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17話

この国のおひめさまのおはなしです。

 ミスティヴァルド(この国)には、お姫さまがいる。


 名前は、シャルロッテさま。国のみんなは親しみをこめて、ロッテ姫さまと呼ぶ。

 王さまの末っ子で、ふわふわのはちみつ色の髪に、ばら色のほっぺ。いつもにこにこ、やさしい笑顔。


 姫さまは、自分の国がだいすきだった。


 だから、国のためになれるように、いっしょうけんめいお勉強した。

 国づくりのこと。国をまもること。もちろん、魔導のことも。なんといっても、ミスティヴァルドは魔導の国ですからね!


 国のみんなは、姫さまのことがだいすきだった。みんな、姫さまががんばりやさんだって知っている。

 姫さまだって、国のみんなのことが、だいすきだった。


 だから姫さまは、今日もおしごとをがんばる。

 さっそくおしごとのへやのいすにすわると、鴉に、こう話しかけた。


 「それで、ヴァルカー。グリモワールの調子はどうだ。まだ使えそうか」


*


 鴉が立っていたのは、評議会棟の三階、南の端にある執務室だった。

 壁は天井まで書架に埋まり、装飾と呼べるものは窓辺の一輪挿しだけ。机の上では決裁待ちの書類が、几帳面に角を揃えて三つの山を作っている。


 その向こうに、ローゼンタール卿――シャルロッテが座っていた。


 はちみつ色と歌われる髪は、後れ毛の一筋もなく結い上げられている。ばら色と歌われる頬は、窓から差す灰色の光の下では、化粧の底にうっすらと疲れを透かしていた。

 版画の中で永遠に微笑んでいる「ロッテ姫さま」より、十は年嵩に見える。

 右手の中指に、インクの染みがあった。


 ――使えそうか、ときたか。


 ヴァルカーは、深く一礼した。頭を下げた分だけ、顔から表情を落とす。


 王都へ戻り、軍務局へ報告書を出したのが昨日の夕刻。今朝にはもう、評議会棟から呼び出しが届いていた。

 封蝋を割った瞬間、胃の腑が重くなったのを覚えている。

 署名は、家名でも役職でもない。爵位がひとつ――ローゼンタール。それで足りる。


 政界で、この方を「姫」と呼ぶ者はいない。


 王家に、かつてほどの実権はない。それでもシャルロッテは、民衆の支持を足場に政界を上り、最高評議会の席まで手にした。

 ここに座るのは、民の前で愛らしく微笑む「ロッテ姫」ではない。最高評議会議員、ローゼンタール卿だ。


 軍務局のちょび髭なら、用件は決まっている。厄介ごとを押しつけて、終わりだ。腹は立つが、それだけで済む。

 この方は違う。任務が成功しても、それで終わりにはしない。

 報告の一行一行から、グリモワールの明日を決める。


 呼び出しの理由は、聞くまでもなかった。


 「はじめから聞こう。座らなくていい。長くはならない」

 「は。……特務対象、鏡の魔獣は討伐。共生関係にあった大型魔獣も排除しました。幻惑により森へ誘い込まれていた住民のうち、少女一名を保護。現地の防衛態勢への提言は、報告書の付記に」

 「読んだ」


 書類の山のひとつから、白い指が見覚えのある綴りを引き抜いた。ヴァルカー自身が昨日書いたものだ。一晩で、もうこの机まで届いている。

 頁をめくりもせず、シャルロッテは続けた。


 「討伐隊が三度、失敗した相手だ。委任状の宛名――カーター・アイゼンハルトひとりで、対処できたのか」


 紫青の目を、まっすぐに見据える翡翠の眼差しがあった。


 ――ここで飾っても、意味はない。この方が聞いているのは、戦果ではない。


 「いいえ。……グリモワールが、討ちました」

 「封印が解けたか」

 「一時的に。対象の幻惑が、記憶の封へ干渉したものと思われます」

 「覚醒中、敵味方の識別は」

 「討たれたのは対象と、共生の大型魔獣のみ。人へ向けられた術の痕は、ありません。……もっとも、あの場に、人は私しかおりませんでした」

 「記憶の封は」

 「再封鎖されています。……封を扱えるのは、御本人だけです。それ以上は、判りません」


 シャルロッテは頷きもせず、報告書の余白に短い符号を刻んだ。


 「魔導院に、討伐者を問われたら?」

 「協力者カーター・アイゼンハルトの戦果として、処理済みです」


 表の記録では、武勲は器のもの。

 名義の欄ひとつからでも、秘密は手繰られる。


 「けっこう。……保護した少女は」

 「叔父のもとへ帰しました。心身に、後遺症は見られません」

 「そうか。よかった」


 その言葉だけ、ほかの問いより、わずかに早かった。


 シャルロッテは、報告書から目を上げた。ペンが、止まった。


 「覚醒から再封鎖まで、器はどうしていた」


 喉の奥が、わずかに乾いた。


 瞼の裏に、あの光景がよぎる。

 白いストールの下。細い首の皮膚に喰い込んでいた、五本の指のかたち。赤黒く変色した、あの痕を――。


 ――言うべきか。


 封印の破れは告げた。討伐の実態も告げた。

 器の異常も、報告の定めにある。ならば、あれも――。


 あの痕を報告すれば、問われる。


 カーターは、目覚めたグリモワールを、ふたたび封の内へ押し戻したのか。


 それを疑われれば、今の処分そのものが見直される。

 ――禁忌を傍らに置いたまま、英雄が戻るのを待つ、という。


 「……私は対象の幻惑と、その後の衝撃で、意識を失っておりました」


 声だけを、平らに整えた。


 「覚醒中の器の挙動について、報告できる観測結果は、ありません」


 嘘は、ひとつも言っていない。

 ただ、目が覚めたあとに見たものを、言わなかっただけだ。

 二年前、一枚の報告書に「戦死」と書かなかった、あの夜と同じように。


 シャルロッテは、しばらくヴァルカーから目を離さなかった。

 灰色の光の中で、何かを量るような間があった。


 気づいたのか。見逃したのか。それとも、はじめから答えなど求めていなかったのか――その顔から読み取れるものは、何もなかった。


 「そうか」


 白い指が、また綴りの上を滑りだす。

 止めていた息を、音を立てずに逃がす。袖の中で、指先が冷えていた。


 「今回の件は、正式な検討に回す」


 シャルロッテは、ヴァルカーの報告書を閉じた。


 「おまえの報告も、このまま添える。下がっていい」


 一礼し、踵を返しかけた、そのとき。


 「……ヴィンセントは」


 個人の名だった。この部屋に入って、はじめて。


 「変わりないか」


 振り返ると、シャルロッテは書類へ目を落としたままだった。ペンだけが、止まっていた。


 脳裏に、霧の底の光景が浮かぶ。

 骸の袖から泥を払い、首に巻かれたストールを指して礼を言い、笑っていた――あの姿が。


 「……穏やかに、お過ごしです」

 「そうか」


 それきり、あとには、紙を走る音だけが残った。


*


 評議会棟の回廊は、底冷えがした。

 行き交う文官が、こちらを認めて歩みを鈍らせる。この日は、ヴァルカーのほうが先に目を伏せた。


 昨日まで自分の手にあった報告書は、もう戻らない。

 紙に残るのは、自分の書いた一文だ。


 ――覚醒中の器の挙動について、報告できる観測結果は、ありません。


 白いストールの下の痕は、どの記録にも、ない。


 ヴァルカーは革袋へ指を差し入れ――途中で止めた。

 指を抜き、袋の口を閉じる。


 三日後、あの紙が、二人の処遇を決める卓に載る。


*


 「魔導院は、ヴィンセント・アイゼンハルトと死霊術式体に対する、現行の特別監護の打ち切りを要求します」


 三日後、評議会棟北側の小会議室で、ヨアヒム・フォン・グラーフェンはそう切り出した。


 壁と窓に刻まれた銀線は、すでに淡い光を帯びている。この部屋で交わされた声も魔力も、会議が終わるまで外へは漏れない。


 白髪を一筋の乱れもなく撫でつけた老魔導師の前には、魔導院の意見書がある。

 向かいには、軍務局次長マティアス・ザルツマン。ちょび髭の下で退屈そうに唇を曲げ、古い記録の該当頁へ指を挟んでいる。


 シャルロッテの手元には、ヴァルカーの報告書と――二人の処分を更新するための書面が、署名欄を空けたまま開かれていた。


 グラーフェンが、意見書の上へ手を置いた。


 「二人を、魔導院の管理下へ移していただきたい」

 「軍務局の帳簿では、カーター・アイゼンハルトは協力者だ。魔導院が一方的に管轄へ移すな」

 「帳簿に何と書こうと、死者は死者です。協力者の欄で、給金でも払うのですか。ザルツマン次長」

 「払うとも。働いた分はな」


 「――待て。先に、前提を揃える」


 シャルロッテが、処分更新書へ指を置いた。


 「禁忌に対する定めは、決まっている。術者は処罰。死霊術式体は破壊。記録は封印だ。二年前は、そのどれも執行しなかった。例外を認めたということだ。理由は、ひとつしかない。グリモワールの利用価値が、危険に見合ったからだ」


 二人が、いったん口を閉じる。


 「この席で決めるのは、どちらが二人を預かるかではない。その例外を、更新するかどうかだ。……続けろ」


 「では、打ち切りの理由を」


 グラーフェンは意見書を開いた。


 「現行監護は、軍務局による限定運用です。重大な禁忌の実践結果を、危険か否かも確かめないまま二年、実務の帳簿の中で扱ってきた。管理と呼べる体制ではありません。……術式体そのものを、一度切り離してでも調べる必要がある」


 シャルロッテの指が、処分更新書の上で止まった。


 「その検分は、カーター・アイゼンハルトの分離を含むのか」


 グラーフェンは、わずかに間を置く。


 「検分に必要と判断すれば、器を一時――」

 「――また取り上げて、繰り返すつもりか」


 最後まで言わせず、ザルツマンが挟んでいた頁を開いた。

 そのまま、机の中央へ滑らせる。


 二年前の、被害報告だった。


 「読み上げようか」

 「……必要ありません」


 グラーフェンは、書面へ目を落とさなかった。


 ――封鎖区画、三。魔導網停止、四刻。負傷者、二十二名。


 王都の中枢が、半日近く止まった。

 それだけの被害を出して、壊されたのは隔離庫までの壁と結界だけだった。最短の経路だけが、まっすぐに抜かれていた。


 供述の欄には、一行。


 ――「兄さんを返せ」


 それきり、何も記されていない。


 「前回の検分手順に不備があったことは、認めます」

 「次はうまくやれる、と?」

 「そうは申していません」


 グラーフェンの表情は動かない。


 「むしろ、だからこそです。器を取り上げれば、また魔導網が落ちる。ゆえに、与え続けるしかない。……王都を人質に取られているに等しい。禁忌の産物を与え続けなければ、最大戦力ひとつ扱えない。この状態を、管理とは呼びません」


 「呼び方はどうでもいい」


 ザルツマンが、机の中央の記録を引き戻し、閉じた。


 「不完全でも、被害は抑えられている。……いや、抑えるどころじゃないな。今回を見ろ。封が解けても、討伐対象だけが片付いて、街の住民は無傷で戻った。暮らしへ手をつけずに任務へ出して、この結果だ。現行運用は機能している」


 「観測された範囲では、認めます」


 グラーフェンは、あっさりと頷いた。


 「術式の選択も、討伐の痕から見るかぎり適切だった。討伐のあいだ、理性は保たれていたのでしょう。……ですが次長、その範囲は、どこで終わっていますか」


 ザルツマンは答えない。


 「随行の連絡係は、昏倒していた。討伐のあと、グリモワールが何をしたのか。なぜ、ふたたび記憶を封じたのか。そのあいだ、死霊術式体が何をしていたのか」


 グラーフェンの指が、シャルロッテの手元――ヴァルカーの報告書の一行を示した。


 ――覚醒中の器の挙動について、報告できる観測結果は、ありません。


 ヴァルカーの筆跡が、紙の上に残っている。


 シャルロッテは、その行を見なかった。


 「討伐が終わってから再封鎖までを、誰も見ていないのです」

 「観測されてない危険を理由に、現に動いてる運用は止められん」

 「観測されていない以上、安全だったとも断定できません」


 ザルツマンの口髭が、わずかに持ち上がった。


 「だから、魔導院の検分室へ運び込むと……移して、何が変わる」

 「二人を分離せずに扱う、拘束と観測の方法。……あわせて、関連する研究記録も、魔導院へ。死霊術式、記憶封印。それに」


 その眼が、報告書の上をゆっくりと舐めた。


 「――今回、使われた術式も」


 声が、わずかに速くなる。


 「五年前に差し戻された『異種経路間における強制干渉』の応用です。原案にあった経路の逆流も、補われている。あの欠陥を、たった一人で埋めて、しかも実戦で発動させ、成立させている」


 白髪の一筋も乱さずに、言葉だけが前へ出る。


 「差し戻したのは、あなたではなかったか」


 シャルロッテが疑問を挟むと、グラーフェンは意見書の角を指先で揃え直した。


 「……ええ。査読して、落としました。危険な術式ほど、忘れませんので」


 組み直した指の上で、前へ出ていた声が、平らに均されていく。


 「本人は監護下に。作られたものは、魔導院へ。――成果は、正しく帰属させるべきです」


 シャルロッテの視線は、グラーフェンから動かなかった。


 「また、相応の職位も与えず、成果だけを使うのか」

 「能力に適した仕事を、適切な監督下で行わせる。それが組織です」


 「なるほど。仕事だけは能力相応に、と」


 ザルツマンが口髭の端を撫で、薄く笑う。


 「昔から、たいそう合理的だ。……で、いまはどっちの話をしてる? 危険の管理か、成果の回収か」

 「当時の人事は、今回の要求とは――」

 「論点は分かった」


 声を荒らげることはなかったが、その一言でグラーフェンは口を閉ざし、ザルツマンも笑みを収めた。

 シャルロッテはザルツマンへ視線を移す。


 「国軍の要求は」

 「現行運用の継続。移管なし、分離なし。特務の経路もそのまま。それから――これ以上、事情を知る人間を増やさないことだ」


 ザルツマンは背もたれに身を預けた。


 「秘密ってのは、知っている人間の数のことだ。検分には人手が要る。書記が付き、記録が残る。魔導院へ移した瞬間、頭数が倍になる」


 「代替戦力は」

 「ない」


 ザルツマンは背を預けたまま、視線だけをグラーフェンへ流した。


 「グリモワールを捨てるなら、どの戦域を先に捨てるか、そちらで決めてくれ。防衛総監からの言伝だ」


 小会議室が静まった。


 シャルロッテは、二人へ順に目を向けた。


 「検分のために残したい。戦力として残したい。……立場は違っても、処分しろとは、どちらも言わないのだな」


 答える者はいなかった。


 「では、聞く。今の形を、何年続けるつもりだ」


 今度の沈黙は、長かった。

 壁の銀線だけが、音のない部屋で淡く光っている。


 「器は死者だ。老いず、消えず、時が片づけることもない。移しても、続けても、例外は例外のまま残る」


 シャルロッテは、グラーフェンへ目を向けた。


 「移して、分離して――今より安全に管理できると、保証できるか」

 「拘束式と手順は、すでに――」

 「保証できるか」

 「……絶対とは、申し上げられません」


 次に、ザルツマン。


 「現行のまま、次の覚醒も同じように収まると保証できるか」

 「できん」

 「この例外を、いずれ終えられると」

 口髭に触れていた指が、離れた。

 「……それも、できん」


 「ならば、どちらの案にも出口はない」


 シャルロッテは、処分更新書を引き寄せた。


 「――どちらの要求も、採らない」


 ペン先が、紙に触れる。


 「今回の覚醒は、観測された範囲で理性を保った。利用価値は、まだ危険を上回る。――存続を認める。特別監護は継続。分離も、魔導院への移管も認めない。二人で、一つの監護対象とする」


 ザルツマンの息が、ひとつ落ちた。


 「ただし、恒久の運用とは認めない」


 今度は、グラーフェンが顔を上げる。


 ペンが走る。

 職名と研究室は返さない。接触の制限は続く。特務は、承認案件に限る。処分は、定期に再審査する。

 条項が、必要な順に埋まっていく。


 「使うのですか」

 「使える間は、使う。この国には、まだ必要だ」


 ペンは止まらない。


 「次は、この空白を作るな」


 シャルロッテの指が、ヴァルカーの報告書の一行を叩いた。


 「覚醒から再封鎖までの経緯と、本人の判断を、記録しろ。魔導院は、二人を分けずに観測する手順を作れ。……単独行動も、第三者との協働も、妨げるな。窓口を、器ひとつに固定するな」


 「――その条項は、誰に守らせるのですか」


 グラーフェンが、目を細めた。


 「魔導院と、軍務局に、だ」


 ペンが、止まった。


 窓から差す光は、いつのまにか傾いて、机の端に届いている。誰も、口を開かなかった。


 「現行処分の目的は、今の形を守ることではない」


 シャルロッテは、顔を上げなかった。


 「グリモワールが、兄の死を知ったまま、封の外で生きられるか。その見込みを、量る。……より普通に近い形で扱えるか、確かめるための猶予だ」


 声の調子は、変わらない。


 「その見込みが失われ、残るものが禁忌と危険だけになったと判ったときは」


 ペン先が、止まる。


 「――器ごと、終わらせる」


 グラーフェンが、静かに息を吸った。


 「ずいぶんと、猶予の多い処分です」


 シャルロッテは顔を上げた。


 「あの夜、器をグリモワールへ返すよう命じたのは私だ。翌朝、彼の職名を停止し、研究室を閉じたのも私だ」


 インクの染みが残る指が、処分書の端を揃える。


 「待つと決めるのも――」


 ペン先が、署名欄へ下りた。


 「終わらせると決めるのも、私の仕事だ」


 印璽が、赤い封蝋へ沈んだ。


*


 その日は珍しく霧が薄く、春の陽が地上まで届いていた。

 魔導院の応接間にも暖かな光が差し込み、窓辺の絨毯を明るく染めていた。


 コンコンッ。


 控えめなノックが響く。


 「どうぞ」


 シャルロッテが、丁寧に巻いたはちみつ色の髪を肩の後ろへ払って応じると、重厚な扉がゆっくりと開いた。


 入ってきたのは、報告書の筆致からは想像しがたい、幼さの残る少年だった。

 礼の角度まで間違えまいとしているのか、両腕を体の脇へ固く添え、肩に力が入っている。


 「こんにちは。あなたがヴィンセント?」


 シャルロッテは、いつものように微笑んだ。


 「はじめまして。私はシャルロッテ。さあ、お座りになって」

 「あ、は、はじめまして。ヴィンセント・アイゼンハルトです。ロッテ姫――あっ、シャルロッテさま……」


 ただ緊張しているだけではない。

 明るい窓辺でベリー色に見える目は、こちらの笑顔を少しも信じていなかった。


 「どちらでも構いませんよ。みんな、ロッテ姫と呼びますから」

 「……では、シャルロッテさまで」


 きっぱりと言った。

 愛想がないのではない。先に距離を決めたらしい。


 シャルロッテは微笑みを崩さず、机上の報告書へ手を置いた。


 この文面が本当に目の前の少年のものなら、魔導院の処遇は能力に見合っていない。

 上席が整えたものなら、それを確認して終わりだ。


 長くは、ならないはずだ。


 「北部防壁の魔力損耗について、あなたがまとめた報告を読みました」

 「……ありがとうございます」

 「ええ。第三節の補助環を閉じなかったのは、なぜ?」


 ヴィンセントが、初めてまっすぐ顔を上げた。


 「……お読みになったんですか」

 「読まずに呼んだと思った?」

 「いえ。ただ、そこを聞かれたのは初めてです」


 警戒が消えたわけではない。

 けれど、返事までの間が短くなった。


 「接続点が一つ足りないわ」

 「足りなくありません。……ここです」


 ヴィンセントは報告書を引き寄せ、脚注の一箇所を指した。


 「これは省略記号では?」

 「第四研究室ではそうです。でも、この報告では接続点として定義しています。一頁目の、三つ目の脚注に」

 「読んだわ」


 その目が、わずかに見開かれた。


 「では、こちらも」


 今度は自分から、別の紙を引き寄せる。


 「現地なら、触媒を揃える必要はありません。二層に分けて、外側を捨てます」

 「それでは出力が落ちるでしょう」

 「落ちません。違います、そこは出力層じゃ――」


 言いかけて、はっと口を閉じた。


 「……失礼しました」

 「どこが違うの?」


 ヴィンセントは一度瞬いた。


 「ここです。位相差を……紙を、もう一枚いただけますか」


 シャルロッテは一枚差し出した。


 紙の上に式が増えた。

 短かった答えは説明になり、説明は反論になった。ヴィンセントはいつしか立ち上がり、机のこちら側へ身を乗り出している。


 面白い。


 「二人で経路を分担したら?」

 「同期がずれます」

 「一呼吸で同期させる術式を、南方報告で読んだわ」

 「あれは長距離通信用です。……いえ、待ってください。周波数だけ借りれば」


 ヴィンセントは、シャルロッテの手元にあった議事日程を裏返した。


 扉のそばで、侍従が控えめに咳をした。


 「ローゼンタール卿。次のご予定が」

 「あと少し」

 「その少しでは、済みません」


 ヴィンセントが、紙から顔を上げずに言った。


 「条件が二つ抜けています。最初から説明します」

 「では、続けて。ヴィンセント――」


*


 姫さまは、今日も、おしごとをがんばる。

 だいすきな、国のみんなの、ために。


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