19話
支部を出るころには、陽が少し西へ傾いていた。
依頼の受理票を、ビィは両手で持ち、胸の前から下ろせずにいた。
内容はもう覚えてしまったのに、目を離せば誰かに取り上げられるような気がして、宿までずっとそのままだった。
「出発は、明日の朝。集合は鐘が六つ鳴る前。湿地まで徒歩で一刻半。……兄さん、僕、今日は早く寝るね」
「ああ」
「それで、準備も……今回は、兄さんに確認してもらわずに、最後までやってみる」
答えを待たずに言った。
待ってしまったら、やっぱり手伝って、と続けそうだった。
カーターは短く頷いただけだった。
宿へ着くと、ビィは寝台の上へ荷袋の中身をすべて広げた。
鳴動草の種子。乾燥布。魔力を通しやすい白墨。止血草。清潔な包帯。痛み止め。虫除け。予備の靴下。水筒。携帯食。方位磁針。折り畳んだ地図。細縄。油紙。小型魔獣の記録集が二冊。湿地の植生録が一冊。
並べてみると、なかなか壮観だった。
片端から荷袋へ詰め、気合いを入れて持ち上げる。
荷袋は、床に根を張ったように動かなかった。
「…………」
見なかったことにして、持ち手を両手で掴み直す。
今度こそと腰を入れると、荷袋は指一本ぶんだけ浮き、ビィの腕だけが盛大に震えた。
息のほうが先に尽きた。
「ふっ、ぅ……!」
たまらず手を放す。
荷袋が、どすん、と床へ戻った。反動でよろめき、ビィもその場へぺたんと座り込む。
「はぁ……はぁ……」
見上げても、荷袋は何事もなかったように鎮座している。
困った。
入るかどうかしか考えていなかった。持てるかどうかは、まったく考えていなかった。
荷袋を前に、ビィの眉尻が情けなく下がった。
いつもなら、何も言わずに兄が持ってくれる。
明日は違う。この荷を持つのは自分だ。任務のあいだだけではない。湿地までの往復も、自分の足で歩く。
ビィは中身を全部出し直した。
記録集を一冊にする。植生録は必要な頁だけ帳面へ写す。痛み止めは瓶ごとではなく、紙包みに三回分。靴下は――湿地だから二足とも要る。携帯食は昼の分だけ。虫除けは迷って、小瓶を半分だけ別容器へ移した。
カーターがこちらを見ている気配がする。
けれど、手は伸びてこなかった。
もう一度、荷を持ち上げる。
まだ重い。でも、背負える。
「……よし」
小さく呟く。なんだか、少しくすぐったい。
次に、鳴動草の種子を乾燥布で二重に包む。湿気を通さず、必要なときには一度で開けられるよう、口を蝋引きの紐で結んだ。
最初の結び目は、試しに振ると緩んだ。
二度目は、紐を引いてもびくともしない。
爪を差し込んで緩めようとすると、今度は紐が指へ絡んだ。ほどこうともがくうちに、包みが膝から滑り落ちかける。
「ああ、もう……!」
胸元でどうにか受け止めたとき、背後で、椅子の肘掛けが小さく軋んだ。
ばっと顔を向ける。
カーターの手が、こちらへ伸びかけたところで止まっていた。何事もなかったように、ゆっくり肘掛けへ戻る。
「兄さん?」
「なんでもない」
「……うん」
三度目で、ようやく、引けば開き、歩いたくらいではほどけない形になった。
それから机に向かい、支部で借りた湿地の記録を開く。
岩間鼠は音と匂いに敏感で、危険を感じると最寄りの水路へ逃げる。
群れの規模は五から十五。繁殖期を前にして、目撃数が増えている。
西岸は膝下までの浅瀬。南側は泥が深く、前衛が踏み込むには不向き。
頁をめくりながら、自分の帳面へ書き写していく。
風向、南西。
次の報告では、東。
その次は、また南西。
日付は近い。天候も、時刻もほとんど同じだった。
だが、観測地点と、地面からの高さが記されていない。
「……誤記、とは限らないか」
地形によって風が曲がった可能性もある。
この記録だけでは、どちらとも決められない。
「兄さん、これ――」
呼びかけかけて、止めた。
兄に答えを求めたわけではない。こういう引っかかりを見つけるたび、まず兄へ話すのが癖になっていた。
兄は答えが分からなくても、ビィが考え終わるまで聞いてくれる。
二つの報告の余白へ、小さく印をつける。
――観測地点、高さともに不明。現地で確認。
分からないものは、分からないまま持っていけばいい。
明日になれば、水も、風も、そこにある。
白墨が湿気ないよう油紙へ包み、地図と帳面も別の油紙へ収める。
荷袋を扉のそばへ置いたときには、窓の外はすっかり暗くなっていた。
「できた……!」
最後の留め具から手を離し、大きく息を吐いた。
肩の力が一気に抜け、寝台の端へ腰を下ろす。
「ああ。できたな」
背後から、兄の声が返ってきた。
振り向くと、カーターは椅子に座ったまま、いつもの静かな顔をしていた。
いつもと同じなのに、今日は少し違って見えた。
できないと思っているなら、きっと、もっと手を出したはずだ。
荷を持って、結び目を直して、迷うたびに必要なものを先回りして選んでくれたはずだ。
そうしなかった。
「明日、ちゃんと行ってくるね」
「ああ」
「夕方には戻るから」
「ああ」
心細さが、少しだけ形を変えた。
明日の任務は、兄さんといっしょじゃない。
でも、帰れば、ここにいる。
それなら明日は、怖くても大丈夫だと思えた。
*
翌朝、鐘が五つ鳴るころには、街の空が白み始めていた。
協会支部の前には、もう四人が集まっている。
赤い髪の魔導師ペーター。革鎧を着た大柄な剣士。短槍を背負った細身の女剣士。少し離れた石段では、短弓を肩へ掛けた若い斥候が、靴底の小石を小刀の先で弾いていた。
ビィは足を止めた。
昨日、自分から参加したいと言った。準備だって、自分でした。
それなのに、四人の輪がひどく遠く見える。荷袋の紐を握る手には、汗が滲んでいた。
半歩後ろには、兄がいる。
ここで頼めば、きっと荷を持ち、ビィより先にあの輪へ入ってくれる。
でも――。
「……じゃあ、行ってくる」
「ああ。行ってこい」
背中へ手は伸びてこなかった。
肩の荷も、重いままだった。
ビィは振り返らず、四人の輪へ歩いた。
ペーターが露骨に眉をしかめる。
「げっ。本当にお前かよ」
胸の内では、こちらも似たような声を上げていた。
それでも、言われる前に受理票を差し出す。
「後方支援で参加します。鳴動草と薬草類を持ってきました。よろしくお願いします」
最後まで声が震えなかったことに、少しだけほっとした。
大柄な剣士が票を受け取った。
「ハインツだ。今日は俺がまとめる。前衛のリーゼ、斥候のノア。術士とは知り合いらしいな」
「腐れ縁だ。――先に言っとくぞ、ハインツ。こいつを術士一人分で数えるな」
ペーターは残る三人へ向き直った。
「出力が低いだけじゃねえ。組んだ術式が途中で崩れる。実地評価はD。今までどうにかなってたのも、兄貴が横で補助してたからだ。こいつ一人に術士の仕事を任せる作戦は組むな」
三人の視線が集まり、俯きそうになる。
けれど、どれも本当のことだった。
いつもなら兄が間へ入り、ビィに代わって、できることを説明してくれる。
今は、その声がしない。
ハインツは受理票を二つに折った。
「警告は聞いた。使うかどうかは、俺が現場で決める」
それから、湿地の略図を四人の中央へ広げた。
「依頼は、湿地北岸で増えた岩間鼠の間引き。一群、十匹前後だ。小型で臆病だが、驚かせると群れで水路へ逃げる。東の貯水路は人家へ続いてる。そこだけは通すな」
太い指が、略図の東端を叩く。
「――ヴィンセント」
「あ、ビィでいいです」
「分かった。ビィ。失敗しやすいのは何だ?」
できないことを口にすれば、本当に外されるかもしれない。
それでも、取り繕って誰かを危険に巻き込む方が怖かった。
「……術式の出力と、経路の維持です。途中で魔力が拡散しちゃうことが多くて、原因は、まだ絞れていないんですけど――」
「できることは?」
「資料との照合、薬草と触媒の調合、魔獣の生態予測、補助具を使った感覚器への干渉、それから術式の構築も、発動は難しいですけど理論上なら――」
リーゼが平らな声で言う。
「要点を短くまとめるのも苦手、と」
「……はい」
「三息で言え」
ハインツが指を三本立てた。
頭に浮かんでいる全部ではなく、今、この人たちに必要なことだけ。
「えっと……資料と現場を比べられます。魔獣と薬草に詳しいです。鳴動草で後方支援ができます」
三息目が、少し余った。
ハインツは頷いた。
「分かった。その三つを見る。今回の依頼について、事前に調べたことは?」
ビィは帳面を開いた。
「は、はい。過去の討伐記録では、岩間鼠は危険を感じると東側の水路へ逃げます。南側は昨日の雨で深くなっている可能性が高くて、追い込みの角度は――」
帳面の文字を追う視界の端で、太い指が三本立った。
ビィは、はっと口を閉じる。
また、浮かんだことを全部話そうとしていた。
帳面から顔を上げ、今必要な動きだけを拾い直す。
「西から入ります。南へは追いません。東の水路を前衛に塞いでもらえれば、鳴動草で止めやすいです」
リーゼが略図を覗き込む。
「西から入る。私が右を塞ぐ。南へは追わない。合ってる?」
「はい」
「西から入れるかは、今朝の水位を見てからです」
ノアが条件を足した。
「よし。現地で水位を見て決める」
ハインツが作戦をまとめる。
自分の言葉に、リーゼとノアの判断が加わり、話が前へ進んだ。
兄が代わりに答えなくても、ちゃんと通じた。
打ち合わせができた。それだけだったけど、歩き出す足が、少しだけ軽かった。
支部を離れる。
朝の石畳へ、五人分の足音が並んだ。
*
街の外れを過ぎたところで、ノアがビィの帳面へ目を向けた。
「勉強、得意そうですね。弟が魔導学校へ入りたがってるんですけど、何かいいやり方、知りません?」
兄以外の人から、仕事とは関係のないことで話しかけられた。
しかも、頼られている。
胸がぱっと明るくなった途端、さっきの三本指は頭から消えた。
頭の中で、棚がいくつも倒れる。
「えっ、受験ですか? えっと、この街なら基礎術式と魔導史と魔力経路学、それから薬草・触媒基礎があって、去年から魔獣生態も選択に入ったはずです。基礎術式なら『初学者のための基礎術式七十二節』が定番ですけど、第三版は経路図が簡略化されすぎているので、古書でも第二版の方がよくて――でも共通節だけなら、『標準魔力経路図解』の第五章の方が――」
「あの、まず一冊だけ――」
「あれは魔導院の予備課程でも推薦されていて――ただ、干渉が起きない前提なので、あとで『術式干渉論入門』も読んだ方がよくて、その前にハルムの『魔力経路概説』を――あ、第三章だけで大丈夫です。それから薬草なら――」
「おい、歩きながら始めんな。終わらねえぞ」
ペーターの声で、ようやく我に返った。
ノアが、わずかに遠い目をしている。
「……あとで聞きます。紙と、弟がいるところで」
「質問は一つ、答えは書店一軒」
リーゼの言葉に、ハインツの肩が一度揺れた。
笑われたのだと気づき、ビィは熱くなった顔を帳面で隠した。
けれど、不思議と嫌な熱さではなかった。
*
湿地へ足を踏み入れると、笑い声はすぐ水音へ溶けた。
短弓を背へ回したノアが、探り棒で水深と足場を確かめ、五人はその足跡を踏んで進んだ。
記録にあった水路は泥へ半分埋まり、岩間鼠の糞は依頼票の推定数に対して多すぎた。
重なった足跡には、湿地の黒い泥に混じって、白っぽい粘土が残っている。
「この白い泥は?」
ビィが指先で掬うと、ノアが覗き込んだ。
「西岸の泥です。黒い方は南側」
齧られた葦も、低い切り口は乾いているのに、高い切り口にはまだ汁が滲んでいた。
ビィは、重なった足跡へしゃがんだ。
「一群ではないかもしれません。西岸と南側から、別々に来ています」
ノアは切り口と足跡を確かめた。
「低い方は夜明け前。高い方は今朝です。夜の水位が変わっていなければ、二群」
「二群として考える」
ハインツが即座に決め、リーゼは短槍を担ぎ直し、東側の水路を二か所とも見張れる位置へ移った。
その時、葦の奥で泥を掻く音がした。
灰色の背が隙間を横切り、ノアが足を止める。
作戦を組み直す時間はなかった。
*
中洲にいる岩間鼠は十四匹。
リーゼが右、ハインツが左へ回り、ペーターはビィの二歩前へ立った。
葦の陰で、ノアが片手を上げる。
待機。手が下がったら投じる。打ち合わせで決めた合図だ。
ビィは乾燥布で種子を包んだ鳴動草の束を取り出した。自分で結んだ紐を引くと、包みは引っかからずに開いた。
ノアの手が下がる。
昨夜の記録どおりなら、中洲の中央より少し風上を狙えばいい。そこから流され、中央へ落ちるはずだ。
――観測地点、高さともに不明。
自分でつけた印が頭を掠めるが、確かめる時間は、ない。
ビィは狙いを定め、鳴動草の束を投じた。
種子の束が弧を描く。
けれど、束が腰の高さへ達した瞬間、記録とは違う横風が真横から吹きつけた。
「えっ」
束は風に攫われ、中洲の手前にある葦へぶつかった。
ほどけた種子の半分だけが、水へ散る。
――ビィィィィン――――!
不協和音に半数が伏せ、残りが甲高く鳴いた。
群れが割れる。
同時に、音を浴びた北側の葦が大きく揺れ、隠れていた二群目が東へ走り出した。
その先には、人家へ続く貯水路がある。
「東へ出る!」
ノアの声に、ペーターの火線が鼠の鼻先だけを焼いた。
炎は湿った泥で消え、身を返した鼠をハインツとリーゼが止める。
遅れて押し寄せた熱風に頬がひりつき、ビィは一歩下がった。
踵が水草へ掛かり、身体が泥へ落ちる。冷たい水が外套へ入り、帳面が手から滑った。
「何やってんだ!」
肩が縮んだ。泥の森、霧鴉、自壊した魔術。
――役立たず。お前の取り柄は、有能な兄貴が付いてくることくらいだ。
「ご、ごめんなさい。僕が外したから……」
あんなに準備したのに、最初から失敗した。
――やっぱり、兄さんがいないと。
ここで帰っても、兄は怒らない。
泥を払い、頭を撫でて、「がんばったな」と言ってくれる。
だからこそ、今、それを考えてはいけない気がした。
けれど身体は動かず、水に伏せた帳面から黒い文字だけが滲んでいた。




