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15話

 ビィが、泣いている。


 霧の中で、自分を呼んでいる。何度も、何度も。声が震えている。


 泣かなくていいのに。

 ちゃんと守れた。それだけで十分だ。


 雪が頬に落ちた。


 刺さるように冷たい。

 背中が、ぐっしょりと濡れている。裂かれた傷だけが、生々しく、焼けるように熱かった。


 鉄錆と、砕かれた苔の匂いが、鼻腔の奥に張り付いている。

 焦げ付いた魔術の残り香が、まだ空気に澱んでいる。


 喉からは、声の代わりに、かすれた息が出るばかり。

 意識の縁が、滲んでいく。


 そのまま、懐かしい記憶へ滑り込んだ。


*


 歳が離れて生まれた弟。


 ちいさな手足をばたつかせて、よく泣いていた。

 おそるおそる抱き上げると、くしゃりと顔を崩して、笑ってくれた。


*


 ビィは体が弱かった。


 熱を出すたびに寝込んで、外に出られない日が続いた。

 両親は仕事で家を空けることが多かった。

 カーターが学校から帰ると、魔導書を絵本代わりに抱え、一人待っていた。


 扉を開くと、ぱっと顔を上げ、ほころぶように微笑む。

 それが、嬉しかった。


*


 両親が亡くなり、二人きりになった。

 弟には、もう自分しかいない。

 自分が、ビィを守らなくては。


*


 幼年学校の中庭。


 迎えに行ったある日、石畳の端にぽつんと立つビィを見つけた。


 「親なしのチビは向こう行けよ」


 心ない言葉が飛ぶ。


 弟の身体が、さらに小さく縮こまった。

 周りから見えなくなろうとするように。


 「ビィ!」


 大きく手を振りながら呼びかける。


 ビィが顔を上げた。


 涙に潤んだ目がこちらを向く。

 ぱっと花が開くように頬を紅潮させ、笑った。


 自分だけが、この顔を知っている。


 自分だけが、この子を笑顔にできる。


*


 弟は人づきあいが得意ではなかった。

 必要なことしか口にせず、その言葉も、ときに命令のように響いた。


 「偉そうに命令ばかり」

 「人を人とも思っていない」


 周囲はそう囁いた。


 カーターには、そうは見えなかった。

 自分を大きく見せなければ、他人の前に立っていられないだけだ。その奥には、中庭で肩を縮めていた弟がいる。


 「弟は不器用でね。言い方が悪かったなら、すまない」


 カーターが間へ入れば、相手は表情を緩めた。


 「閣下は繊細でいらっしゃるから、私からお伝えしますよ」


 言葉は角を失い、争いになる前に収まった。


 そのたび、ビィは笑った。


 「ありがとう」

 「やっぱり兄さんは頼りになるね」

 「兄さんは、僕のことなんでもわかってくれる」


 中庭で見た、あの、花が開くような笑顔で。


*


 ある日、生真面目な同僚の魔導師が、珍しくカーターを呼び止めた。

 深い紫青の瞳は、不機嫌そうに細められていた。


 「閣下へ話しかけているのに、あなたが先に答えることがある」


 カーターは目を瞬いた。


 「閣下がお答えになる前に、面会も申し出も、あなたが選り分けている。あれでは、ご自身で他者と関係を築く機会を奪うことになりませんか」


 カーターは、穏やかに受け流した。


 弟は繊細なのだから、自分が間に入らなければ傷ついてしまう。

 彼らには、そのことが分からない。


 やはり、弟を理解できるのは自分だけだ。


*


 あの時も、そうだった。


 弟が魔導学校に通っていたころ、学友らしい青年と話している姿を見かけた。

 ビィは、その青年に笑いかけていた。

 腹の底が、ざわついた。


 ――これが、兄離れ、かな。よかった……うん、よかった……。


 しばらくして、二人の間で言い争いが起きた。

 術式の見解が食い違ったらしい。


 ――ほら、やっぱり、うまくいかない。


 弟は繊細だから、自分が助けてあげないと。

 正しい形に、収まった気がした。


 カーターは二人の間へ入り、青年に笑いかけた。


 「すまないね。弟の言い方が悪かったようで」


 青年は一瞬、ビィを見て、それから目を伏せた。

 「……いえ。こちらこそ」


 その場は収まった。

 ビィは、何も言わなかった。


 翌日、廊下ですれ違った青年は、こちらに気づくと目を逸らした。

 彼とビィが話す姿を、それから見ることはなかった。


 あの時だって、ビィは泣きそうな顔をして、うつむいて――。


 ――そうだったか?


 ビィは。

 彼と口論をしたあの時、ビィは、どんな顔をしていただろうか。

 うつむいて、目に涙を溜めて――。


 けれど、カーターが歩み寄る、その直前。

 ビィは息を吸っていた。

 口を、開きかけていた。


 怖がっていた。震えていた。それでも――自分で言葉を返そうと、覚悟を決めた顔をしていなかったか。


 ――違う。


 ビィは、自分で頑張ろうとしていた。


 ――違う。


 自分が、邪魔をした。


 ――違う。


 ビィが笑いかけているのを見て、胸がざわついて。ケンカになっているのを見て、やっぱり自分が守らないといけない、これが正しい形だって……。


 ――――違わない。


*


 弟の、泣き声が、耳に届く。


 ――ビィが……泣いている……。

 ――なぐさめて、あげなくては……。


 意識が、遠い。


 カーターは口の端を引き上げた。いつものように。


 声をかけてあげなければ。

 自分がいなくなっても、やっていけるように。


 兄としての、最後の、仕事だ。


 『俺がいなくなっても、前を向いて生きていきなさい』


 両親を失ったあとも、ビィは顔を上げた。

 時間はかかった。それでも、また立ち上がり、笑えるようになった。


 今度も、きっと。


 少しの間は泣くかもしれない。

 それでも、やがて顔を上げて、立ち上がって、笑って――。


 ――俺じゃない、だれかに……?


 言葉が、喉に絡まった。


 弟の手を包む掌に、力がこもる。


 つよく、つよく……。


 「大丈夫……」


 口の端が、引きつり、歪んだ。


 「ずぅっと、いっしょだよ……」


 最期に口をついて出たのは、みにくくあふれた、『願い』だった。


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