5話
馬車に揺られて三日目。
目的地である哭き声の森が近づいてきた。
窓の外を見ると、木々の隙間を白い霧がゆっくりと這っていた。
その景色を見た途端、胸の奥がざわついた。無意識に肩へ力が入る。
――二年前の凍てつく凶霧。
――……大丈夫。あれから二年も経っている。今回は兄さんも一緒だ。
そう自分に言い聞かせても、不安は胸の底へ沈んでくれなかった。
不意に、こめかみがずきりと痛んだ。
「……っ」
「どうした? ビィ」
「あ、ちょっと頭痛が……。はは、寝不足かな」
昨夜は任務の準備で遅くまで起きていたし、朝からずっと気も張り詰めている。
小さく額を押さえ、窓の外から目を逸らした。
やがて馬車がゆっくりと速度を落とし、そのまま静かに停車した。
「……あれ? 街はまだですよね?」
窓の外を覗き込んだビィが首を傾げると、ヴァルカーは黙ったまま扉を開け、外へ降り立った。
つられてビィとカーターも馬車を降りる。
外気はひんやりと冷たく、うっすらと霧が立ち込めていた。針葉樹の深い匂いが鼻を突く。
そこは、石造りの建物の残骸が並ぶ荒涼とした場所だった。
崩れた防壁には深く抉られたような傷が刻まれ、焼け焦げた石柱が今も倒れたまま残されている。風が吹き抜けるたび、瓦礫の隙間で乾いた音が小さく響いた。
誰もいないはずなのに、今にも兵士が持ち場へ戻ってきそうな、不思議な静けさが辺りを包んでいた。
広場の中央には、ひっそりと、しかし立派な慰霊碑が建てられていた。
「二年前の凍てつく凶霧で放棄された防衛拠点です」
慰霊碑の前に歩み寄りながら、ヴァルカーがぽつりと言った。
「……ヴァルカーさんも、あの時、従軍されていたんですか?」
「ええ。もっとも、私は安全な後方支援の任に就いていただけですがね」
自嘲するような響きが混じった声でそう言うと、ヴァルカーは慰霊碑の前で深く目を閉じ、祈りを捧げ始めた。
ビィは隣のカーターと顔を見合わせ、二人もそれに倣って目を閉じた。
胸に手を当て、静かに祈る。
ここで命を懸けて街を守ってくれた人たちへ、感謝と祈りを捧げる。
霧の向こうから迫る魔獣の群れを前に、最後までこの国を守り抜こうとした人々。
――その時の様子が、痛いほどありありと目に浮かぶようだった。
怒号、悲鳴、血と泥の匂い、そして空間を焦がす魔術の閃光。
あまりに多くの記録を読んできたせいだろうか。……それとも、あの夜の冷たい空気を身体が覚えているからだろうか。
そっと目を開けると、いつの間にか祈りを終えていたヴァルカーが、ビィをじっと見つめていた。
紫青の瞳が、何かを探るように細められている。
「……どうかしましたか?」
「いえ……」
ヴァルカーは視線を外し、慰霊碑の石肌へ目をやった。
「何か、いやな思い出が、あるようだったので」
「っ……」
その瞬間、不意に頭の奥がずきりと疼く。
霧の向こうから迫る魔獣の爪。白い病室の天井。軋む身体。
そして――。
『……騎士は、辞めたよ』
兄の静かな声が脳裏をよぎる。ビィは、ほんの一瞬、息を詰めた。
誤魔化すように小さく笑い、カーターの隣へ一歩すり寄る。
「大丈夫です。少し昔のことを思い出しただけなので……。でも、そろそろ覚悟を決めないと、ですね」
ビィの言葉に、カーターが無言で優しく頭を撫でた。
ヴァルカーは何も答えず、しばらくビィを見つめていたが、やがて、静かに視線を逸らした。
「……行きましょうか」
冷たい風が吹き抜け、霧が三人の足元を撫でていった。
*
馬車が霧除けの街に到着したのは、太陽が西へ傾き始めた頃だった。
街を取り囲む防壁は高く、二年前の惨劇を教訓に増築されたのだろう、真新しい石材が目立つ。
それでも、壁の向こう側から這い寄るように流れてくる霧の気配は、完全には防ぎきれていないようだった。
「まずは駐屯地へ向かい、被害状況の詳細と、帰還した生存者の調書を確認します」
ヴァルカーが馬車を降りながら今後の予定を口にすると、カーターが頷きながら口を開く。
「軍の施設だからな、俺とヴァルカーの二人で行ってこよう。ビィは街で準備を頼めるか?」
「うん、大丈夫。ここは二年前、防衛任務で来てたし、土地勘はあるから」
カーターは「頼んだぞ」と微笑みを残し、ヴァルカーの後を追った。
ビィは二人の背中を見送り、小さく息を吐く。
――いつまでも引きずってちゃ駄目だ。
――気合を入れて準備しないと!
そう自分に言い聞かせるように頬を軽く叩き、市場へ向かって歩き出した。
*
市場へ足を踏み入れると、威勢のいい呼び声が四方から飛んできた。
「採れたて薬草だよー!」
「保存食ならこっちだ!」
「霧除け香、今ならまとめ買いがお得だよ!」
並ぶ露店には乾燥肉や干し果実、霧除け用の香、魔導触媒などが所狭しと積まれている。
活気ある光景に、ビィの頬も自然と緩んだ。
「よし、まずは保存食と……あとは予備の触媒も補充しておこうかな」
棚の端に、月光草の蒸留液が並んでいた。
――反転霧の中じゃ、使えないんだけどな。
手が止まる。
使えないと決めてしまうのは、少し早い気もした。条件が変われば、使いようが出てくるかもしれない。
「……ひと瓶だけ、もらえますか。厚めに包んでください」
手帳を片手に必要な品を買い集めていく。
最後の荷を受け取ったとき、店主が照れくさそうに笑った。
「いやぁ、二年前はこの辺もひどい有様だったからな。ようやくここまで戻ってきたよ」
ビィは思わず街並みを見回した。
削りたての木の匂いが、通りのあちこちに残っている。真新しい鎧戸が、風で軽く鳴った。
――そういえば、討伐隊の万魔の魔導公もこの街へ来ていたはずだ。
兄は、あの魔導師のことを、あまり詳しく教えてくれない。
せっかくだし、この街の人なら何か知っているかもしれない。
「あの時って、討伐隊も来てましたよね?」
「そうだなぁ」
店主は懐かしそうに目を細めた。
「グリモワールって、見たことあります?」
「あぁ、あの英雄様。残念だけど、顔はほとんど見たことねぇな」
「え?」
「なんでも、街の駐屯地か前線に詰めっきりでよ、街へ降りてくる暇なんて、ほとんど無かったって話だ」
「へぇ……そっかぁ」
――少しくらい話が聞けると思ったのにな。
少し肩を落としながら、ビィは礼を言って店を後にした。
「さて、次は――」
手帳を開いて記憶を手繰る。
確か、この先に薬材店があって、その隣が導具屋だったはずだ。
「こっち、だったよね?」
迷いなく角を曲がる。
だが、目の前にあったのは見覚えのない真新しい建物だった。
「あれ?」
もう一本先だっただろうか。
さらに歩くが、目的の店は見当たらない。
「おっかしいなぁ……」
もう一度別の通りへ出るが、今度は露店の並びまで違う。
「……あれぇ?」
――そんなばかな。これじゃぁ、まるで、ま、迷……。
思わず頭を振って、地図を取り出して見比べる。
間違ってはいない。
はずなのに、景色が噛み合わない。
首を傾げながら辺りを見回し、ようやく違和感の正体に気付いた。
通り沿いの建物には、新しい石材が何棟も混じっている。
区画ごと更地になったのか、不自然なほど広い空き地もあった。
少し離れた場所では、石工たちが足場を組み、崩れた建物の補修作業を続けている。
よく見ると、新しい石畳と古い石畳がまだらに繋ぎ合わされていた。
「……そっか」
あの日から、この街は少しずつ姿を変えてきたんだ。
「だから分からなくなっちゃったのか……」
一人で納得しかけ……
「……いや、それでも迷うほど変わる?」
ビィはきょろきょろと辺りを見回した。
右を見て、左を見て、もう一度地図を見る。
「うーん……」
完全に立ち止まってしまった、その時だった。
「お兄さん」
背後から声がした。
振り返ると、一人の少女が不思議そうにこちらを見ている。
二つに結んだ亜麻色の髪に、動きやすそうな服装。
まだあどけなさは残るものの、子どもというよりは、もう少女と呼ぶほうがしっくりくる年頃だ。
「さっきから、きょろきょろしてるけど……もしかして、迷子?」
迷子。
その言い方は、少し違うのではないか。地図は合っているのだ。合っているのに、道のほうが違う。
つまり、これは迷子ではなく――
「えぇっと、そのぉ……あのぉ…………はい」
観念してうなだれる。
「ちょっと道が変わっちゃってて……」
少女はきょとんとしたあと、くすりと笑った。
「やっぱり」
その一言が妙に恥ずかしい。
「案内しようか?」
「い、いいの?」
「うん。わたし、この辺なら分かるから」
そう言うと少女は軽い足取りで歩き始めた。
ビィも慌ててその後を追う。
地元の少女に道案内される、討伐隊のおまけ。
情けなさに、ビィはしおしおと肩を落としながら後をついていった。
*
少女に案内されながら、残っていた買い物も手早く済ませていく。
気付けば、見覚えのある通りを抜け、駐屯地へ続く大通りに出ていた。
その先に、夕焼け空へ伸びる尖塔が見える。
「あそこが駐屯地」
少女が指差す。
「ありがとう! 本当に助かったよ」
礼を言うと、少女は小さく笑って背を向けた。
だが向かった先は、街の中心ではなく、防壁の門。
「あれ?」
思わずビィは呼び止める。
「もう日が暮れるよ? そっちは街の外じゃないか」
少女は足を止めて振り返った。
「うん。森の入口で、お兄ちゃんと会う約束をしてるの」
その言葉に、ビィは思わず口をつぐむ。
――お兄ちゃん。
すぐには何も返せなかった。
夕暮れの風が、防壁の向こうから白い霧を運んでくる。
肌を撫でた冷たさに混じって、森から漏れ出した魔力がかすかに揺らいだ。
ビィは、揺らぎを追うように目を細めた。
「あの……今日は、やめた方が……」
思わず言いかける。
だが少女は、迷いなく微笑んだ。
「大丈夫。お兄ちゃんが迎えに来てくれるから」
その笑顔を見てしまうと、それ以上強くは言えない。
ビィは小さく息をつき、荷物を探る。
「……じゃあ、せめてこれ」
取り出したのは、小さな魔除けのお守りだった。
「気休めだけど、持っていって」
少女は両手で受け取ると、紐の長さを確かめてから、首へ掛けた。
「ありがとう!」
それから、ふと口を尖らせる。
「お兄ちゃん、いつも遅いの。待ち合わせ、守ったことない」
「……そっか」
「わたしのほうが、いっつも先に着くんだから」
お守りを大事そうに握りしめると、少女は夕暮れの門へ駆けていった。
「早く戻ってくるんだよ」
「うん!」
元気な返事だけが返ってくる。
小さな背中は、やがて霧の向こうへ溶けるように見えなくなった。
ビィはしばらくその方向を見つめていたが、小さく首を振る。
「……僕も行かなきゃ」
もう一度だけ霧の向こうを見やると、ビィは駐屯地へ向かって歩き出した。




