匂いがした。清流の石のような、ひんやりとした静けさがあった。
魔力を使いすぎた頭が、だんだん静まっていく。
霧が、二人を包んでいた。
「……ずぅっと、いっしょだよ、兄さん」
返事は、なかった。
ただ、カーターの手が、ビィの背に、そっと置かれた。




