7話
霧の中に浮かぶ淡い筋を頼りに、一行はさらに森の奥へ進んだ。
足元の腐葉土は湿り、靴底が沈むたび、鈍い音を立てる。
枝は低く垂れ下がり、進むほどに霧は濃くなった。
術を維持するヴァルカーの横で、ビィはその魔力の揺らぎに目を凝らしていた。
――まだ、途切れていない。
やがて、木々の隙間の向こうで、霧の色がわずかに薄くなった。
枝の重なりが途切れ、その奥に、ぽっかりと開けた空間が覗く。
その中央に、小さな人影があった。
「あ……」
足が、止まった。
亜麻色の髪。小柄な背中。
見間違えるはずがない。
気づけば、ビィは駆け出していた。
その背後で、オットーの声が裂ける。
「ミア!」
駆け寄った先で、視界が開けた。
古い木々に囲まれた、小さな広場。
音がない。
草も揺れず、朝の光さえ薄かった。
ミアは背を向け、誰かへ話しかけていた。
「遅いよ、お兄ちゃん。待っててって言ったから、ずっと待ってたんだよ」
嬉しそうな、どこか甘えるような声。
しかし、その先には誰もいない。
――いや。
霧の向こうに、巨大な影が伏せている。
ミアはそれに気づく様子もなく、空いた場所へ手を伸ばした。
「ねえ、帰ろう。おじさんも心配してるよ」
影が、ゆっくりと身じろいだ。
低く伏せていたものが、霧を押し分けるようにして前肢を持ち上げる。
そこだけが、やけに鮮明だった。
黒く、長い爪。
「ミア、下がって!」
ビィは叫び、駆け出した。
ミアが振り返るより早く、その身体へ飛びつく。
細い肩を抱え込み、地面へ伏せるように覆いかぶさった。
頭上で風が唸り、振り下ろされた爪が霧を裂く。
――来る。
その瞬間、甲高い金属音とともに爪の軌道が逸れた。
カーターだ。
巨大な一撃が二人のすぐ脇へ叩きつけられる。
土と腐葉土が、激しく跳ね上がった。
巻き起こった風圧に霧が散り、その巨体が露わになる。
獅子にも似た胴。背には、雲を裂くほど大きな翼。
頭部の輪郭はなお霧に紛れながら、黒い爪だけが異様なほど鮮明だった。
雲を裂くもの。
馬車ほどの巨躯を持つ、鷲と獅子が混ざり合ったような大型魔獣だ。
土煙の向こうで、魔獣が身を引いた。
爪を逸らしたカーターは、そのままビィたちの前へ滑り込む。剣を構え直し、低く告げた。
「下がって」
ビィは頷き、腕の中のミアを抱き起こした。
「ミア、こっちへ――」
けれど、ミアはビィの腕を振りほどこうとした。
「何するの!?」
細い腕が、必死に霧の向こうへ伸びる。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
背筋が冷えた。
あの魔獣の向こうにいる何かを、ミアはまだ見ている。
「離して! お兄ちゃんが、あの人たちに――!」
「ミア!」
駆け寄ってきたオットーが、その肩を掴んだ。
ミアは叔父の手さえ振り払おうとして、泣き叫ぶ。
「お兄ちゃんがいるの! やっと会えたのに!」
――鏡の魔獣の影響か。
ビィが霧の奥へ目を凝らす。
けれど、白い靄の向こうには、何の姿も見えない。
その奥で、雲を裂くものが低く唸った。
翼を大きく開き、広場へ濃い影を落とす。
振り下ろされた前肢へ、カーターが踏み込んだ。
剣が爪を弾き、巨体がわずかに身を揺らす。
その隙を、白い熱光が貫く。
翼の付け根を射抜かれ、雲を裂くものが耳を裂くような咆哮を上げた。
大きく開いた胴へ、衛兵の矢が突き立つ。
魔獣は爪を振り上げかけたまま、こちらを睨みつけた。
値踏みするようにぐるりと頸をめぐらすと、翼を強く打ち鳴らし、霧の奥へ身を翻す。
風圧が広場を薙ぎ、乱れた白い靄の向こうへ、巨体が消えてゆく。
「深追いはしないでください」
ヴァルカーは、霧の奥を見据えたまま言った。
「鏡の魔獣が幻で獲物を誘い込み、あれが仕留める――共生関係にあるのか。厄介なことだ」
カーターは剣を下ろさず、周囲を警戒したまま短く頷いた。
そのときだった。
「待って!」
ミアが、オットーの腕の中で身を捩った。
霧の奥へ、必死に手を伸ばす。
「お兄ちゃん、行かないで! 待ってって言ったのに!」
「ミア、行くな」
オットーが、今度は強くその肩を掴んだ。
「離して! お兄ちゃんが行っちゃう!」
「お前の兄さんは! ……二年前に、死んだだろう……!」
言葉は、掠れた息とともに吐き出された。
ビィは息を呑んだ。
二年前。凍てつく凶霧の日に――。
ミアの動きが止まる。
けれど、彼女はオットーを見上げただけだった。
ひどく不思議そうに、叔父の言葉を聞いている。
「何、言ってるの?」
小さな声だった。
「お兄ちゃん、そこにいるよ」
その目は、なお霧の奥を見ていた。
――まずい。
ビィの指先が、わずかに強張った。
「オットーさん、少しだけ離れて」
腰の小袋へ手を入れる。
取り出したのは、親指ほどの小さな硝子筒だった。
中には、淡く青白い粉が詰められている。
鏡の魔獣の幻惑に備えた、意識を引き戻すための気付け薬だ。
「ミア、ごめんね」
ビィは少女の前へしゃがみ込み、硝子筒を握り潰した。
ぱきり、と乾いた音がする。
青白い粉が、ミアの顔の前でふわりと広がった。
「……っ」
ミアが目を見開く。
霧の奥を見つめていた瞳が、何かを探すように揺れた。
「お兄ちゃん……?」
声が、かすれる。
白い靄の向こうには、誰もいない。
ミアの視線が、行き場をなくしたように彷徨った。
「お兄ちゃん……どこ?」
ミアの声が、ひどく小さく震えた。
なおも、霧の奥を探すように見つめている。
オットーが、ゆっくりとミアの前に膝をついた。
「……もう、いない。あの日、帰ってこなかった」
ミアが、首を振る。
「うそ……」
叔父を映した目が、今度は泣きそうに揺れた。
「嘘だよ。だって、さっき……そこに、いたよ……?」
オットーは何も言わなかった。
ただ、耐えるように唇を噛み、ミアを抱きしめた。
「ミア……」
「やだよ……」
細い指が、叔父の服をきつく掴む。
「やだ。お兄ちゃんに会いたい……お兄ちゃん……!」
ビィは、その場に立ち尽くしていた。
幼かった冬の日のことが、ふいに胸の奥を掠めた。
冷えた部屋。
何をしても戻らない父と母。
それでも、兄がそばにいてくれた。
――もし、兄さんまでいなくなったら。
息が詰まる。
気づけば、ビィは胸元をきつく握りしめていた。
ミアが顔を上げた。
「もうやだ……!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、霧の奥へ手を伸ばす。
「お兄ちゃんのところに行きたい! 行かせて!」
オットーの顔が、苦しげに歪んだ。
ビィは、気づけば一歩前へ出ていた。
「……だめだよ」
ミアの濡れた目が、ビィへ向けられる。
ビィの声も、少し震えていた。
「会いたいって思うのは、だめじゃない」
言いながら、自分にも言い聞かせる。
「会いたいままでも、いいよ。泣いたっていい」
けれど、と続けるまでに、一度だけ息を吸った。
「でも、ミアまでいなくなったら……今度はオットーさんが、ミアに会えなくなっちゃうよ……」
ミアは、答えなかった。
オットーの外套を、震える手で握りしめたまま、目を逸らす。
オットーが、その背をゆっくりと撫でる。
霧の奥に向けられたミアの目は、しばらく、何かを探すように小さく揺れていた。
「帰ろう、ミア……」
静かに落とされた叔父の声に、項垂れるように目を伏せると、小さく頷いた。
「……帰る」
声はまだ掠れていた。
けれど、もう霧の奥へ向かおうとはしなかった。
*
しばらくして、ミアはようやく泣きやんだ。
目尻はまだ赤く、俯いたままだった。
それでも、オットーの手だけはしっかりと握っている。
オットーは、その小さな手を握り返したまま、ビィたちへ深く頭を下げた。
「……本当に、ありがとう……!」
掠れた声だった。
「ミアを見つけてくれたことも。あの子を、戻してくれたことも」
ビィは、慌てて首を振った。
「僕は……」
あの門の前で、あと一言。
ミアを引き留めることができていれば、こんなことにはならなかった。
「……間に合って、よかったです」
ヴァルカーが、森の出口へ続く方角へ目を向けた。
「街へ戻るなら、今のうちです。衛兵殿、道は分かりますね」
「はい。来た道なら、魔獣もあらかた片づいています」
「これを」
ヴァルカーは外套の内側から、小さな金属片を三つ取り出した。
平たい円盤には、細い術式が刻まれている。
「魔除けです。肌身離さず持っていてください。森を出るまで、霧の干渉を弱めます」
衛兵がそれを受け取り、オットーとミアへ一つずつ渡した。
ミアは円盤を掌に載せたまま、しばらく見つめていた。
それから、何も言わずに首へ掛ける。
「……行こう、ミア」
オットーが声を掛ける。
ミアは一度だけ、霧の奥を振り返った。
けれど、もう足を向けようとはしなかった。
「うん」
小さく頷き、叔父の手を握り直す。
衛兵を先頭に、三人は森の外へ向かって歩き出した。
その背を見送りながら、ビィはそっとカーターへ目を向けた。
――よかった。兄さんは、ここにいる。
そう思った瞬間、胸の奥が冷えた。
――こんなこと思って、どの口がミアにあんな偉そうなこと言ったんだ……。
自分がミアと同じ立場だったとしたら……。
こめかみの奥が鈍く痛む。
――考えたくない。
ビィは目を伏せ、外套の裾を握りしめた。
やがて、オットーたちの背中が霧の向こうへ消えると、ヴァルカーが、森の奥へ向き直った。
「さて」
視線の先には、雲を裂くものが消えた濃い霧がある。
「魔獣討伐を急ぎましょう。あれを放置すれば、また同じことが起きる」
カーターが剣の柄へ手を添えた。
「行こう」
ビィも頷く。
白い霧の奥には、まだ何かがいる。
ミアを呼び寄せたもの。
この森を、獲物を待つ場所に変えたもの。
三人は再び、森の深部へ足を踏み入れた。




