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8話

 先ほどまでの戦いで乱れた霧が、木々のあいだに重く滞っていた。

 ビィは荷袋から方位磁針と折り畳んだ地図を取り出し、巨体が飛び去った方向と見比べた。


 「雲を裂くもの(ヴォルケンライザー)が逃げたのは……南西の方角……。この先はおそらく、湿地帯、です」


 ヴァルカーは、その推測に眉を顰めると、白く揺らぐ霧の奥へ目を凝らした。


 「……霧の流れが、まだ一方向へ乱れている。痕跡を追いましょう」


 向かう先は、ひときわ白く濃くなっていた。

 木々の根元は白く隠れ、その下が土なのか水場なのかも見分けがつかない。

 鳥の声は遠く、枝葉の擦れる音も、霧の奥へ吸い込まれるようだった。


 カーターが剣の柄へ手を添え、ヴァルカーは指先に淡い光を灯す。

 三人は、淡く乱れた霧の筋を辿って歩き出した。


 湿地へ入るにつれ、霧の筋は次第に薄れていった。


 地面に近いところへ溜まった水気に引かれるように、淡い乱れは幾つにもほどけている。

 そのあいだで、霧の一部がふいに光を返した。水面のような、薄い揺らぎ。


 ヴァルカーは足を止め、指先の光を細く揺らした。


 「……ここで分かれています」


 前方には、浅い水場と、草の生えた泥地がまだらに広がっていた。

 霧が足元を覆い、どこまでが地面で、どこからが水なのか判然としない。


 その水場を跨ぐように、太い倒木が斜めに横たわっている。

 倒木の脇には、水草と腐葉土が重なり、向こう岸まで続く足場のように見えた。


 ――がんっ。


 不意に、金属を叩く音がした。


 ――がんっ。がんっ、がんっ。


 霧の向こうで、硬い音が続けざまに響く。


 「おぉぃ、こっちだ……! 誰か、いるならっ……!」


 掠れた男の声が届く。

 金属を叩く音が、また鳴った。応答を待つ間隔だ。


 気づけば、倒木の脇へ足を踏み出していた。


 「まさか、生き残りが――」


 背後で、兄の声とヴァルカーの声が重なる。


 「ビィ? 何を――」

 「……しまった、幻惑です!」


 ――が、その時にはもう遅かった。

 靴底が、ずぶりと沈む。


 「……え?」


 足を引こうとした瞬間、草と腐葉土の下が崩れた。

 冷たい泥水が、膝まで跳ね上がる。

 沈んだ脚を引き抜こうとするほど、靴は深く吸い込まれていく。


 「ビィ!」


 鋭い声が響き、カーターの手がビィの手首を掴んだ。


 「掴まれ」


 引かれる力に縋り、ビィは必死に腕を伸ばす。

 けれど、カーターが踏み込んだ足元も、じわりと沈みこんでいく。


 「兄さん……!」


 片脚が泥に取られ、カーターの身体がわずかに傾く。

 泥は二人のあいだまで崩れ、ビィの身体をさらに引きずり込もうとする。

 カーターの足元にも、もう支えになる地面は残っていなかった。


 それでも、掴んだ手だけは離れなかった。


 「動かないでください!」


 ヴァルカーが倒木の上へ踏み出した。


 指先の熱光が走り、倒木から張り出していた太い枝を切り落とす。

 鈍い音を立てて落ちた枝を掴むと、ヴァルカーは泥へ片足を踏み入れた。


 「カーター殿、これを……」


 差し出された枝を、カーターが空いた手で掴む。

 ヴァルカーも反対側を握り、泥に靴を沈ませながら踏ん張った。


 「今です!」


 カーターが、強くビィの腕を引くと、ずるり、と脚が抜けた。


 勢い余って、ビィは泥水の上へ転がり出る。

 外套も脚絆も、冷たい泥でぐっしょりと濡れていた。


 カーターも膝まで泥に浸かったまま、ようやく足を引き抜く。

 ヴァルカーは倒木へ片手をつき、泥に汚れた外套の裾を見下ろすと、深く息を吐いた。


*


 ビィは泥の上へ転がったまま、しばらく息ができなかった。


 胸が苦しい。

 冷たい泥水が、外套の下まで入り込んでいる。


 「……あ、あり、がとう……」


 危なかった。あのまま泥に飲み込まれるところだった。

 荒く息をつき、視線を落とした先で、手首に残った兄の手に気づく。


 いつものように、兄が守ってくれた。

 でも――。


 もう少し、深く沈んでいたら。

 ヴァルカーが、間に合わなかったら。


 ――お兄ちゃん、どこ?


 霧の向こうへ手を伸ばしていたミアの姿が、ふいに頭をよぎる。

 胸の奥に、冷たさがじわりと広がっていった。


 もし、兄がいなくなったら。

 自分も、あんなふうに霧の向こうを探すのだろうか。


 「……ビィ?」


 カーターの声に、はっとする。

 ビィは慌てて首を振った。


 「だ、大丈夫。ちょっと驚いただけ」


 笑おうとしたが、うまくいかなかった。


 早く、見つけなければならない。

 高魔力結晶を手に入れれば、兄はグリモワールとの約束から自由になれる。

 そうすればもう、国からこんな危険な場所へ行かされることもなくなる。


 ビィは、泥に汚れた自分の手を握りしめた。


 立ち上がろうとして、ビィは脚に妙な重みを感じた。

 濡れた脚絆の内側で、何かが動いている。


 恐る恐る視線を落とすと、靴の履き口から、黒ずんだ細長いものがいくつも這い上がってくるのが見えた。


 「う、うわっ、なにこれ、ひゃっ、に、にに、兄さ、兄さんっ……!」


 足をもつれさせ、ビィはカーターの外套へ縋りついた。


 「どうした」

 「脚に……なんか、いっぱい……!」


 カーターがビィの足元をのぞき込む。


 「ヒルだな」

 「え、ヒル……っ、そうじゃなくて! 落ち着いてないで、と、とと、取って……!」

 「動くなよ」


 反射的に足を振ろうとした瞬間、カーターの手がビィの膝を押さえた。


 「無理に剥がすな。口器が残る。塩か、熱を近づけろ」


 少し離れたところで、ヴァルカーが外套の裾を持ち上げていた。


 「……チッ」


 低く舌打ちしてから、言う。


 「忌避薬が落ちたようですね」

 「えっ、あれ、落ちるんですか……!?」

 「泥水に浸かれば、薬も落ちます」


 「うえぇ、塩……」


 ビィは慌てて荷袋を探った。

 触媒の予備として詰めていた小袋を、濡れた指でどうにか引き抜く。


 「持って来てよかった……」


 震える手で、貼りつくぬめぬめに塩を振りかける。

 黒いものが縮み、ぽとりと泥の上へ落ちていった。


 「うぅぅ……っ」


 ようやく脚絆の上の動きがなくなると、ビィは浅く息を吐いた。

 顔を上げると、二人ともまだヒルと戦っているようだった。


 「兄さんのも取るよ」


 塩袋を手に近づくが、カーターはその手をそっと押しとどめた。


 「いや、俺は自分でできる。ヴァルカーを手伝ってやりな」

 「そう?」


 ヴァルカーを振り返ると、外套の裾を持ち上げたまま、脚を睨んでいる。

 濡れた脚絆には、泥と一緒に黒いものがいくつも張りついていた。

 明らかにイラついている。

 

 ――は、話しかけづらい……。


 「塩、貸してください」

 「は、はい」


 ビィが慌てて小袋を差し出すと、ヴァルカーが顔も向けずに受け取ろうとする。

 ――が、泥で濡れた指が滑った。


 パサッ。


 袋の口が大きく傾き、白い粒が泥の上へばらばらとこぼれ落ちた。


 「……っ」

 「あっ、もったいない……」


 思わずこぼれた言葉に、ヴァルカーが目を向けた。


 「ひぅっ」


 ヴァルカーは残った塩を脚絆へ振りかけた。

 だが、湿った布地に張りついたまま、黒いものはなかなか離れない。


 「くそっ」


 小さく呟き、ヴァルカーは指先を上げた。

 淡い熱光が細く伸び、脚絆の上を走る。

 黒い身体が縮み、いくつかが泥の上へ落ちた。


 「……最初から、それを使えばよかったのでは」

 「うるさい」

 「ヴァルカーさん、ちょっと慌てすぎじゃ……」

 「誰のせいだと思ってるんです」

 「うぅ……す、すみませ……。でも、兄さんは、あんなに噛まれても平気なのに……」


 言ってから、カーターへちらりと目をやる。

 ヴァルカーの手が止まった。


 ――はっ、また言っちゃった!


 ビィは肩をすくめた。

 けれど、叱声が飛んでくることはなかった。


 「以前、ともに任務に来た時には……カーター殿も、焦って愚痴をこぼしていましたけどね」


 ヴァルカーは、淡々と残るヒルを落としながら言った。


 その言葉に、ビィは目を瞬く。


 ――兄さんにも、そんなところがあったんだ。


 散々な目に遭ったが、自分の知らない兄の話に、少しだけ心が弾む。


 「きっと……精神鍛錬を積んで、動じなくなったんですよ! 兄さんは、自己研鑽を怠りませんから!」


 ヴァルカーは、汚れを拭いながら呟いた。


 「……動じなくなった、ね」


 何かを言いかけて、口を閉じる。

 それから、慣れた手つきで内ポケットの小袋を取り出すと、ドライフルーツをつまんで口へ放り込んだ。


 「……それ、よく食べてますね」

 「……癖のようなものです」


 それきり、ヴァルカーは何も言わなかった。

 気まずい空気をごまかすように、ビィは脚絆を整えた。

 噛まれた跡は腫れはじめ、ひりりと疼いた。


 「痛むか」


 カーターが声を投げかけてくる。


 「平気だよ。兄さんのほうが、たくさん噛まれてたし……」


 そう言って視線を返した時だった。


 カーターの脛が目に留まる。


 いくつも噛み跡が残っている。

 けれど、ビィの脚のようには腫れていなかった。流れた血も、霧の中ではひどく暗く見える。


 ふと、深い針葉樹の香りが鼻を掠めた。湿った土と、鉄錆の匂い――。

 後頭部の奥を、鋭い痛みが走る。


 「……っ」


 目の前が、かすかに白く揺れた。


 「ビィ、大丈夫か」


 カーターの声に、顔を上げる。


 「……あ、う、うん、ちょっと頭痛……昨日、あんまり寝れなかったせいかな……」


 口の端を引き上げて、笑った。

 兄の足元から目を逸らし、外套の裾を握り直す。


 「……痕跡が消える前に進みましょう」


 顔を背けたままのヴァルカーの声に、ビィは頷いた。

 汚れた手を外套の裾で拭い、霧の筋だけを見て、先に歩き出した。


 ――早く、追いつかなければ。


 立ち止まれば、余計なことまで、考えてしまいそうだった。


 「……さっきのは、水草の根が泥の上に広がっていて」


 言い訳のように、言葉が口をつく。


 「腐葉土まで重なると、上から見ただけでは水場との区別がつきにくいんです。湿地では、草が密に生えている場所ほど、かえって足場が薄いこともあって……」


 倒木を回り込み、浅い水路を避けて進む。

 足元の霧が靴へまとわりつき、ぬかるみを踏むたび、重い音が返った。


 「でも、雲を裂くもの(ヴォルケンライザー)みたいな大型種なら、地面を歩くより湿地の上を飛んで移動したほうが早いはずです」


 ヴァルカーの指先に灯った光が、霧の乱れを追う。

 三人はその淡い筋を辿り、さらに湿地の奥へ踏み込んだ。

 追跡に集中するうちに、頭の痛みは気にならなくなっていった。


 「翼で霧を押し分けた跡も、水気に散らされる前なら、まだ先まで残っているかもしれません。霧が低い場所へ溜まるなら、風の抜け方は――」


 また一つ、水の浅い場所を越える。

 霧の筋は、少しずつ細くなっていた。


 進むにつれて、虫の羽音が消えた。

 遠くで鳴いていた鳥の声も、いつの間にか聞こえなくなっている。

 聞こえるのは、ぬかるみを踏む三人の足音だけだった。


 ビィは足を止め、霧の奥へ目を凝らした。


 「……急に、静かになりすぎだと思わない……?」


 ヴァルカーが顔を上げる。


 返事の代わりに、頭上で巨大な翼が空気を叩いた。


 叩きつけられた風圧に、ヴァルカーの外套が大きく翻る。

 霧が裂けた。


 その向こうで、翼を広げた雲を裂くもの(ヴォルケンライザー)の巨体が、湿地を塞いでいた。


 黒く長い鉤爪が、持ち上がる。


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