20話
槍が水を打つ音。剣が泥を叩く音。ペーターの短い火線。
ビィが帳面を拾い上げたころには、鳴動草の効いた第一群は三人が処理し終えていた。
葦を割って戻ったノアが告げる。
「二群目、東へ十一。細水路へ入りました。貯水路まで、曲がり二つです」
ハインツがビィを見る。
「ビィ。外した理由は分かるか」
向けられた言葉に、息が戻った。慌てて、濡れた帳面を開く。
昨夜、同じ場所の観測なのに風向きが食い違っていた三つの記録。
誤記かもしれないと思い、それぞれへ印をつけていた。
顔を上げる。
水面を這う霧と、腰の高さにある葦の穂が、違う方向へ流れている。
記録が間違っていたのではない。
測った高さが違った――?
けれど、ここから見ただけでは、水面近くの正確な風向きも、水の流れも分からない。
誰なら――。
探り棒を持ったノアへ、視線を向ける。
「ノアさん! 水面だけなら、風はどっちですか。流れも一緒に見てもらえますか」
ノアは葉を一枚、水面へ落とした。浮いた泡の動きも追う。
「風は南東。水は東。腰の高さだけ西です」
「やっぱり……高さによって、風向きが違う」
ノアの答えを聞いた瞬間、ばらばらだった条件が一斉につながった。
水面なら、腰の高さを走る西風の下を通せる。下流へ向かう流れへ油紙を乗せれば、鳴動草を乾いたまま貯水路の手前まで運べる。
岩間鼠は音だけでなく、強い匂いと熱も避ける。荷には小獣避けの樟油がある。
ばらばらだった道具と条件が、頭の中で位置と順番を得ていく。
書店で読んだ一節が浮かんだ。
足りない部分だけを、補えばいい。
「三息で言え。何が要る」
ハインツの声に、ビィは息を吸った。
樟油の揮発温度。油紙の耐水時間。流れの速さ。作戦の根拠も、成立に必要な条件も、失敗しうる点も、次々と頭に浮かんでくる。でも――。
全部ではなく、今、要るものだけ。
「水面の流れで、鳴動草を貯水路の手前まで送ります」
一息。
「樟油と熱で、群れを北岸から押して、南の浅瀬へ落とします」
二息。
「ノアさんに流れと合図を。ペーターさんに熱を。ハインツさんとリーゼさんには、浅瀬で逃げ道を絞ってほしいです」
三息。
ハインツが、ビィの手にある油紙を顎で示した。
「鳴動草は?」
「舟に包みます。水路の狭いところでノアさんに射抜いてもらえば、水が入って、そこで鳴ります」
ノアが泥へ、細い水路を一本引いた。北の岸、南の岸、下流の先に貯水路。南の岸へ、浅瀬の縁を浅く掻き足す。
リーゼが、その浅瀬の両端へ指を置いた。
「ハインツが奥――貯水路側。私が手前。両側から水路を狭めて、群れを舟の方へ寄せる」
ビィは泥の図の北岸へ、樟油を温める三つの位置を加えた。
ペーターが首を振る。
「細い熱を三か所へ同時に置くと、俺の術じゃ経路がつながって、一枚の熱壁になる。上昇流で匂いが上へ逃げるぞ。これ以上、出力を下げれば術そのものが崩れる」
ビィの頭の中で、三本の魔力経路が組み上がった。
「それなら、同時でなくて大丈夫です。北から順に置いてください。あ、二点目だけ半拍遅らせると、経路が別々に閉じるので、壁になりません。消費も少し減るはずです」
「……聞いただけで分かんのかよ」
「今、教えてもらった出力なら」
ペーターは、泥に記された三点を駒のように指で辿った。
「……半拍だな」
「先頭、一つ目の曲がりを抜けます!」
ノアの報告に、ハインツが全員を見た。
「やる。合図はノア。浅瀬を前衛、漏れはペーター。おまえは舟を流したら追うな」
五人が動いた。
*
ビィは樟油を落とした油紙を三枚用意し、残る一枚へ鳴動草を包んで細い舟を作った。
ノアが油紙を三枚、北岸へ間を空けて置いていく。ハインツとリーゼは浅瀬へ走った。
水路の上流から、灰色の背が重なって近づいてくる。
群れとの距離を測っていたノアが、声を落とす。
「第一」
ペーターの指が、北の油紙を指す。
炎ではなく、赤い陽炎が立った。
樟油の鋭い匂いに、群れの先頭が進路を折る。
「第二」
半拍。
二点目の陽炎は一つ目とつながらず、離れたまま揺れた。
ペーターが自分の指を一度見て、ビィへ目をやる。
「第三!」
三点目から立った匂いが、群れを南の浅瀬へ押し出した。
ハインツが剣の腹で奥を塞ぎ、リーゼが槍の石突で手前の水面を叩く。
行き場を失った群れが、上流へ向き直る。
「今」
ノアの合図に、ビィは鳴動草の舟を細流へ置いた。
そっと指を離す。
――行って。
舟は腰の高さの風に触れず、水面を滑った。南東の風と東向きの流れに運ばれていく。
匂いと熱を避け、二人の前衛に進路を絞られた群れが、狭い水路へ集まった。
その正面へ、舟が滑り込む。
ノアの矢が、舟の中央を射抜いた。
穴から水が入り、鳴動草が震える。
――ビィィィィン――――!
不協和音に、灰色の背が一斉に伏せた。
ハインツとリーゼが踏み込み、動けない群れを端から処理する。
音の外へ這い出した一匹をペーターの火弾が戻し、貯水路へ近い個体をノアの矢が止めた。
水音が、戻った。
自分一人では、最後までできなかった。
けれど、自分がいなければ、この形にはならなかった。
ビィは泥だらけの両手を見た。遅れて指が震え、膝から力が抜ける。
今度は、少し笑った。
「終わった……?」
ハインツが剣の泥を落とす。
「逃走なし。終わりだ」
*
帰路につく前に、五人は乾いた中洲で息を整えた。
討伐数を確かめ終えたハインツは、リーゼの槍袋から垂れた革紐を結び直している。
ペーターは焦げた手袋の縫い目を摘まみ、顔をしかめていた。
ビィは濡れた帳面を膝へ広げ、頁の端へ書く。
――湿地の風は、二枚。
書きつけを覗き込んだノアが言った。
「西岸は、風が三枚ある日もありますよ」
「三枚?」
「水路が曲がってるから。もっとも、古い水路は、ここしばらくほとんど流れてませんけど」
「流れてない……」
ビィは帳面へ、「西岸、三枚? 旧水路、停滞」と書き足した。
「じゃあ、次は西岸で確かめます」
口にしてから、少し驚いた。次があるつもりでいた。
「それと」
ノアが思い出したように言った。
「弟の勉強法。次は紙と弟がいるところでお願いします」
「あ、はい。まず受験科目と参考書と、一日に取れる勉強時間と、魔力経路の得意側と――」
ハインツが立てた三本の指を思い出し、口を閉じる。
「……得意な科目と、苦手な科目と、入試までの日数を。三つだけ、聞いておいてください」
「三つですね」
ノアも指を三本立てた。
*
支部へ戻ったころには、陽が傾いていた。
ハインツは討伐対象が推定数を超えていたこと、逃走も住民側水路への侵入もなかったことを報告した。
初回散布の失敗も、ビィが風向差を特定して誘導策を修正したことも、同じ平らな声で読み上げる。
受付の女性が帳票へ記した。
「後方支援。作戦修正および誘導への寄与あり。評価、C。加算報酬、銀貨一枚」
帳票の、自分の名前の横へ記された評価。
――C。
失敗も、そのあとにしたことも、消されていない。
掌へ落ちた銀貨は、角が少し痛かった。
ビィは帳面を開き、昨日書店で控えた値段の下へ「銀貨、一枚」と書き足す。先は遠い。
それでも、今朝までは一枚もなかった。
受付台の横で、ペーターがハインツを呼び止めた。
「次、こいつと組むなら、術士枠には数えるな。そこは変わらねえ」
朝と同じ言葉に、身体が強張る。
ペーターは言いにくそうに口の端を曲げた。
「……けど、現場からは外すな。こいつ、しくじっても、その場で次の手を組める」
ハインツが報告書を指で叩く。
「もう入れた」
「ならいい」
踵を返した背中へ、ビィは声を掛けた。
「次は、外す前にも気づきます」
赤い髪が半分だけ振り返る。
「まず、そこからだ」
リーゼがぼそりと言った。
「前口上の長い褒め方」
「褒めてねえ!」
扉の向こうから声だけが返り、ノアが笑った。ビィも笑う。
目の縁から落ちた一滴が、帳面の「一枚」を丸く濡らした。
*
街灯へ火が入り始めたころ、ビィは支部を出た。
カーターは、朝と同じ場所で待っていた。
兄の前まで歩き、足を止める。
全身は泥だらけで、外套の裾は濡れている。頬の火傷が、まだ薄く熱い。
鼻の奥はまだ詰まったままで、乾いた眦が、夜気に冷えた。きっと、目も赤い。
何から話せばいいか分からなかった。
失敗したことも、怖くなったことも、そのあと、自分で考えて、みんなに頼ったことも。
全部、話したかった。
口を開きかけたとき、カーターが言った。
「がんばったな」
いつもの言葉だった。
失敗して、泣きそうになって、兄に助けてもらったあとで、何度も聞いた。
今日は、違った。
泥へ転んだあと、自分で立った。
分からないことを人に聞き、できないことを、できる人へ頼んだ。
兄がいないところで失敗して、兄がいないまま、その次へ進んだ。
「……うん!」
ビィは、くしゃりと笑った。
二人は宿へ向かった。
ビィは半歩前を歩きながら、さっそく口を開く。
「最初は、外したんだ。記録どおりに投げたのに、風が違って。それで群れが割れて、隠れてた二群目が貯水路の方へ逃げて――僕、泥に転んで、ちょっと、動けなくなった」
背後の足音が、一瞬だけ止まった。
けれどカーターは何も言わず、すぐ同じ速さで歩き出した。
「でも、水面と腰の高さで、風向きが違ったんだ。ノアさんに測ってもらって、油紙を舟にして流した。ペーターさんの熱も、二点目だけ半拍遅らせれば経路がつながらないから、三つに分けられて。それで樟油の匂いで鼠を追い込んで、最後はノアさんが矢で舟を射抜いて――」
言葉が、何度も話の順番を追い越した。
それでもカーターは遮らなかった。
「それでね。岩間鼠、西岸の古い水路が詰まって、西と南の群れが集まったんだと思う。直しとかないと、また別の群れが来るかもしれないから、支部にも、水路を調べた方がいいって伝えといた」
ビィは、水溜まりを一つ跨いだ。
「あ、それから、評価はCだった。銀貨も一枚もらった。欲しい本までは、まだ遠いけど」
銀貨を掌の上で転がす。
「何かおいしいものでも食べたいな。ちゃんと評価をもらえた、お祝いに」
「そうか」
話しているあいだも、カーターはビィの肩から荷袋を取ろうとしなかった。
濡れた帳面、残った道具、自分で得た銀貨。背中の荷は、朝より重く感じた。
それでも、宿までなら持てる。
ビィは半歩前のまま、朝より少しだけ広い歩幅で歩いた。
*
翌朝、街の上は雲ひとつなく晴れた。
城壁の外の低地にだけ、白い朝霧が残っている。
ビィは寝癖のついた頭で、帳面へ昨日の散布の弧を描き直していた。
「ここが高かったんだよなぁ……。もう少し手首を下げて、放すのを一拍遅くして……」
観測。鼻歌の調子、上向き。指先の動き、活発。
机の端には、銀貨が一枚。
帳面には、濃紺の専門書の書名と値段。その下に「銀貨、一枚」。
銀貨の横で、指を何度も折り直している。
「ねえ兄さん、聞いて。西岸に行くなら、乾燥布をもう一枚増やした方がいいと思うんだ。それでね、ノアさんが、次は――」
「今日、街を出ようか」
指先、停止。
鼻歌、停止。
「……え?」
「朝の馬車を取ってある。次の街は、パンがうまいらしい」
「もう出発? でも、僕、ノアさんと西岸を……。それに、あの本も、まだ――」
まばたき、二回。視線が、帳面へ落ちる。
平穏、下落の予測。
「焼きたての白パンに、木苺の蜜をかけるそうだ。昨日、頑張っただろう」
視線が上がる。目、見開く。
「昨日の、お祝い……」
「朝の便なら、昼前に着くぞ」
視線が、帳面、銀貨、カーターの順に動いた。
銀貨を握る。
「……それなら、そのパン、これで買えるかな」
「買えるな」
口角、上昇。
「えへへ。じゃあ半分こしよう。……兄さんは、今日も優しいなぁ」
観測。声の調子、上向き。
平穏――回復。
予測と、一致。
夜間集計の頁を、再照合する。
――試行。四、任せる。
損害。
散布失敗。第二群、離脱。転倒。軽微な負傷。帳面、汚損。自己評価の低下。涙腺の活動。平穏、下落。
利益候補。
評価、C。銀貨一枚。外部評価の上方修正。他者との協働、四件。斥候との「次」。新規情報、「湿地の風は、二枚」。
いずれも、平穏への寄与は確定できない。
涙と笑顔は、同じ欄に入らない。
帰還後、出力「がんばったな」。
直後、笑顔。発話、活発。平穏、回復。
回復をもたらしたのは、手を離したことではない。
「がんばったな」の出力である。
出力は、同行しても再現できる。
危険に晒す必要はない。
――判定。四、任せる。失敗。
――結論。この頁は、二度と開かない。
三、出立を早め、この街を離れる。
宿の精算。乗合馬車の席。荷造り。
実行済み。
末尾の一件。
――選択の記録のない動作。右手。原因、不明。再現性、なし。
頁を閉じる。
*
幌を張った乗合荷馬車が、走り出す。
ビィは後ろ向きに座り、開いた幌の口から、遠ざかる街へ片手を振った。
朝の通りに、昨日の四人の姿はない。
見送り、なし。
湿地への再進入。斥候および赤髪の魔導師との再接触。第三者との、新たな協働。
街との距離、増加。
――危険要因、減少。
ビィは前へ向き直り、帳面を膝へ広げた。
開いた頁に、専門書の書名と値段。
「湿地の風は、二枚」
「西岸、三枚?」
その余白へ、低い弧を描く。
馬車の揺れで線が歪む。隣へ、もう一本。
街道が低地へ下る。
馬車が朝霧へ入った。
街の輪郭、消失。
視界、白。
観測。鼻歌の調子、上向き。指先の動き、活発。平穏、良好。
――正しい形に、収まった。
昏い水底は、凪いでいる。
波紋ひとつ、立たなかった。
「ねえ、兄さん」
ビィが顔を上げ、笑った。
「これからも、ずぅっといっしょだね」
「ああ、約束だ」
馬車は、霧の底を進んでいる。
約束は、静かだった。
これにてビィと兄さんのお話は終わりです。
ここまで読んでくださりありがとうございました!




