2話
――頑張ってるからって、結果が伴うとは限らないんだよなぁ……。
編み上げた魔術が自壊し、込めた魔力が光の粒子となって、虚しく霧散する。
――まただ、また失敗した。
一瞬で魔力が枯れ、膝を付く。
ぐちゃりと鈍い音を立てて跳ねた泥が、栗色のくせ毛と頬まで飛び散る。
底の抜けた桶から漏れ出るような虚脱感。冷えた泥を拭いながら眩暈に耐える。馴染んだ感覚だった。
ギャアッ、ギャアッ
ベリー色の瞳を向けると、無駄に散った魔力を狙って、魔力を帯びた大鴉――霧鴉どもが群がって来るのが見える。
「なにやってんだ、役立たず!」
霧の向こうから放たれた魔術が、霧鴉を撃ち落とした。
任務で同行している、魔導師協会の同僚たちだ。
「す、すみ、すみませんっ」
急いで体勢を立て直そうとする。
樹影の向こうには、まだ討伐対象――霧狼が潜んでいるのだ。
狼の唸りが、低く反響する。
ビィは泥に手をつき立ち上がろうとするが、膝が笑う。
焦って顔を上げた、その時。
唸りが止み、影が、跳んだ。
――あっ、死ぬかも。
ふっと思った瞬間、霧とともに霧狼が両断された。
剣閃の軌跡だけが残り、獣の残骸が地に伏す。
「兄さん!」
裂けた霧の向こうから、均整の取れたしなやかな影が歩み寄る。
太陽のように輝く金の髪に、静謐な清流の瞳。兄――カーターだ。
「大丈夫か? ビィ」
周囲に視線を走らせながら、ビィのもとへ歩み寄る。
ひとまずの脅威が去ったことを確認すると、ビィに手を貸し、頬の汚れを拭ってくれた。
安心して息をつくと、深い針葉樹の香りが鼻腔を抜ける。静謐な、兄の匂い。
落ち着いた声と、額に触れる涼やかな手に、早鐘を打つような鼓動が静かに引いていく。
「ありがと……。洞窟の長は?」
「討伐した。一班もこちらに合流できる。もう大丈夫だぞ。あとは俺に任せろ」
「……うん」
今回の任務は、街近郊の森に居ついた霧狼の群れの討伐だ。
四人の魔導師に、三人の護衛剣士。難度も高くない。
――はずなのに。一人前の魔導師になったっていうのに、いまだに兄さんに助けられてばっかり……。
ほっとする気持ちと、情けなさの入り混じった目で、残党狩りに向かう兄の背中を見送った。
「おい、なにぼぅっとしてる! まだ終わってないぞ!」
赤い髪の同僚の声にはっとする。
「あっ、す、すみません、ペーターさん。今行きます!」
――迷惑かけてばかりいられない。せめて、後方支援で役に立たないと……。
ビィは、慌ててあたりを見まわし、荷物を漁る。
――ええと……思ったとおり、湿度がこれだけ高いなら、音も匂いもよく伝わる。敵の感覚器を飽和させるなら……。
「おいっ!」
――ううん、たしかあれを入れたはず……あった! 乾燥処理した鳴動草の種子! これなら、何が飛び出しても一瞬は止められる。
「おい、聞いてんのか!? これじゃ、残りの奴らにいつ嗅ぎつけられてもおかしくな……」
「あっ、後ろ!」
ビィが顔を上げた瞬間、赤い髪の頭上から迫る霧鴉が目に入り、とっさに鳴動草の種子を投げつけた。
――ビィィィィン――――!
種子が霧の水分と反応し、刺激臭を放つ。
それと同時に、あたりに響く不協和音の波動に、霧鴉がギェッと鳴いて、ぼとりと落ちる。
「くっそ、こいつ……!」
一瞬虚を突かれた様子だったペーターが、八つ当たりのように雷撃を放ち、大鴉にとどめを刺した。
「いやぁ~危なかったですねぇ。鳴動草が間に合ってよかったです……」
「……お前がもたもたしてるからだろうが! お前が人の話聞いてりゃ鴉にだって自分で気づけて……!」
「ひぇっ!?」
そういえば、さっきから何か聞こえていた気がする。またやってしまった。
何かに集中しはじめると、周りの声も気配も、いつの間にか抜け落ちてしまう。ビィには、よくあることだった。
「どうした?ビィ」
「あ、に、兄さん……」
残党を狩りに行ったカーターと、一班の協会員たちだ。どうやら、無事に任務は完了したらしい。
皆、多少の傷はあるものの、大きな怪我はなさそうだ。兄は綻びのひとつもない。
気まずい空気が途切れたことも相まって、ホッと息をついた。
「な、なんだか、また怒らせちゃったみたいで……」
兄とともに戻ってきた同僚たちが、気まずそうに視線を交わした。
ペーターが重ねて言う。
「まったくだぜ! ほんと、お前の取り柄は、有能な兄貴が付いてくることくらいだな!」
うなだれて受け止める。
――そのとおりだ、初歩的な魔術もろくに発動できない。僕の取り柄は兄が付いてくることくら……。…………ん?『くらい』……?
「あ、あの、今の言葉訂正してください」
「……あん?」
「『くらい』じゃないです! 完全無欠の兄が付いてくることは、『最上級の』取り柄です!!」
「……は?」
ビィは、バッと顔を上げると、爛々と輝くベリーの瞳で赤髪の同僚を見据え、人が変わったように捲し立てた。
「そもそも『くらい』という副助詞は程度の低さを暗示したり価値を過小評価する際に用いられるべきものであって、完全無欠の剣士たる兄の存在に冠するには言語学的な冒涜と言わざるを得ません!」
「ど、どうした?」
「お、おちつけ、わかったから」
怒涛の口上に困惑の空気が満ちるが、それはとどまることを知らない。
「いいえわかってません! いいですか? たとえ兄がこの霧の森でただ呼吸をしているだけでもそれは森の空気成分を最適化し生態系の循環を円滑にする慈悲であって、その付加価値を『くらい』という三文字で括るなんて……」
困惑の空気は、やがて呆れと諦めの眼に変わっていった。
「な、なんだこいつ」
「も、もういい、行こう」
「あっ、ちょっと! まだ説明終わってないです……!」
*
野営を畳み、森から街へと帰還する道中。ビィは、カーターとともに、同僚たちの輪から離れて歩いていた。
その肩は落ち、足取りは重い。
「ごめん、兄さん、また迷惑かけた……。任務でも活躍できなかったし、変な空気にしちゃったし……」
情けなさに目頭が熱くなる。
――こんなことじゃ、いつまで経っても兄さんを解放してあげられない……。
居たたまれずに、とうとう足が止まる。
少し遅れて、カーターも歩みを止めた。
俯くビィには、その表情は見えない。
ビィに差す夕日が、ゆっくりと遮られた。
「気にするな。よく頑張ったよ」
兄が優しく頭を撫でる。
けれど、その言葉にすがるほど、胸の奥が苦しくなった。
「……ごめん。もう大丈夫」
顔を上げる。
足取りは重いまま、それでもビィは歩き出した。
*
街へと下る丘陵の道で、ビィはふと顔を上げた。
霧の向こう、地平線の彼方に、淡く発光する壁が浮かんでいる。
首都を守る魔導障壁――霧の壁だ。
魔力を帯びた霧と、そこに潜む魔獣を押しとどめ、国家の中枢を外側の危険から隔てている。
この国――魔導国家ミスティヴァルドでは、数年に一度、霧の濃度が極限まで高まる霧潮が訪れる。
そのたび、魔獣は人の領域へ雪崩れ込んだ。
あの壁の内側では、今も昔と変わらず平穏が守られているのだろう。外側で暮らすビィたちをよそに。
十三年前の霧潮で、両親は防衛隊の魔導師として街の外へ出たきり、帰らなかった。
幼かったビィに残ったのは、底冷えする夜の空気と、ぎゅっと握ってくれた兄の手のぬくもりだけだ。
そこから先にある痛みに触れてしまう前に、ビィは前を行く兄の背中へ歩幅を速めた。
*
門番に魔導師協会の徽章を示し、門扉をくぐる。
石畳の継ぎ目には、新しい石が混じっていた。
色の違う石。魔術の焦げ跡。大きな獣が、爪で抉ったような傷。
二年前の惨劇――凍てつく凶霧の名残だ。
前例のない規模の霧潮は、哭き声の森周辺一帯を呑み込み、国が誇る精鋭深霧さえ壊滅させた。
その首魁を単独で討ち取ったのが、かの大魔導師――万魔の魔導公である。
中心地から離れたこの街にまで、傷は残っている。
今の国の平和が、万魔の魔導公の功績によるものだと、国の誰もが知っていた。
ビィもまた、あの惨劇と無関係ではない。
記憶があの日へ引き戻されかけた、そのとき――。
「ねえ、さっきの剣士様、見た?」
「見た見た。素敵ね。あんな剣士様なら、毎日だって依頼を出したいわ」
水場近く、女たちの談笑が聴こえた。
視線の先には、カーターがいる。本人は気づいているのかいないのか、話しかけてきた商人の老人に、短く言葉を返している。
兄はいつもああだ。ビィは少し誇らしくて、少し可笑しかった。
*
魔導師協会の支部は、広場から二本ほど路地を入った場所にあった。
低い石段の脇に掲示板が立ち、討伐や採集の依頼票が、風で端をめくらせている。夕方のこの時間は、報告に戻ってきた者で人だかりができていた。
「じゃあ、報告済ませてくるね。兄さん、ここで待ってて」
「ああ、行ってこい」
カーターは頷いて、建物の外壁に背を預けた。
それを横目に、ビィは同僚たちの後について、重い扉を押し開けた。
中は、天井の高い土間だった。
突き当たりに受付台が三つ並び、そのどれにも列ができている。羽根ペンの音や誰かの舌打ちが、石壁に返されてよく響いた。
報告は、あっさり終わった。
――あっさり終わった、というのは語弊がある。正確には、ビィの報告だけが驚くほど短かった。
「霧狼討伐数、ゼロ。後方支援に従事……と。今回の貢献度評価はDです。報酬は基本給のみ」
受付の女性が、感情のない声で読み上げる。
「……え? Dって、一応僕、後方支援で……あの、鳴動草の種子で霧鴉を――」
「支援効果の単独証明が取れないため、評価対象外です。次の方」
「ちょ、ちょちょ、待って、待ってください、もうちょっとちゃんと評価を――」
「次のかたぁ」
評価表を押し付けられて、細腕で押しのけられる。
その様子を見ていたらしい同僚が、わざとらしい咳払いをした。呆れたような空気と笑い声が広がる。
ビィは、俯いて、見慣れた評価と数字が並ぶ評価表を、くしゃりと握りしめた。
支部の扉を出ると、カーターが出迎えた。
外壁に背を預けたまま、待ってくれていたようだ。
「……お待たせ」
「どうだった」
「D評価。基本給のみ」
カーターは何も言わなかった。ただ、歩き出す前に、優しく肩を叩く。
子どもみたいだ、と情けなくなると同時に、やっぱり、ちょっとありがたかった。
さざ波みたいに広がっていた笑い声が、すうっと遠くなった気がした。
そのまま並んで、宿へ向かった。
*
宿に戻ると、ビィは端切れを綴った帳面を引っ張り出して、机に向かった。
評価表には、見慣れた数字。加算報酬は今日もなかった。
数字を書いては消し、書いては消し……。
――よし。昼食を黒パンに落とせば、兄さんの剣の油代が出るぞ。朝の薬草茶を隔日にすれば、月末の宿代の不足分も埋まる。問題は、協会への登録更新料が来月に重なることで……。
真剣な顔で帳面を睨んでいると、脇から伸びた手が、机に何かを置いた。
カチャリ。
それは鈍く輝く、銀色の……。
「……兄さん」
顔を上げると、何でもない様子で兄が宣う。
「任務を手伝うついでに、冒険者協会のほうの依頼を一つ片付けた」
「い、いつの間に……」
「野営をしただろう。宿営の守りは問題なさそうだったからな」
「……兄さん、就寝時間って、就寝するから就寝時間っていうんだよ」
「そうだな。ビィは賢いな」
「…………」
だめだ。この兄は、たまにこうだ。褒めれば済むと思っている節がある。
ビィはため息をついて追及を諦めた。
机に置かれた数枚の銀貨と、帳面の数字を見比べる。
「……僕の、血の滲むような三日間の計算が、一瞬で吹き飛んだ気がするんだけど」
「そうか、がんばったな」
「『がんばったな』じゃなくてさ……」
カーターは特に気にした様子もなく、剣の手入れを始める。
ビィは、帳面をそっと閉じた。
――まあ、いいか。また計算し直せば……。
――でも、魔導師協会に正式に籍を置いているのは、僕の方なのになぁ。
兄は、あくまで自由契約の剣士だ。
それなのに、自由契約の兄が片手間にこなした「ついで」は、ビィが正規の給金をもとに三日かけて組み直した家計を、あっさり塗り替えてしまう。
――せめて、もう少し役に立ちたい。
夕刻、依頼の記録書を書き終えたビィは、机に突っ伏した。
目を閉じれば、術式の自壊、泥に膝をつく感触、同僚の舌打ちが、ぽつぽつと浮かんでくる。
溜め息をつきかけたとき、兄の手が頭に優しく置かれた。
のぼせた頭が、すとんと落ち着く。今日の情けなさも、明日の不安も、少し遠くなった。
「……兄さんは」
ぼんやりと、口から出た。
「いつも、ちょうどいいところで来てくれるね」
カーターは何も言わなかった。
ただ、手の重さが少し増した気がした。
いつもと同じ微笑み。それだけで、十分だった。
――諦めない。いつかなる。兄さんにふさわしい相棒に。
穏やかな沈黙が、部屋に満ちる。
その沈黙を、冷淡な声が断ち切った。
「相変わらず、仲のよろしいことですね」
扉の前に、男が立っていた。
肩まで届く黒髪を後ろで一つに束ねた、隙のない佇まい。深い紫青の目が、部屋の中をひとなめする。
宮廷魔導師――ヴァルカー・フォン・シュトラウス。
ビィの背筋に、緊張が走る。
また……また来てしまった。いつもろくでもない仕事を持ち込んでくる、不吉な伝書鴉が。




