4話
ひどく生温かい雨が、戦場を叩いていた。
横殴りの豪雨の中、カーターは泥濘に膝をついた兵士たちの間に立ち、前方を見据えていた。
次の霧潮までは、まだ数年の猶予があるはずだった。
事前の報告では、小規模な群れを処理するだけの通常任務とのことだった。自身が副隊長を務めるこの一個小隊もあれば、半日で片付くはずだったのだ。
しかし、蓋を開けてみれば状況は最悪の一言に尽きた。見晴らしのいい丘陵地帯に雪崩れ込んできた魔獣の数は、優に数百を超えている。
地の利はこちらにあるはずなのに、前線はすでに限界を迎えつつあった。
次々と膝をつく部下たちの息遣いが、絶望の伝染となって陣形を崩していく。このままでは隊がもたない。
剣を握る手が痺れている。息を吸うたびに、血と泥の匂いが肺を焼いた。
――こんなところで、死ぬわけにはいかない。
脳裏に、弟の顔が浮かぶ。歯を食いしばり、再び剣を構えようとした、その時だった。
「後退!」
鋭い号令が響いた。
崩壊寸前だった兵たちが、号令に辛うじて反応する。体に染みついた命令への反射だけが、兵たちをよろめく足で後退させた。
「後退!」
とっさに復唱しながら、倒れた部下を引きずる。
直後、後方から撃ち込まれた砲弾が、前線で激しく炸裂した。
下がり損ねた兵士たちをも巻き込んで、大気中の水分と反応した微粒子が、凄まじい不協和音と激臭を撒き散らす。
空間を引き裂くような音響の波動と、脳を刺す臭気に、迫っていた魔獣たちが地に伏した。
カーターは息を呑み、後方を振り返った。
木組みの見張り台、そこに数人の魔導師たちが立っていた。後方詰めの部隊が、なぜこんな前線にまで出てきているのか。
魔術師団から編入された、後方火力を担う精鋭たち。
その中から、上質なローブ姿が進み出る。
泥濘と鮮血に塗れた戦場を、まるで盤上でも眺めるように睥睨した。
大地を染める血を映した辰砂の瞳から、目が離せなかった。
「絶縁術式を同期させろ」
感情の乗らない、平坦な声だった。
声を張っているわけではないのに、不思議と雨音を透かして耳に届く。
それを受けて、傍らの黒髪の魔導師が号令をかける。
「結界展開――!」
空気が、ふっと切り替わる。
目には見えない。だが、戦場そのものが薄い膜で隔てられたような違和感が走った。
上質なローブの袖から、一筋の白い手が静かに空へと掲げられる。
次の瞬間。
天が割れるような轟音とともに、降雨を媒介にした雷撃の奔流が地平の果てまで連鎖した。
視界を埋め尽くしていた魔獣の群れが、悲鳴を上げる暇さえなく、眩い閃光に呑まれて消滅していく。
残ったのは、焦げた匂いと、静寂だけだった。
兵士たちは誰一人として歓声を上げなかった。
地にへたり込む者、震える手で剣を取り落とす者――その顔に浮かぶのは安堵ではなく、ただ呆然とした恐怖だった。
見張り台の魔導師たちですら青ざめ、誰も言葉を発することができない。
後に「連鎖雷撃事案」と称されるこの戦いを境に、彼は畏怖をもってこう呼ばれることとなる。
――万魔の魔導公と。
*
王都の路地裏にある、喧騒に満ちた酒場。
分厚いジョッキを打ち合わせる音が響く中、向かいの席に座る男が、赤い顔をして何度もカーターの肩を叩いた。
「いや~、本当に助かったよ! あんたが取りなしてくれたおかげだ!」
他部署の魔導師である同僚は、大げさに安堵の息を吐き出した。
「あの申請、通らなきゃ仕事がおじゃんになるところだったんだ。さぁ、今日は俺の奢りだ、どんどん呑んでくれ!」
「はは、礼をしてもらうほどのことはしてないさ」
カーターは苦笑しながら、エールを喉に流し込んだ。
「そんなことないって。俺が自分で書類を出したときは、もう、けんもほろろでさ。ほんと、気難しいお方だよ、グリモワール様は」
「……まあ、少し言葉が足りないところはあるからな」
「あんたも大変だな。四六時中一緒の護衛なんて」
「いや、自分の希望だからな」
「えっ!? あの化けも……いや、大魔導師様をご指名で!?」
気まずそうに言い繕った同僚に、カーターは声を上げて笑った。
「それにしても、カーター殿は意外と話しやすいな」
「意外と?」
「ああ。もっとこう、ビシッとしてて、話しかけづらい高潔な騎士様……みたいな印象だったからさ」
誤魔化すように頭を掻く同僚に、カーターはジョッキを置いて肩をすくめた。
「はははっ! いやいや、買い被りすぎだ。でもまあ、仕事中は気を張って、そう振る舞っているってところはあるかもな。万が一にも失敗できない」
「まぁ、相手があのグリモワール様じゃなぁ。気を抜けないよな」
同僚の言葉に相槌を打ちながら、カーターは胸の内で小さく息をついた。
あの"連鎖雷撃事案"の後、カーターはグリモワールの専任護衛騎士への配属を願い出た。
幸い、これまでの功績が評価され、無事、希望は通った。
配属された当初、カーターは魔導院の空気に驚いた。
平時の職場である魔導院には、若き大魔導師への嫉妬と、畏敬と、そして困惑が渦巻いていた。
年功序列を無視した異例の抜擢。伝統を塗り替える破格の昇進。
同僚によれば、これでもあの雷撃の一件以来、多少ましになったらしい。以前は、「実績の乏しい若造が上に立つこと」へのやっかみが公然と流れていたという。
思っていたよりずっと、その立場は難しいようだった。
*
「……先日の申請の件?」
翌日の執務室。報告ついでに同僚との話を伝えると、書類から顔を上げたグリモワールが、不思議そうに首を傾げた。
「却下の理由は伝えたはずだが」
「ええ。ですが、もう少し言葉を尽くして、丁寧に伝えたほうがよかったかもしれませんね。あちらの部署にも面子というものがありますから」
グリモワールは瞳を瞬かせて、少し考え込んでから、ぽつりと言った。
「……気を付ける」
周囲の人々は、グリモワールを冷徹で、他者への情など持ち合わせていない人間だと思っているようだったが、そんなことはない。
彼は他人に無関心なのではない。ただ、人との距離の測り方と、言葉の選び方を知らないだけだ。
――周囲の厳しい視線の中、ずっと気を張っているのだ。
ある日もそうだった。
執務室を出て廊下を歩いていると、若い魔導師が駆け寄ってきた。
「閣下。次の討伐任務について、ご相談が——」
「お前が出る必要はない」
言葉は最後まで聞かれなかった。
淡々と、それだけ告げると、グリモワールは執務室へ戻ってしまう。
廊下には気まずい沈黙だけが残った。
「……悪く思わないでくれ」
カーターは苦笑して、取り残された魔導師に声を掛ける。
「閣下は、君の力量を疑ったわけじゃない。危険だから、ご自分で出ると言いたかったんだ」
魔導師はなおも釈然としない表情だったが、小さく頭を下げて去っていった。
執務室へ戻ると、書類へ視線を落としていたグリモワールが顔を上げる。
「どうした」
「少し、お話をしていました」
そう答えると、瞳がわずかに揺れた。
「……また、言葉が足りなかったか」
「少しだけ、でしょうか」
短い沈黙のあと、グリモワールはこちらの言葉を確かめるように、静かに視線を伏せる。
「……すまない」
その不器用さが、放っておけなかった。
功績を重ねるにつれ、くだらないやっかみは消えていった。
しかし、それと引き換えに、人々は彼を遠巻きにするようになった。
畏怖され、敬われ、崇められる。
けれど、一人の人間として接する者はいない。
かえって、カーターが間に立つ場面は、以前よりも増えていった。
そんな自分の振る舞いを面白く思わない者もいる。
いつだったか、グリモワールの部下――黒髪の秀才魔導師から、すれ違いざまに冷ややかな小言をぶつけられたこともあった。
"連鎖雷撃事案"を境に、彼に心酔する者まで現れ始めたようだった。
ふと、あの日の光景が脳裏をよぎる。
連鎖雷撃が戦場を薙ぎ払い、誰もが畏怖の眼差しを向ける中、ほんの一瞬だけ、その口元が安堵したように緩んだ気がした。
あの表情を見た者は、きっと自分しかいない。
だからこそ。
これからも、この人の傍らに立ち続けよう。
そう、カーターは静かに決意した。




