18話
朝の街道は、よく晴れていた。
半歩前をゆく小さな背中が、鼻歌を刻んでいる。
カーターは、それを観測する。歩幅、いつもどおり。指先の動き、活発。鼻歌の調子、上向き。
――揺らぎ、なし。
『平穏を守れ』――約束は、静かだった。
「鏡の魔獣も討伐できたし、ミアも無事に帰れたし。今回の任務、ちゃんとうまくいってよかったね」
ビィは、歩調に合わせて両腕を揺らしている。
「でも、媒介は採れなかったから、グリモワール様の依頼は失敗かぁ……。次はちゃんと見つけなきゃ。兄さん、また頑張ろうね」
振り向いた拍子に、首へ巻いた白いストールがわずかにずれた。
その下に、五本の指の形が残っている。
紫黒色だった痕は、薄い黄色へ変わりつつあった。
腫れ、なし。呼吸、正常。嚥下時の異常、なし。
――回復、良好。
「ああ」
カーターは、頷いた。
荷は、九割を自分が負っている。
ビィに持たせたのは、小さな肩掛け鞄ひとつ。薬草の小袋と帳面以外は、自分の荷へ移した。
疲労は躓きを生み、躓きは傷を生み、傷は涙を生む。涙は、平穏を損なう。
陽の高さから、次の休憩までの距離を割り出す。
水の残量を検める。風向きが変わり、ビィの前髪が乱れた。
手が伸びて、直すより先に、ビィが自分で払った。手を、戻す。
歩きながら、意識の底にある帳簿を検める。ほかの動作と並行して走る、決まった手順だった。
長い帳簿には、ところどころ、欠けた頁がある。
――原因不明の損傷。欠けた頁は、戻らない。
欠けは、問題にならない。ビィの平穏を守るために要る頁は、すべて残っている。
検分を終え、閉じた。
「兄さん、見て。街が見えた!」
ビィが振り向いて、笑った。
観測。平穏、良好。
カーターは、頷いた。
*
街には、見覚えがあった。
帳簿が照合される。協会支部。宿。湿地。市場の並び。滞在の記録、複数。
懐かしい、という項目は、ない。ただ、支部の受付手順と、宿の相場が引き出されただけだった。
支部へ向かう道には、魔導学校の外套を着た学生が多かった。
術式用の白墨を量り売りする店。杖材を軒先へ吊るした工房。窓いっぱいに専門誌を並べた書店。
その一軒を通り過ぎたところで、半歩前の背中が止まった。
ビィは三歩、戻った。
窓硝子の向こうに、濃紺の表紙が立てかけられている。銀の箔で、題名が刻まれていた。
『魔力経路の相互補完――複式術式における干渉と接続』
エーリヒ・ヴァイス著。
観測。視線、固定。鼻歌、停止。指先、窓硝子へ接触。
「兄さん。ちょっとだけ、いい?」
返答を待つあいだにも、目は表紙から離れなかった。
店内は狭く、革と紙の匂いがこもっていた。
両側の書棚が天井近くまで迫り、奥には店主の座る帳場がある。
高価な本は、窓沿いの硝子戸へ収められていた。
ビィが魔導師協会の徽章を見せ、窓辺の本を指す。
「すみません。あの本、中を見せてもらえますか」
店主は徽章を見て、それからビィの指先に汚れがないことを確かめた。
硝子戸の鍵を開け、本を両手で取り出す。
「閲覧はこちらで。紙面は丁寧にお願いいたします」
帳場脇の小さな閲覧台へ、本が置かれる。
ビィは頷き、指先で表紙を開いた。薄紙を傷めないよう、指先でそっとめくっていく。
初めのうちは、めくる指も慎重だった。
やがて、その動きがせわしなくなる。
先の式を確かめては前の図へ戻り、本文と注釈を交互に追う。指先が見開きの上を往復し始めた。
「競合する経路を切るんじゃなくて、位相をずらして残す……? でも、それだと出力側でぶつかるはず……いや、片方を受け口にすれば……」
独り言。複数。速度、上昇。
しばらく待った店主の視線が、カーターへ移った。
「すまない。もう少しだけ、見せてもらえるか」
「……ええ。まあ」
店の扉が開き、学生らしい二人組が入ってきた。新刊台を見回した一人が、ビィの読んでいる本へ目を留める。
店主が咳払いをした。
「そちら、本日入荷したばかりでして。ほかにもご覧になりたいお客様が――」
「なるほど。二つの術者を同じ形へ揃える必要がないんだ。違うまま、足りないところだけを――」
店主の口角が、ゆっくり下がっていく。
カーターは、ビィの肩へ手を置いた。
「ビィ」
「……え? 何、兄さん。もう飽きちゃった?」
ビィがようやく顔を上げる。
店主は口を閉じ、学生二人は揃って目を逸らした。
「…………あっ」
ビィの肩が、すこし縮んだ。
「す、すみません。あと、少しだけ……」
店主は、間を置いて頷いた。
学生たちが別の棚へ移る。ビィもようやく口を閉じ、読みかけの見開きへ目を戻した。
序文の終わりで、指が止まる。
――本理論の端緒は、学生時代に交わした、一つの議論にある。
頁を、一枚戻す。
同じ式を、もう一度見る。
「……これ」
声が、途切れた。
「この式、知ってる気が……」
ビィの指が、こめかみに触れた。
視線は式の上に留まっているのに、焦点がわずかに揺れている。
観測。眉間の収縮。呼吸、浅。
――揺らぎ、あり。
カーターは、本の表紙へ手を置いた。
「今日は、そこまでだ。少し、目を休めな」
「でも、もう少しで――」
表紙を、静かに閉じる。
ビィは何か言いかけたが、こめかみを押さえたまま、小さく頷いた。
本を店主へ返す前に、ビィは値札へ目を落とした。
帳面を取り出し、書名、著者名、値段を書き留める。
書き終えると、視線が最後の数字へもう一度戻った。
その額は、今の宿代ひと月分を越えていた。
書き終えた指が、外套の財布の上で止まった。
薄い膨らみを布越しに一度押し、何も取り出さないまま帳面を閉じる。
「ありがとうございました」
店を出る。
数歩進んでから、ビィは一度だけ、窓の濃紺の表紙を振り返った。
*
支部へ着くころには、ビィの指はこめかみから離れていた。
代わりに、ときどき、外套の内側へしまった帳面へ触れている。
ビィが、支部前の掲示板へ向かう。
カーターは、その背後で足を止めた。掲示板の脇、開け放たれた支部の扉の奥に、赤い髪が見えた。
帳簿が照合される。
協会所属の魔導師、ペーター。ビィへの罵声、複数回。俯く角度、深。涙側の記録、複数回。脅威度、低。
不快度――そういう項目は、ない。
赤い髪は、受付の前で仲間らしい男と話していた。こちらには気づいていない。
ビィの視線が一度だけその横顔に止まり、すぐに掲示板へ戻った。
依頼票を一枚、じっと見ている。
湿地に増えた岩間鼠の間引き。五名合同。前衛二名、斥候一名、術士二名。出立は翌朝。
視線が、報酬欄で止まった。外套の内側――先ほど帳面をしまった場所へ、指先が触れる。
すでに四名の欄が埋まっている。術士の欄には、ペーターの名があった。
ビィは票の端に指を触れたまま、しばらく動かなかった。
「……兄さん」
声の調子、低。躊躇。
ビィは振り返らず、掲示板へ向いたまま続けた。
「今回はさ……僕だけで参加してみようかな。兄さんは休んでて」
新しい行動。
帳簿が、過去の頁を繰り始める。
照合条件――ビィの平穏。
兄の非同行。
支援効果の単独証明が取れず、評価対象外。D評価。罵声。俯く角度。涙側の記録、多数。
危険の予測。湿地。転倒。負傷。赤髪の魔導師による叱責。
対応の案が並ぶ。
一、同行する。
二、依頼の成立を妨げる。
三、出立を早め、この街を離れる。
四、任せる。
一から三。該当、複数。
間へ入り、傷を防いだ頁。誘導で危険を避けた頁。街を離れ、鼻歌が戻った頁。いずれも、平穏の維持で閉じている。
四。該当、なし。
要求の主体は、ビィ。一から三は、いずれも要求の却下を含む。却下が平穏へ与える変動、記録なし。
既存の頁では、判定できない。
検索範囲を広げ、類似度の低い頁まで繰る。
帳簿の底近くで、一枚が開かれた。
霧の森。行方不明の少女。
魔除けの残滓を辿るという、ビィの提案。反転霧による失敗。翌朝の再考。
――霧も、水だ。
術式の再構築。不足する魔力は、ヴァルカーが補完。経路の可視化、成功。少女、発見。帰還。
既存の分類は、一。大型魔獣の前肢を、間へ入って止めた。ビィの負傷、なし。
少女の発見と帰還――この結果に、カーターの実行記録が、ない。道を組んだ起点は、ビィ。
未帰属の結果、一件。
分類が、分かれる。
同一の頁が、二つに該当する。
一。既存該当を維持。
四。新規該当、一件。
計量。
一から三。実行主体、カーター。平穏維持の実績、複数。
四。起点、ビィ。他者との補完による目標達成、一件。
重み。一から三、優勢。
四の一件は、判定を覆さない。
「……兄さん?」
ビィが、こちらを見上げていた。
票に触れていた指が、ゆっくり離れかける。
「やっぱり、まだ早いかな。兄さんも一緒に――」
――手が、動いた。
判断の経路を、どこも通らずに。
右手が、ビィの背に、そっと添えられていた。押す、というほどの力もない。ただ、掌のかたちが、送り出すそれをしていた。
ビィが、目を丸くして振り向いた。
「……行って、いいの?」
肯定は、出力されていない。否定も、出力されていない。
ビィは、頷きを待たなかった。ぱっと顔を輝かせ、依頼票を掲示板から外した。
「ありがとう、兄さん。ちゃんと準備するから!」
支部の扉へ駆けていく。途中でつまずきかけ、踏みとどまり、振り返って照れくさそうに笑った。
カーターは、静止したまま、自分の右手を観測した。
帳簿を検める。
この動作は、候補として生成されていない。選択の記録も、ない。どの計算からも、この掌は導かれていない。
原因は、辿れなかった。
辿れないものは、扱えない。
天秤は、傾いたまま、使われなかった。




