1053.「これも教訓」
中央広場にほど近い大通りで哄笑が弾ける。声の主はジーザスで、ひどく愉快そうな声色だった。嘲りは微塵もない。それでいてやはり演技めいているのだから、この男の言葉ひとつ態度ひとつ取り出してもジーザスという人格は杳として知れない。
散々笑ったのち、ジーザスは片手で目尻を拭う。笑いすぎて出た涙。自然だ。普通なら。
「あー、面白いねえクロエ女帝は。『やだ』って、子供じゃねえんだからよお」
自分でもそう思う。言葉のチョイスに関してではなく、なぜ即座に否定してしまったのか。以前のわたしが横槍を入れたに違いない。
冷静なわたしにとって、ジーザスの提案はそう悪いものには聞こえなかった。戦後、アスターに直行する。それならば異論はない。この戦争でニコルを討ち取り、その後すぐラガニアに行けるのだから却って都合が良かった。もとより人間が敗北すればルドラに身柄を押さえられるわけだが、それはそれ。ジーザスは勝敗の行方と関係なしに提案しているのだ。乗らない手はない。
とは思うものの、若干の抵抗はあった。アスターにいる間、彼に逆らえないとなると、悪いケースはいくらでも思い描けてしまう。自分の身体が好きにされるのは一向にかまわないけれど、アスターで長逗留するのはナンセンス。
最悪を想像しろと口にしたジーザスに倣えば、『死ぬまでアスターを離れるな』と言われるのがもっとも困る。魔王がアスターに来ない限り討伐のチャンスはないわけで、きっと奴はラガニア城を離れない。となると実質的にわたしの目的は達成不可能になってしまう。
以前の甘いわたしがそこまで考えて口を借りた――正確には奪った――わけではあるまい。どうせ直情的に拒否したのだ。あれはそういう女だから。
「それじゃ、この心臓はどうでもいいわけだ」
「どうでも良くはない。持ち主の体内にちゃんと返してあげて」
手袋の上で鼓動する心臓は、いかにもグロテスクだ。それ自体がひとつの奇怪な生物じみている。
「どうしようかねえ。返すメリットがないモンを返すのはつまらねえなあ。代わりになにをくれるんだ?」
ジーザスが試すような目付きで檻のなかのわたしを見つめる。
「なんでもするわ」
またぞろ彼は腹を抱えて笑った。
「ンハハハ! いやいや、自分を安売りするのは良くねえよ。これも教訓だ。売れるモンは高く売る。売るつもりがねえモンはハナから市場に出すなってな。色々言いたいことはあるが、クロエ、お前にとって心臓に釣り合うだけのモンはあんのか?」
価値の評価は、今のわたしには無理だ。以前の価値観をトレースしてそれらしい値付けなら考えられるものの、まったく分からないものに対しては無力。ヨハンの心臓と天秤がぴったり水平になるものなんて、ひとつしか思いつかない。
「わたしの心臓ならどう?」
心臓と心臓は基本的に等価だと思う。たぶん。
しかしどうやら違ったらしい。
「だからよお、安売りは良くねえって言ったろ? お前の心臓はこの心臓よりも価値が高い。ヴラドならドラクル紙幣――って言っても分かんねえか。金貨だと……そうだな、四億枚はポンと出すぜ」
四億。想像がつかない。豪邸で贅沢三昧をしてなお、一生を遊んで暮らせる額だという程度しか想像がおよばなかった。とはいえ、金銭についてわたしは甚だどうでもよく思っている。眠らない身だから住まいは不要で、食事もしない、水も飲まない、排泄もしないし老廃物も出ない、ずっと水浴びせずとも体臭は変化がなく、髪や爪も伸びない。不自由なんてひとつもないし、そう感じることもない。物寂しさ、愛着、嫉妬、羨望、優越感、全部わたしにはないものだ。欲しがる気持ちそのものが欠けている。
そんなことを考えているうちに、ジーザスは檻に顔を寄せた。
「両目だ。心臓を返す代わりに目玉を貰う」
それならいい。なんら魔力のない物体は認知出来ずとも、魔物の気配や血族の気配、そして魔力は問題なく察知出来る。もしかすると目を失うことでより鋭敏になる可能性も否定出来ない。
「お嬢さん」倒れ伏したヨハンが、掠れた声で口を挟んだ。「馬鹿な取り引きには応じないでください」
なにが馬鹿げているか、今のわたしに分かるわけがなかろう。度を越したものは別だが。つまり、両目くらいは許容範囲だ。
「いいわ」
「だーかーら」ジーザスが指でわたしの額を軽く弾いた。「自分を安売りすんなって。目玉は要らねえよ。視覚を提供してくれりゃいい。視覚共有。分かるだろ?」
なんだ。
「ええ、分かるわ。視覚共有で問題ない」
最初からこれが狙いだったのか。
散々言葉を弄して軌道修正しつつ、望みの品を手に入れる。
「ただし、解除は不可。解除した時点でお前は死ぬ。なに、他人が解除することはねえよ。お前自身が視覚の共有に鍵をかけるんだ。やり方は知らなくていい。鍵をかけた事実だけ忘れなけりゃそれで充分。俺が扱う感覚共有はそんなモンだ。理解したか? 異論がなけりゃ、晴れて交渉成立だ」
少し待ったけど、ヨハンはなにも言わない。声を発せる状態じゃないのだろう。ジーザスが心臓をぎゅっと掴んでいるのだから。
ヨハンの意思を確かめる手段がない以上、わたしに異論などない。
「それでいいわ」
「良し。それじゃ契約だ。いいな?」
頷くと同時に魔力がわたしを包み、やがて消える。一瞬白濁した視界がもとに戻ると、すでにジーザスの手に心臓はなかった。無事ヨハンの身体に回帰したのだろう。
ジーザスは眉尻を下げて腰を折り、窮屈な檻にいるわたしと視線の高さを合わせた。
「クロエ嬢、お前は本当に安売りが得意だな。もっとマシは交渉が出来たはずだぜ。檻から解放するのをオマケに付けるとかよお。なんなら俺を離反させる提案だって出来たはずだ。そこらへんで拾った心臓と、視覚共有。アンバランスな取り引きだと思わなかったか? 俺はなにひとつ失っちゃいねえ。これも教訓だ。相手がそれをどうやって手に入れたかで値踏みしろ。品物の多寡を決めんのは主観的な営みだ」
ジーザスの言葉はまったく響かない。正論だとしても、今さら抗議するつもりもなければ、わたし自身の判断に誤りがあったとも思わない。ヨハンを生かすために両の視覚を提供する程度なら安い買い物だ。
「で、次は檻から出るための交渉をしなきゃならねえ。分かってるよな、クロエ。お前は今、俺に命を握られてる」
ハッタリだ。殺すつもりなら視覚を盗らない。けれど乗っておくべきだろう。
「ええ、そうね」
「自由のためになにを差し出す? 聴覚か? それとも自分の心臓か? あるいは――」
轟音が響き渡り、わたしの視線は自然とそちらへ向いた。広場から隔たった民家に粉塵が舞っている。今しもなにかが墜落したといった具合に。
空には純白の翼と紫の肌を持つ、かつて王都の頂に君臨した男の姿。
「あらら」
ジーザスは呆れ笑いを漏らす。
どうやら彼に気を取られているうちに、とんでもないことが起きていたようだ。
少し前の記憶では、ネモとヴラドが空中戦を繰り広げていた。しかし今、空を制しているのはネモ。
つまり、ヴラドが叩き落されたということになる。
わたしが全力で戦っても勝ち目を見出せなかった、あのヴラドが。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『ネモ』→王都の先代の王。ヨハンに胸を射られ、その影響で『黒の血族』と化した。息子である王子ゼフォンによって地下に幽閉されていたが、ノックスに救出された。詳しくは『第二章 第八話「騒乱の都~②名も無き王~」』にて
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者だが、実は魔王と手を組んでいる。黒の血族だけの世界を作り上げることが目的。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。詳しくは『875.「勇者の描く世界」』にて
・『縫合伯爵ルドラ』→黒の血族で、ラガニアの伯爵。領地に金鉱を有する老翁。夜会卿主催のオークションの常連であり、彼とは表向き親密な関係。貴品『万世一糸』を体内に埋め込んでいる。煙宿を一度は制圧したが逆襲され、捕虜の身に。戦争の趨勢に関し、ヨハンと賭け(契約)をした。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー③赫灼の赤き竜ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー④銀嶺膝下マグオートー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー⑤霧海の繋ぎ手ー」』にて
・『夜会卿ヴラド』→黒の血族の公爵。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『毒色原野』を越えた先に彼の直轄地アスターが存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。律儀で、礼儀を重んじる性格。不死の力を持ち、血液を資源とした魔術を扱う。肉体の大部分を蝙蝠の魔物に提供しており、攻撃を受ければ自動的に蝙蝠が反撃する。ヨハンと契約を結んでおり、アスターの人々は彼を殺すことが出来ない。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』『927.「死に嫌われている」』『第四章 第三話「永遠の夜ー⑥宵闇の狩人達ー」』にて
・『ジーザス』→勇者一行のひとりであり、ヨハンの兄。黒の血族と人間のハーフ。ヨハン同様、契約の異能を持つ。夜会卿に仕えている。彼に下賜された手袋型の貴品『無慈悲な強奪者』を所持。戦争において夜会卿第一部隊に所属。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー⑤霧海の繋ぎ手ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー⑥宵闇の狩人達ー」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『視覚共有』→その名の通り、視覚を共有する魔術。詳しくは『9.「視覚共有」』にて
・『ドラクル紙幣』→ヴラド公爵領で流通している紙幣。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー④銀嶺膝下マグオートー」』『幕間.「徒花の蹉跌」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は血族の土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『アスター』→夜会卿ヴラドの統べる街。グレキランスよりも広く、発展している。金貨に代わる貨幣制度として、ドラクル紙幣などが使用されている。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー④銀嶺膝下マグオートー」』にて




