6話
駐屯地の正面口へたどり着くと、入口のあたりが妙に騒がしかった。
衛兵のひとりに縋りつくようにして、恰幅のいい中年の男が声を荒らげている。その少し後ろには、手続きを終えたらしいカーターとヴァルカーの姿があった。
「頼む、探してくれ! 姪が帰ってこないんだ!」
男は、今にも衛兵の胸倉を掴みそうな勢いで訴えていた。
「夕方になる前には戻るって言ってたのに……。ここ数日、ずっと様子がおかしかったんだ。ぼんやり外を見てたり、急に出かける支度を始めたりして……」
その言葉に、ビィの足が止まった。
――まさか。
脳裏に、先ほど門のほうへ向かっていった少女の顔がよぎる。
「……あ、あの……それ、もしかして、亜麻色の髪を、二つに結んだ子じゃありませんか……?」
男が、弾かれたように振り返る。
日に灼けた首筋に、亜麻色の髪。あの子と同じ色だった。
「ああ。そうだ。ミアだ。見たのか?」
「さっき、森の入口へ……。迎えが来るから、そこで待つって」
男の顔から、血の気が引いた。
「森だと? 俺はそんな話、聞いてない……何で止めなかった!」
「オットーさん、落ち着いてください。捜索の手配を――」
「待ってなんかいられるか! ミアはまだ、あの森のどこかにいるんだぞ!」
オットーが一歩、ビィへ詰め寄る。
その腕が伸びるより早く、カーターが間へ入った。
視界が、肩と外套で塞がれる。
「落ち着いて」
静かな声だったが、オットーの足はぴたりと止まる。
「彼を責めても、姪御さんは戻りません。今は探す方法を考えましょう」
その言葉に、オットーは唇を噛み、目を伏せた。
「……悪い。悪かった。俺も、どうかしてる」
ビィは、見慣れた背中の影で項垂れた。
――庇われて、しまった。
ヴァルカーが、森のほうへ視線を向けたまま口を開く。
「近隣で起きている行方不明は、鏡の魔獣によるものだと見ています。幻を見せ、獲物を縄張りへ誘い込む」
ビィの背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
――どうする。どこへ行った。何か……。
握らせた、小さな魔除けが、脳裏をよぎった。
「……あっ、お守りなら……!」
ビィは勢いよく顔を上げた。
その声に、一同の視線が集まる。
「さっき、あの子に魔除けを渡したんです。僕の魔力が少し残っているはず……。残滓を辿れるかもしれません」
ヴァルカーはわずかに考え込み、小さく頷いた。
「……やる価値はある」
「俺も行くぞ!」
オットーが腰の剣に手を掛けた。
「剣なら使える。足手まといにはならん」
衛兵は一瞬だけ言葉に詰まり、ヴァルカーへ問いかけるように視線を向けた。
「私も同行します。ほかに人を集めますか?」
「人数を増やしすぎれば足が遅くなる。ひとりでいい。こちらは三人いる」
「承知しました」
*
馬を手配し、一行は森の方角へ急いだ。
日が西の端へ沈みかけた頃、前方に白い霧をまとった森が見えてきた。
二年前、凍てつく凶霧の震源となった森――哭き声の森だ。
森の縁に馬を繋ぎ、足を踏み入れた途端、空気が変わった。
ひやりと湿った冷気が、外套の隙間から肌へ入り込んでくる。
足元の土は妙に柔らかく、木々の間には夕暮れよりも濃い影が溜まっていた。
ビィは立ち止まり、掌を開く。
薄く光る魔力が、指先から霧へ溶けていった。
「……こっちです」
お守りに残した自分の魔力は、かすかな糸のように森の奥へ続いている。
ビィはその細い感触を逃さないよう、掌を掲げたまま進んだ。
森の中は鬱蒼としていた。張り出した枝が行く手を塞ぎ、足元には濡れた根や柔らかな腐葉土が広がっている。
気を抜けば靴を取られ、踏み外せば泥に足を取られそうだった。
前を行くカーターが枝を払い、衛兵とオットーが周囲を警戒する。
そのあいだを、ビィは霧に溶けかけた魔力の痕跡だけを頼りに進んだ。
ふいに、右手の茂みが大きく揺れた。
ビィが息を呑むより早く、カーターが前へ出る。
片腕でビィを庇うように押し下げ、もう片方の手を剣の柄へ掛けた。
低いうなり声が響く。
霧の奥から、灰色の獣――霧這いが飛び出した。
「下がって」
ヴァルカーの指先が、わずかに動く。
白い熱光が霧を一直線に貫いた。
霧這いの眉間に小さな穴が穿たれ、獣は跳びかかった勢いのまま地へ転がる。
ほとんど同時に、頭上の枝から霧鴉が数羽、羽音を立てて舞い降りた。
ヴァルカーは視線すら上げない。
指先から放たれた細い光が、一羽ずつ正確に急所を射抜いた。
黒い影が、ばたばたと湿った地面へ落ちてくる。
衛兵が、思わず息を呑んだ。
「……さすがは、宮廷魔導師様だ……」
「足を止めないでください」
ヴァルカーは振り返りもせず、先へ進む。
ビィは思わず、その背中を見送った。
――こんなに腕が立つ人だったんだ。
――兄さんのところへは、書類持ってくるだけなのに……。宮廷魔導師って、よく分かんないな。
*
お守りの残滓を辿り、木々のあいだを進む。
だが、森の奥へ入るにつれて霧は濃さを増し、掌に感じる魔力の糸も次第にほどけていった。
右へ引かれた次の瞬間には、左から同じほどの反応が返ってくる。
ビィは足を止め、眉を寄せた。
「……反転霧が強くて、お守りの反応がうまく拾えない」
ヴァルカーは返事の代わりに、周囲へ鋭い視線を巡らせた。
森は、不気味なほど静まり返っていた。
鳥の声も、虫の羽音も聞こえない。すべてが、より強い何かを恐れるように息を潜めていた。
「今日はここまでにする」
ヴァルカーは淡々と告げた。
オットーが勢いよく振り返る。
「何を言ってる! ミアは今も、この森のどこかにいるんだぞ!」
「だからこそです。夜の反転霧では、こちらまで道を見失う」
「でも――」
カーターが、オットーの肩へ手を置いた。
「ここで倒れれば、彼女を助ける者がいなくなります」
オットーは拳を握りしめたまま、俯いていた。
やがて握り締めた拳がほどける。
「……分かった」
掠れた声だった。
「頼む。あの子を……助けてやってくれ」
*
簡易の結界を張り、木の根元に身を寄せる。
火は焚かなかった。
代わりに、衛兵が携えていた保温石を布の下へ入れ、最低限のぬくもりだけを確保する。
霧の向こうで、何かが鳴いた。
獣の声とも、風の音ともつかない響きだった。
ビィは目を閉じる。
眠らなければと思うのに、ミアの顔が浮かぶ。
『お兄ちゃんと約束しているの』
あの声が、いつまでも耳に残って離れなかった。
*
ビィは、熱に浮かされ、薄暗い寝台の上でからだを丸めていた。
息が苦しい。目も開けられない。
「起きられるか、ビィ」
聞き慣れた声。少しだけ高い、兄の声。
額に、濡らした手拭いが触れる。
ぬるくなるたび、兄は黙って新しいものへ替えてくれた。
「おにいちゃん、寝ないの?」
「大丈夫だよ。ビィが眠るまで、ここにいる」
髪を撫でる手に、目を閉じる。
兄がいるなら大丈夫だと、そう思えた。
――ふと、微睡みの中で。
頬に、ひやりとした指先が触れた。
そっと頬を撫でてゆく。
それに安心して、ビィは眠りへ沈んでいった。
*
冷えた空気に頬を撫でられて、ビィは目を覚ました。
重い瞼を開けると、木々の隙間に満ちる霧が、わずかに白んでいる。
肩には、見覚えのある外套が掛けられていた。
兄のものだ。
周囲を見回すと、少し離れたところに、見張りに立つカーターの姿があった。
こちらに気づいて、いつものように微笑みを浮かべた。
「兄さん。外套、掛けてくれたんだね。ありがとう」
「…………」
「……兄さん?」
「……いや、寒くなかったか?」
「うん。あったかかったけど……」
「もう、出られるよな」
低い声に、ビィは振り返った。
オットーが、霧の奥を睨んでいる。
目の下には濃い影が落ち、昨夜からほとんど眠れていないことが分かった。
――ミアはまだ、あの霧の向こうにいる。
昨日は、お守りの残滓を辿ろうとして、反転霧に反応を散らされた。
どこを探っても、霧は違う場所から同じような答えを返してくる。
ふと、夜の夢が脳裏をよぎった。
額に触れた、濡れた手拭い。
冷たくて、熱を吸っていく感触。
――そうだ。
水は、触れた魔力の痕跡を残しやすい。
霧も、水だ。
なら、お守りそのものを探す必要はない。
お守りが霧に残した揺らぎを拾えば――。
「ヴァルカーさん! たぶん、まだ辿れます!」
ビィは地面へ駆け寄ると、小枝で術式を書き始めた。
「お守りを探すんじゃなくて、霧を探るんです。霧に残った魔力の揺らぎを辿れば……」
近づいてきたヴァルカーが図を見下ろし、眉をわずかに寄せた。
「……なるほど」
わずかな沈黙のあと、小さく頷いた。
「霧を媒介にして痕跡を読むのか。理屈は通っている」
ビィは期待を込めて見上げた。
「ただ、この規模では君の魔力が足りないな」
そう言ってヴァルカーが術式へ手をかざす。
描かれた術式が淡く輝き、霧がゆっくりと波打った。
白い景色の中へ、一本だけ色の違う筋が浮かび上がる。
森の奥へ、まっすぐ続いていた。
「……見えた!」




