第82話 真の価値
テーブルに残されたのは、片手で持てる一本のマイク……アノマリー《静かに届くマイク》。
けれど、今のユージくんには簡単に持ち上げられないものらしい。
「今さら『応援してる』なんて迷惑じゃないかな」
「私はそういう方がずるいと思います」
乃々さんは迷わず答える。
カフェテラスに少しだけ静寂が訪れた。
「乃々さん、今日は強いね」
「今日は、ではなく、いつもです」
「今日は強め」
ニーナが表情を緩めて、呟く。
「ニーナちゃん!?」
ニーナは涼しい顔のままで……張りつめていたユージくんの口元に笑いが浮かぶ。
「このマイクを見た時、最初に二人のことを……特にユージくんを思い出しましたから」
声を届ける場所までは用意する。
それでも、届けるかどうかは本人に任せるらしい。
あとはユージくんが選ぶだけ。
◇
ライブ当日の夕方。
杉本七海さんのライブ会場。
「……熱気が凄いわ。祭りみたいね」
「歌姫のライブ」
開演前には客席は人で埋まり、あちこちで色とりどりのライトが揺れている。
「たくさんのアイドルが出る中の……一グループのメンバーなんだよね七海さん」
「そうです。しかし、人が……緊張しないんですかね」
「俺たちの配信にもこれぐらいの人たちが来てくれてるよね」
「はっ! そうでした……」
会場内の音楽は、話し声まで押し流しそうな大きさ。
大勢へ聞かせるための音に囲まれるほど、一人にしか届かないマイクが不思議なものに見えてくる。
「変だよな。七海のライブには来られるのに、本人には連絡できない」
「ライブは今までも?」
「何度か来てる。新しい曲が出たら聴くし、ライブにも来る。でも、本人に一言送ろうとすると無理なんだ」
「それなら、資格は十分ですよ!」
やがて照明が落ち、歓声が一気にはじける。
強い光がステージを走り、その中央へ一人の女の子が駆け出してきた。
「七海ちゃーん!」
登場しただけで、会場で七海さんの名前がそこかしこで聞こえる。
隣から聞こえる拍手も、そこに重なっている。
「みんなー! 今日は来てくれてありがとう! 最後まで楽しんでいってねー!」
「七海ー!」
「まだまだ声出せるー!?」
「イェーイ!」
「もっと聞かせてー!」
様々な輝きのペンライト。
七海さんのカラーである青が一番多いかもしれない。
「ステージの真ん中だね、七海さん」
「そうなんです。あそこにいるのが俺と乃々の幼馴染なんて……本当今でも信じられません」
「すごいね。会場中から名前を呼ばれてる」
拍手を送りながら、ステージを見つめているユージくん。
『青空が雲間を抜けて……』
曲が始まった。
手拍子を入れる場所にも迷いがない。
何度も来ているという言葉は、それだけで十分伝わってくる。
『海と交わるグラデーション』
曲が終わるたびに歓声が起こり、次の音楽が始まればまたライトが揺れる。
ライブなんて久しぶり……いや、何十年ぶりなんだろう……。
ホログラムが流れたり、歌の情景に合わせてステージが変化するなんて……。
すごいな。
そして。
何曲かを歌い終えた七海さんが、額の汗を拭って笑った。
「次で最後の曲です!」
「ええー!」
「私もまだ終わりたくない! だから最後まで、一緒に楽しんでいこう!」
七海さんが客席へマイクを向ける。
「もう一回! みんなの声、聞かせてー!」
「七海ー!」
名前を呼ぶ声が重なり、どれが誰のものか分からなくなる。
その最中。
「乃々、マイクを貸してくれないか」
「!! ……はい!」
手渡される《静かに届くマイク》。
深く息を吸う音が聞こえた。
乃々さんは何も言わず、ユージくんを見守っている。
ニーナもリィンもドキドキしながら、ステージとマイクへ交互に目を向けた。
「七海」
俺には聞こえたけれど、前の席の客は振り返らない。
「今でも応援してるよ」
会場の歓声に沈んでしまうほどの小声。
それでも、ステージの上で七海さんが目を見開いた。
「え?」
周りの観客は変わらない。
けれど、七海さんは何かを探すように客席を見回し、やがて笑顔になる。
「ありがとう」
会場がさらに沸く。
「みんなの声、ちゃんと届いてるよ!」
大勢へ向けた言葉の中に、さっきとは違う「ありがとう」が混ざっている……そんな気がした。
「七海さん、聞こえたんだね」
「はい。きっと……」
ユージくんはマイクを乃々さんに渡し、空いた両手で拍手を送る。
その顔から、もう迷いは見えない。
乃々さんの言った通り、最初の一言さえ届けば、それで十分なのかもしれない。
最後の曲が終わると、七海さんはステージの端まで歩き、客席へ何度も手を振る。
「今日は本当にありがとう! また会おうねー!」
「七海ー!」
客席に照明が戻った後、ユージくんの端末が震えた。
「え?」
「どうしたんですか?」
「七海からだ」
ユージくんが俺たちにも見えるように画面を傾ける。
『さっきの声、ユージだよね?』
続けて、もう一つ。
『今、会場にいる?』
画面を向けたまま、ユージくんの指が動く。
『いる。聞こえた?』
送信すると、すぐに返事が届いた。
『もちろん。すぐわかったよ』
間をおいて、また。
『少し待ってて。会いたい』
マイクに触れる前に止まったユージくんの指。
今は迷わず画面を押している。
届いた待ち合わせ場所を皆で確かめ、スタッフの案内で会場の奥へ進む。
楽屋のある通路。
「ここですか……」
「……特別な場所ね」
「ドキドキする。ニーナ関係ないのに」
「俺もだよ」
通路で待っていると、さっきまでステージにいた七海さんが衣装姿のまま歩いてきた。
乃々さんに気づいて小さく手を振り、ユージくんの前で足を止める。
会場中へ向けていた笑顔が、今は一人だけに向く。
「ユージ」
「七海。久しぶり」
「うん。久しぶり」
俺たちは二人の邪魔にならないよう、通路の端へ寄る。
歓声も音楽も届かない場所なのに、二人ともなかなか次の言葉を出せない。
「さっきの声、ちゃんと聞こえたよ」
「うん」
「今でも応援してくれてるなら、もっと早く言ってよ」
「ごめん。ずっと言いたかったんだけど、言えなかった」
「でも、今日聞けてよかった」
七海さんが笑う。
「私、小さい頃のこと覚えてるよ。アイドルになりたいって言った時、公園で言ってくれたよね」
「ずっと応援するよ」
「それ!」
心の底からの笑顔というのは、ああいうのを言うんだな。
そんなことを思えた。
「ありがとう」
七海さんの目には涙が見えた……気がした。
「それと、今度は普通に連絡してね」
「するよ」
「絶対?」
「絶対」
「じゃあ、待ってる」
「うん」
その返事は、もう《静かに届くマイク》を通していなかった。
もう……きっと彼には必要ない。
「とても私的な使い方でしたけど……これが私の案でした」
「良かったよ。アノマリーは……誰かを助けられるんだね」
「はい……これが連理さんの宝箱の……力です」
「はは、そうかもね」
《幸運》が巡り巡って、こんなところに行き着いた。
「レンリ、人助けしたね」
「……剣だけが人を救う方法では無いのね」
《静かに届くマイク》……その真の価値が今何となくわかった……そんな。




