16話
目が覚めたとき、初めに感じたのは土の冷たさだった。
頬がじんとしている。口の中に泥の味。瞼が重い。
――どのくらい、経った。
ヴァルカーは意識を手繰った。霧の底。鏡の魔獣。幻惑。あの方の記憶が揺れた。そして人形が――。
起き上がろうとするが、腕が言うことを聞かない。それでも顔を上げて、視線をめぐらせる。
――どうなった。グリモワールは……。
視線の先には……。
二人が、いた。
カーターが、彼の外套の汚れを叩いている。
彼が、カーターの袖を払っている。
どちらも黙ったまま、どちらも丁寧に、まるで儀式のように互いの泥を落とし合っている。
ヴァルカーのことなど、気にも留めない。
重い体を引きずり上げ、力なく幹にもたれかかった。
後頭部が、じんと痛んだ。肋が、息をするたびに軋む。
さっきまで気にもならなかったそれらが、今になって、どっと押し寄せてくる。
あれほどの幻惑だった。
鏡の魔獣が記憶をえぐるなら、封印が揺らぐかもしれない――そう踏んでいた。条件は、これ以上ないほど揃っていた。
だが今、彼は兄の袖の泥を、何事もなかったように払っている。
ポケットの中のドライフルーツを探る。一粒、口に放り込んだ。
味がしなかった。砂を噛んでいるようだった。
怒りはない。嘆きもなかった。それらを感じ続けるには、何かがまだ残っていなければならない。
――こちらで道はつけた。あとは、うまく動かせ。いつもどおりな。
軍務局の声が、耳の奥で乾いて響く。
国にとって、あの惨劇で残ったのは、英雄ではなかった。
魔力も満足に扱えない、か細い「弟」だけだ。
それでも、媒介の見込める獲物をあてがえば、彼らは特務に食いつく。そして戦場の底で、ほんのいっときだけ、あの方の力が目を覚ます。
餌を吊るし、取っ手を引く。それが、伝言係の仕事だ。
特務の表題を読んだ瞬間、指が止まったのを、覚えている。
――あるいは。
その先は、口にしなかった。声だけを平らに整えて、「承知しました」と答えた。
押し隠した続きが、自分の賭けだった。
……これが、その顛末だ。
カーターの手が、彼の首筋で止まる。
外套の内側から、白い布を取り出す。
ゆっくりと広げて、丁寧に、首に巻いていく。赤黒い手の痕が、ひと巻きごとに、消えていく。
彼が「ありがとう」と言った。カーターは何も言わなかった。
目を逸らした。
――まるで、鎖のようだ。
ポケットに手を入れ、もう一粒、放り込む。
眉をしかめた。
*
瞼を閉じれば、いまも二年前の雪が降る。
慟哭が已んでも、その場を離れられなかった。
掛ける言葉など、どこにもなかった。
やがて、雪の向こうで、光の柱が天へ昇った。
あの方は、骸を抱いたまま、術式を組み始めた。
見たことのない構成。読み取れる断片だけでも、尋常の規模ではない。
――治療か。まだ、諦めきれずに。
最初は、そう思った。そう、思おうとした。
だが、違う。
傷を塞ぐ術が、あんな深みへ経路を開くはずがない。
術式はただ、骸へ向かって注がれ続けている。……癒える者など、もう、そこにいないのに。
まさか、と思った。まさか、と打ち消した。
声は、掛けられなかった。いや……掛けなかった。あれに名を与えるのが、怖かった。
光が、雪の中で細っていく。
応えのないまま、細って――消えた。
詰めていた息が、勝手にほどけた。肩から、力が抜ける。
あの方は、雪の中に崩れたまま、長いこと、動かなかった。
降り積もる白が、その肩を薄く覆いはじめていた。
――もう、戻りましょう。
ようやくその一言を押し出そうと、息を吸った。
その時だった。
骸の上へ、ふたたび指が走った。
今度の光は、天を目指さなかった。地を這うように昏く、雪の面へ低く滲んで――
そして、それが、目を開けた。
息が、できなかった。
禁忌。
その二文字だけが、頭を白く埋めていく。積み上げてきたどの知識も、目の前のものを、別の名では呼んでくれなかった。
気づけば、足が雪を踏み出していた。
届くより先に、彼は雪の中へ崩れ落ちた。
その傍らで、死んだはずの男が、静かに身を起こした。
胸の傷は開いたまま。呼吸は、ない。
それは近づく自分を一瞥し――脅威ではないと判じたように、目を、昏倒した主へ戻した。
拠点までの帰路を、どう歩いたのか、よく覚えていない。
ただ、日はとうに落ちて、雪あかりだけが、針葉樹の根方を薄く照らしていた。
それが、主を背負って、先を行く。自分は、その数歩後ろを歩いた。並ぶ気には、どうしてもなれなかった。
凍てた夜気に、自分の息だけが、白く立ち昇っては消えていく。
背負われた彼の息は、浅く、途切れがちに、白い影を落としていた。
前をゆく背中からは、ひと筋も、昇ることはなかった。
天幕に戻り、報告書の用紙を前にして、ようやく気づいた。指が、まだ震えていた。
いつもの書式を、頭の中でなぞり始める。見慣れた手順だけが、正気を繋ぐ縄だった。
――グリモワール、単独で首魁を討伐。魔力枯渇により昏倒。
ここまでは、事実だ。
――専任護衛騎士、カーター・アイゼンハルト……。
ペン先は、「戦死」の二文字の前で止まった。
死んだと書けば、あの歩く骸は何だ、という話になる。検分の目が入り、いずれ、あの雪の夜へ辿り着く。
禁忌に堕ちた切り札を、国がどう扱うか――その先は、考えたくもなかった。
ヴァルカーは、書いた。
――専任護衛騎士カーター・アイゼンハルト、負傷。本件を機に、退役の意向あり。
あの日から、自分の書くものはすべて、この一枚の続きだ。
*
どのくらい、そうしていただろう。
不意に、視線を感じた。
項垂れていた顔を上げると、彼がこちらを見ていた。
少し気まずそうに、それでもいつもの顔で、首をかしげてみせた。
「……ヴァルカーさんも、使いっ走りをさせられて大変だね」
ヴァルカーは何も言わなかった。
気にした様子もなく、彼が続ける。
「媒介の採取に失敗したから、グリモワール様に怒られちゃうかな……」
少し、顔をしかめた。怒られるのは嫌だ、という顔だった。
彼の中では、そういうことになったらしい。
ヴァルカーは、ドライフルーツを噛んだ。
「使いっ走り」という言葉が、また刺さる。
あの方にとって自分は、二年前からずっと、その程度の存在だ。
「……そろそろ、宿に帰ろうか、兄さん」
彼がそう言うと、カーターは黙って従った。
霧が、二人をゆっくりと包んでいく。
……立ち上がれなかった。
自分が何をしたところで、彼らの平穏は続いてゆく。
……でも、それでも。
瞼の奥には、いまも、あの雨の日が焼き付いている。
空へ掲げられた、一筋の白い手。地平の果てまで、雨を白く弾いて奔った雷光。
――あの方なら、と。かつて思い描いた、霧の外へ続く道。
きっと、また、伝書鴉に戻るのだ。
***
暗い……。
知らない、部屋。月の、明かり……。
ここは、どこだ……。
あたまが、朦朧として、なにも……。
あたりを、見回す。頭が、重い……。
月明かりのもとの、寝台に、だれか……。
おとうと、弟だ……。
ちぢこまって、うなされて……。
足を、踏み出す。……重い。引きずるように、近づく。
いかなければ。いかなければ……。
――おまえのせいなのに?
びくり。
なにか、きこえた、けれど。
自分が、いって、あげなければ……。
また、足を、踏み出す。
やっと、弟のもとに、たどり着く。
かすかな明かりの下の、首筋に、赤黒い、指のあと。
手を、のばす。
なんで、こんな。だれに……。
――おまえがやった。
びくり。
――おまえのせいだ。
――おまえが縛り付けている。
――おまえが苦しめている。
こえ、こえ、こえが……。
おれの、声が……。
のばしかけた、手が、さまよう。
「にい、さ……いかな、で……」
まなじりに、涙……。
手を、のばす。のばす……。
そっと、涙を、拭って、手を、にぎった。
「だい、じょうぶ……」
裡からひびく声は、まだ、聴こえる、けれど……。
こわばる、くちの端を、ひきあげる。
あたまに、もやが、ひろがっていく。
「ずぅっと、いっしょだよ……」
――そうして、歪な魂は、ふたたび、眠りの底に沈んだ。




