1052.「誰かさんの心臓」
檻を形成する糸に触れる。指先が裂け、血が溢れた。切ってなお生かす糸ではない証左。つまりジーザスはいつでもわたしを殺せる。檻そのものを収縮させれば、いくつもの肉片と化すのは明白なのだから。
ピンチなのは確かだけれど、なにも出来ないわけではない。
サーベルに痛みだけを与える炎をまとわせて振り上げる。刀身が檻を通過し、わたしはそのまま渾身の力で振り抜いた。途中で炎を解除し、生身の刃に変えて。
硬質な音が響き渡り、腕に痺れと痛みが駆ける。
「お前の力じゃ檻は斬れねえよ。お前の剣速は確かに見事だ。でもな、膂力が足りねえ。これも学びだな」
炎でサーベルのみ檻を通過させ、雷をブレンドしてジーザスを攻撃する算段もあった。しかし採用しなかったのは、彼が悠々と回避するさまが簡単に描けたからだ。決定的な隙でもなければ攻撃は実らない。そして肝心の隙を作り出す手段は皆無。もし偶然油断が生じたとしても、それが罠じゃない証拠にはならない。屋根を踏み抜いたのが演技と分からず攻撃を仕掛けた結果がこれなのだ。
疑心暗鬼に囚われるよう誘導された向きもあるが、仮にそうだとしても結論は変わらない。
大通りの先から、足を引きずってヨハンが歩いてくるのが見えた。相変わらずの不健康さに加えて、ジーザスの攻撃で疲弊している様子である。彼はじっと兄を睨んで足を運んでいるが、ジーザスは一瞥もしない。
「なあ、ひとつ気になるんだが……クロエ。今のお前じゃシフォンに勝てねえだろ。どうやって殺したんだ?」
「斬り合いになったけど、わたしが負けるのは分かった。知り合いの手助けで勝ったのよ。あと、殺してないわ」
ジーザスの目が丸くなる。それから薄っすらと儚い笑みを浮かべた。
「シフォンはなにを考えてるか分からねえ奴だった。こっちが愛想良くしてやっても全部無視だぜ? 愛嬌を忘れちまったんだな。人間性と一緒に。戦闘じゃ重宝するが、道を同じくする仲間となりゃあ、複雑な心境にもなる」
ジーザスは目を瞑って続けた。瞼の裏には、勇者一行と歩んだ道が浮かんでいる。そんな演技。
「テレジアやルイーザは、あんなシフォンを受け入れて気さくに接してたようだが、俺はどうにもそれが虚しく思えた。その意味じゃニコルも虚しい。あいつはシフォンをずっと気にかけてた。……生きてるのか。そうか。そりゃ悪くない」
ニコルの名が出て、思わず腕に力が入る。いきおい、言葉が意識するより先に飛び出していた。
「でも、ニコルはシフォンを捨てたわ」
「捨てた?」
「勝った相手に従うように指示されてたのよ」
ジーザスが目を開け、若干軽蔑の入り混じった視線をこちらに送った。
「すると今はお前の手下ってわけか」
「いいえ。わたしの知り合いに預けた」
「その知り合いってのは」ジーザスの顔が険しくなる。「戦争でシフォンを使い潰すような手合いか?」
かぶりを振って否定した。わたしの知る限り、シンクレールは非情ではない。そもそも彼女を殺すのを止めたのが彼だ。
今もシンクレールたちは前線基地にいるのだろうか。ふと思ったが、無駄な思考だ。答えを持っていなければ、特段の関心もない。彼がどこでなにをしていようと、今のわたしにとってなんの意味もないのだから。
「嘘じゃなさそうだな」
言って、ジーザスは心臓目がけて腕を伸ばしたヨハンを躱し、その背を蹴り飛ばした。
これは推測でしかないが、ヨハンはジーザスに欺瞞の鏡面を施し、視界を欺いたうえで仮死魔術をかけようとしたのだろう。ただ、通用しなかった。
「ねえ。あなたはヨハンのお兄さんなんでしょ。どうしてなにも言わないの? 視界に入れないのはなんで?」
甚だどうでもいい問いだと自覚している。この檻を突破する方法を考えるには時間が必要なのだ。それとなく冷気を放って糸を凍結させ、最前同様に炎の刃で振り下ろして凍結部に直撃する寸前で解除したのだけれど、どうにも斬れない。
「誰だ、ヨハンってのは?」
「メフィストのことよ」
「誰だそいつ。知らねえよ」
吐き捨てる言葉も表情も、見事に繕っている。なにもかもが嘘で、ちっとも正体がみえてこない。わたしの眼力がその程度なのかもしれないが。そもそも今のわたしは感情がなく、他者の内面について考えるのが極端に苦手になってしまった。まあ、ジーザスの本心を知ったところで益があるとは思えないが。
ジーザスも大概だが、ヨハンもヨハンだ。これまで兄に対してなんの言葉も発していない。樹海で聞いたところによると、子供時代、兄に暴力を受けていたんだとか。そして故郷が焼き討ちに遭って離れ離れになった。それだけでは、ここまでの確執に至るとは考えづらい。ジーザスが夜会卿の手下である以上、彼の地での革命でなにかあったのかもしれないが、それは想像のおよぶ範囲を越えている。
「わたしを殺すの?」
「場合によっちゃあ殺す。まあ、今んとこ殺す気はねえな。シフォンが生きてるってだけでも割と嬉しいんだ。旅の間はなんとも思わなかったが、離れてみるとしんみりする。だからテレジアやルイーザ、スヴェルのことは、仕方ねえと思っていても寂しいモンなんだ」
「そもそも、あなたはどうしてニコルの仲間になったの?」
大した興味もなく聞いたのは、もちろん気を逸らす以外の意味はない。ジーザスの背後にヨハンのかたちをした魔力が近付いている。一方で、ギリギリ視野に入らない位置でヨハンの実物が接近していた。こちらのほうは極端に魔力が薄い。魔力だけ鑑みれば、人型ですらなかった。足を引きずらないよう苦労している様子で、一歩一歩踏みしめている。
「ニコルねえ」お誂え向きに、彼が視線を斜め上へと流した。顎に手を添えて。「水先案内人として志願した。あいつらはラガニアに詳しくねえからな。といっても善意じゃねえよ。他種族の解放をするくらいの人間で、しかもヴラドを何度も殺した実績がある。俺としちゃ興味があった。あいつの強さに」
まあ、と彼は続ける。接近するヨハンを視野の外に置いて。
「結局ニコルは天然モノの強さで、俺に真似出来る類じゃなかったけどな。ただ、悪くはなかったぜ。仮初みてえな立場でも誰かと旅すんのは面白い。情も湧く。ゾラに戦争の契約を持ちかけたのも情けみてえなモンだよ。あいつが聖域を得られるように手配してやった」
不意に、魔力だけのヨハンがジーザスに飛びかかった。彼を見返ることなく回避して虚空に蹴りを放つ。その刹那、一歩遅れてヨハンの実体がジーザスへと手を伸ばした。指先が心臓を狙う。
ジーザスはそれをも回避し、一瞥もせず宙を撫でた。動きの終わり際、手のひらに赤い物体が乗る。刻々と脈打つ臓器。心臓。
ジーザスはつまらなさそうに心臓を握る。と、ヨハンが呻き声を上げ、胸を押さえて地を転げた。
「さて、クロエ。交渉といこう。俺はいつでも誰かさんの心臓を潰せる。物理的にじゃねえよ。比喩だ。俺は、というかアスターの全住民が、直接的には誰かさんを殺せねえ。だからこの心臓はどっかに転移させる。そのうち野良犬かカラスが喰うだろうよ。困るか?」
「困る」
どうやって心臓だけを取り出したのか、疑問は感じない。わたしの身体を殺さず切ったのと同じ理屈だろう。
ヨハンを失うのは困る。替えがいない。
「それじゃ、こうしよう。クロエ。お前は俺と一緒にアスターに来い。戦争がどうなろうとな。で、だ。アスターにいる間、お前は俺に逆らっちゃいけねえ。といっても奴隷になれってワケじゃねえからな。基本的に好きにしていいし、自由だ。この条件を飲むんなら、心臓は元通りになる。悪くない話だろ?」
ジーザスの提案を聞いて、確かに悪くないと思った。
思ったはずなのだけれど――。
「やだ」
そう答えていた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『メフィスト』→ニコルと魔王に協力していた存在。ヨハンの本名。現在はクロエと契約し、魔王討伐に協力している。初出は『幕間.「魔王の城~尖塔~」』
・『シンクレール』→王立騎士団の元ナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。戦争において前線基地のリーダーを任され、簒奪卿シャンティと対峙。彼女の配下にいたシフォンの存在により、シャンティと共闘。そののち、シャンティは捕虜となり、シフォンは彼と行動するようになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』『第四章 第三話「永遠の夜ー①前線基地ー」』にて
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者だが、実は魔王と手を組んでいる。黒の血族だけの世界を作り上げることが目的。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。詳しくは『875.「勇者の描く世界」』にて
・『ジーザス』→勇者一行のひとりであり、ヨハンの兄。黒の血族と人間のハーフ。ヨハン同様、契約の異能を持つ。夜会卿に仕えている。彼に下賜された手袋型の貴品『無慈悲な強奪者』を所持。戦争において夜会卿第一部隊に所属。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー⑤霧海の繋ぎ手ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー⑥宵闇の狩人達ー」』にて
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。戦争において簒奪卿の部隊に配属されたが裏切り、血族も人間も殺戮した。自分の感情も思考も持たず、ニコルに従っている。前線基地にてクロエに敗北し、彼女の命ずるまま、現在はシンクレールに従っている。風の魔術の籠もった貴品『シュトロム』を所持。実は騎士団長ゼールの養子。シンクレールの塩オムレツを気に入っている様子。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』『幕間「或る少女の足跡」』『幕間「前線基地の明くる日に」』『第四章 第三話「永遠の夜ー⑥宵闇の狩人達ー」』にて
・『スヴェル』→ニコルと共に旅をしたメンバー。王の側近であり、近衛兵の指揮官。『王の盾』の異名をとる戦士。魔王討伐に旅立った者のうち、唯一魔王に刃を向けた。その結果死亡し、その後、魂を『映し人形』に詰め込まれた。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『王城』~」』『582.「誰よりも真摯な守護者」』にて
・『ルイーザ』→ニコルと共に旅をしたメンバー。最強と目される魔術師。高飛車な性格。エリザベートの娘。『針姐』の墨の魔術により全身に縮小した魔紋を刻んでいたが、クロエの持ち込んだ『墨虫』により無力化された。現在は魔力の大部分と記憶を失い、平凡なひとりの少女としてローレンスの館に住んでいる。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『魔女の湿原』~」』『第二章 第六話「魔女の館」』より
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。魔王の血を受けており、死後、『黒の血族』として第二の生命を得たが、クロエに討伐された。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』『第二章 第三話「フロントライン~①頂の街の聖女~」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。恋愛に関しては極度に潔癖な一面もある。勇者一行でありヨハンの兄でもあるジーザスと契約し、人間殲滅を目的とした戦争への参加を余儀なくされている。クロエに敗北し、ヨハンの提示した戦争での役割を受け入れることとなった。すべての種族が争いなく共生する世界、『ユグドラシル』を理想としている。しかしながら過去、人間との交流によって失意を味わい、結果、人間に対する愛憎の念を抱くようになった。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』『Side Grimm.「獅子のひとりごと」』にて
・『夜会卿ヴラド』→黒の血族の公爵。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『毒色原野』を越えた先に彼の直轄地アスターが存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。律儀で、礼儀を重んじる性格。不死の力を持ち、血液を資源とした魔術を扱う。肉体の大部分を蝙蝠の魔物に提供しており、攻撃を受ければ自動的に蝙蝠が反撃する。ヨハンと契約を結んでおり、アスターの人々は彼を殺すことが出来ない。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』『927.「死に嫌われている」』『第四章 第三話「永遠の夜ー⑥宵闇の狩人達ー」』にて
・『欺瞞の鏡面』→対象の視界を欺く魔術。詳しくは『533.「欺瞞の鏡面」』にて
・『仮死魔術』→一時的に心臓を止めて死を偽装する魔術。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー⑤霧海の繋ぎ手ー」』にて
・『前線基地』→王都北東の山脈にほど近い場所の山岳地帯に作った、戦争における要衝。血族の侵入経路と王都を直線上に結ぶ位置にあるため、全滅は必至であり、足止めの役割がある。総隊長としてシンクレールが配備されている。簒奪卿シャンティおよびシフォンの襲撃によりほぼ壊滅した。詳しくは『第四章 第二話「幻の森」』『第四章 第三話「永遠の夜ー①前線基地ー」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は血族の土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『アスター』→夜会卿ヴラドの統べる街。グレキランスよりも広く、発展している。金貨に代わる貨幣制度として、ドラクル紙幣などが使用されている。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー④銀嶺膝下マグオートー」』にて




