3話
「カーター・アイゼンハルト。国からの特務です。二年前の凍てつく凶霧の討ち漏らし……残党の後始末ですよ」
部屋の入口に立つ、鼻持ちならないエリート魔導師は、兄弟の視線を受けるなり、そう告げた。
――二年前の凍てつく凶霧……。
ビィの肩が小さく跳ねる。
兄、カーターは、もともと王宮勤めの騎士だった。
軍の中でも精鋭部隊に所属し、将来を嘱望されていたようだが、二年前、ビィのために職を辞した。
しかし、その後も時折特務の名目で、危険な仕事――並みの兵士や魔導師の手に負えない難敵の討伐が宛がわれていた。この伝言係の手によって。
――そもそもこの人、ほんとに宮廷魔導師なのかな……。国中で選び抜かれた魔導師が、伝言係って、おかしいよね……。
うろんな眼差しに気づいたのか、ヴァルカーがビィへ視線を向けた。
「なにか?」
「ひぇっ。な、何でもありません……」
冷たい視線に肩をすくめ、思わず兄の後ろに隠れる。
ヴァルカーは不愉快気に鼻を鳴らすと、手元の書類へ視線を落として、詳細を淡々と告げ始めた。
「対象は鏡の魔獣。二年前の惨劇以降、息を潜めていたが、ふた月ほど前から哭き声の森近郊で、対象のものと思われる被害が確認され始めた」
鏡の魔獣。その名に、ビィの背筋が粟立つ。
鏡面で、人の心を映す幻影を見せると言われる魔獣だ。
その幻影で、精神を蝕み自滅させる。物理的な脅威は低いが、あの夜の混乱に拍車をかけ、深霧を壊滅させた一因となったとも言われている。
「近隣では、幻惑被害や行方不明者が多数発生。国から討伐隊が派遣されたが、二度全滅。三度目の派遣では一人帰還したものの、ひどく錯乱しており、正確な情報は得られなかった」
聞かされた被害の大きさに手が震え、ビィは思わず兄のシャツの裾を握った。
しかし、カーターは、怖気る様子もなく、ヴァルカーから書類を受け取る。
「に、兄さ……」
「今回は、私も同行します」
思わぬ声に、ビィはバッと顔を上げた。
「……えっ?」
――き、聞き間違い?
「ヴァルカーさん、ついてくるんですか? 今回の任務……。伝言係なんてやってるのに、大丈夫です……ひえっ」
細められた紫青の眼が、ビィを突き刺す。
秀麗な眉が、ぴくりと動き、引き攣った顔が、何かを言いかけた形のまま固まる。
そして深くため息をつくと、低く削れた声で、吐き出した。
「……失礼な方ですね、相変わらず」
「す、すみません……。でも、本当に……」
「ビィ」
静かな声が、差し込まれた。
「ヴァルカーなら大丈夫だ。来てくれるなら、心強い」
「兄さんが、そういうなら……」
ビィは、カーターの背に隠れたまま、ヴァルカーをちらりと見やった。
ヴァルカーは、場を取り持ったはずのカーターを、なぜかじろりとねめつけていた。
「これ以上、被害を広げるわけにはいきません。明朝、馬車で霧除けの街へ向かいます」
そう言い残すと、ヴァルカーは踵を返した。
廊下から、冷えた空気が流れ込んでくる。
兄さんを危ない目に遭わせたくない。そう思うたびに、胸の底でじくりと灯るものがある。
――今度こそ、役に立たなければ。
*
ヴァルカーが去ると、部屋に静けさが戻った。
カーターが椅子を引いて座る。ビィも向かいに腰を下ろした。霧が窓を白く塗り潰している。
「今回の任務だが」
抑揚を抑えた、静かな声。
「対象は、二年前の鏡の魔獣……”媒介”にも期待できそうだ」
ビィは、ごくりと息を呑み、小さく頷いた。
禁忌の術の媒介となるという高魔力結晶——それを求めて、二人はずっと各地を巡っている。
その結晶は、強力な魔力を帯びた魔獣の体内に、稀に生成されるという。
だから兄は、危険を冒して国の任務に従っている。
高魔力結晶を求めているのは、王都の奥深くで禁忌の研究に没頭しているという、大魔導師。
万魔の魔導公。
二年前の凍てつく凶霧を鎮めた英雄。
そして、今は王都で隠遁し、屍を操る死霊術に、死者を冥界から呼び戻すという反魂術、などという、禁忌の術を研究しているという噂が、まことしやかに囁かれていた。
カーターは、かつて王宮で、万魔の魔導公の専任護衛騎士を務めていた。
そして、辞任の条件として、高魔力結晶の入手を言いつけられたのだという。
相手は国の英雄、大魔導師。従う他道はなかった。
それもこれも、すべてビィのせいだった。
二年前、あの惨劇の日、ビィは他の魔導師協会員と同じく、街の防衛任務に就いていた。
例年どおりであれば、魔獣たちは前線の魔導師団に阻まれ、街に到達することはないはずだった。
しかし、前線は瓦解。魔獣の群れが街を襲った。そのうちの一体の爪がビィを切り裂き……気がつくと、病院のベッドの上だった。
目を覚ました瞬間の、鼻を突く薬の匂い。身体を内側から焼くような高熱。瞼を開けるのが、糊で塗り固められたように重かった。
視界が滲む中に、兄の顔が見えた。
ビィの額に触れた手が、ひんやりとして、心地よかった。熱に浮かされた身体に、その冷たさだけが、澄んでいた。
後から知った。
自分が生死の境を彷徨っていた間に、カーターは宮廷騎士という栄職を、辞していたのだと。
ビィをすぐそばで守るために。――相談も、報告も、一切なしに。
――兄さんの未来を、僕が奪った。
「……兄さん」
ビィは机の木目を見つめながら、言い募った。
「結晶が見つかれば、グリモワール様との交換条件が果たせる。そうしたら兄さんは、あの人に縛られなくて済む」
カーターは、静かにビィを見つめていた。
だんだんと、早口になっているのが、自分でもわかった。
「そうしたら……そうしたらまた昔みたいに――!」
その言葉の裏側を、自分で聞いてしまった。
――僕だけの兄さんに、戻ってほしい。
兄を解放したいという気持ちと、取り戻したいという欲が、区別もつかずに絡まっている。
――最低だ。
――兄さんは栄誉の道を捨てて、今もそばにいてくれている。なのに僕は、自分のことばっかり……。
ビィは俯いた。
「……ごめん。変なこと言った」
「変なこと?」
兄の声に、気にした様子はなかった。
いつもと同じ、穏やかな微笑み。
しっかりしなければ。
エゴを、贖罪に変えなければ。
兄の未来を奪ったのなら、取り戻す手伝いをする。縛り付けているものを、解き放つ。
そのために強くなる。いつか本当に、役に立てる「相棒」になる。
「次の任務、絶対に成果を出す」
ビィは顔を上げた。
「約束する」
カーターは笑みを深くして、頷いた。
霧が、窓の外で静かに流れていた。
*
翌朝、ビィとカーターは宿を辞して、ヴァルカーとの待ち合わせ場所へ向かった。
朝の白い霧の中、街の中心部を走る大通りを進む。
霧の中にヴァルカーの姿が浮き上がり、声を掛けようとしたところで、ともに現れた影に、ビィは間抜けたように口を開けた。
「よっ、四頭仕立ての、高級馬車……」
細かな彫刻が施された黒塗りの車体。前方に二頭、後方に予備の二頭、立派な毛並みの馬が繋がれている。
「なにをぼんやりしているんです。さっさと出発しますよ」
ヴァルカーは呆れたように声を掛けると、そのまま馬車に乗り込もうとする。
「で、でもっ、こ、これっ、馬車代っ……!」
「馬車代? ここから三日ほどですから、金貨二、三枚ほどですかね」
「き、きんっ……!」
「何をそんな気にして……ああ。あなたは気にしなくて構いませんよ。私持ちです」
「ふぇっ……」
理解が追い付かないビィの背を、カーターがそっと押した。
「ビィ、大丈夫。気を付けて乗り込め」
ビィの頭が再び動き出したのは、馬車に揺られて、半刻ほどもたった頃だった。
「……ヴァルカーさん、ほんとに宮廷にお勤めだったんですねぇ……」
「なんだと?」
「す、すみませっ……」
*
馬車に揺られて数刻は経っただろうか。
窓の外には、この国では珍しい、貴重な薄日が差していた。
にもかかわらず、四頭立ての豪華な馬車内だけは、極寒の地と化していた。
「……わ、わぁ、外はいい天気ですねぇ」
「そうですね」
「…………さすが高級馬車、全然揺れません!」
「そうですか」
「……………………」
「無理に話を振る必要はありません」
――き、気まずい……。
馬車内は三人だけ。
手持無沙汰もいいところで、もう二回も荷物の点検をしてしまった。
「ヴァルカー、少しくらい話し相手になってやってくれないか」
カーターがとりなすように声を掛ける。
が、ヴァルカーは露骨に眉をひそめると、何も答えず、慣れた手つきで内ポケットの小袋からドライフルーツをつまみ、口へ放り込んだ。
――か、感じわるぅ……!
――……敵……敵だ……ヴァルカーさんは敵!
ビィの中のヴァルカー評は、ついに地底をぶち抜いた。
むくれたまま、行き場のない手で荷物を開き、三度目になる点検を始める。
薬草を一本一本数え直し、包みを整え、調合道具をしまい直す。
小さくため息をつき、薬草の束を手に取った、その時だった。
じっとこちらを見つめる視線に気づき、ビィは顔を上げる。
「……どうかしましたか?」
「いや。……月光草の蒸留液は用意していないのですか?」
「月光草?」
「今回の対象は鏡の魔獣。奴の幻影を暴くには、月光の魔力特性が必要です」
まるで「当然持ってきているはずだ」と確認するような口ぶりだった。
「えっと、今回の現場……哭き声の森、今は『反転霧』の状態なので……月光系の触媒は魔力干渉を起こして、使った瞬間に術式が爆発すると思いますよ……?」
話が噛み合わず、ビィは思わず首を傾げた。
「……反転霧、ですか」
紫青の目が、わずかに細められる。
「霧の粒子が、通常と逆の魔力特性を帯びる、という。……あの与太話を、本気で前提にしていると?」
「与太話って……月光草の蒸留液を使うと、魔力経路が逆流して……」
ビィは、頭の中で文献の記述を辿りながら、思い当たる文献を一つずつ挙げていく。
「《氷森の弔い歌》にも載ってるんです。『霧の底で月を歌えば、銀の糸が逆流して命を食らう』、って」
「あんなものは酒場の酔っ払いが歌う、出鱈目な叙事詩でしょう。傍流の道楽研究所が騒いでいるらしいが、魔導院では実証されていない」
「や、でも、アーベント遺物研究所とクライス気象導力研究所の共同研究では、あの詩の『銀の糸』は反転した魔力経路の隠語だと実証されていて……」
ヴァルカーは目を瞬かせた。
一瞬、ばつの悪そうな沈黙が落ちる。
「ほら、実際に、今回の現場の報告書の気象記録の欄に――付記のところです――霧の組成値が通常偏差の一・七倍という数字があったでしょう? あの数値だと、反転霧の発生条件を満たしていると思うんですが……」
こんな基本知識で、どうして話が噛み合わないのだろう。
「……え? ヴァルカーさん、宮廷魔導師……ですよね? 大丈夫、ですか……?」
ヴァルカーは目を見開いたまま固まった。
そして、見る見るうちに引き攣っていく。
ビィは、はっとした。
「だ、だからヴァルカーさん、伝言係なんてやらされ……」
「おい……!」
地を這うような低い声。
「ひぇっ! ご、ごめんなさ……っ!」
ビィは思わずカーターの腕にすがりついた。
――やっぱり、この人とは仲良くなれそうにない。
ビィは心の中で深くため息をつきながら、馬車の外へ視線を逃がした。




