Side Meena.「風の囁き、血の標識」
※ミイナ視点の三人称です。
定かならぬ視界に赤が点々と映った。ほかならぬミイナが転げた際に流した血の痕である。
蹴りを受けたばかりの側頭部を、震える指先で触れた。脳震盪を起こしているのか、目に入るすべてが揺れている。真っ赤に濡れた指もまた絶えずぐにゃぐにゃと変化していた。
このとき、ザムザはすでに床に手を突いた姿勢でなく、立ち上がってミイナを見下ろしていた。蹴りを放った位置からまったく移動していない。
彼の後方にいるタテガミの獣人が槍を放つ。が、ザムザは振り返ることなく後ろに手を伸ばし、穂先を指で摘んだ。タテガミが驚いたのも自然である。死角からの攻撃だったのは間違いないのだから。
首を後ろへ逸らし、ザムザが言う。
「なにを驚いているんだ。お前がやったことと同じじゃないか。俺の周囲に撒いた鉄屑は音を拾うためだろう? それでミイナは俺の位置を特定した。結果的に攻撃は実らなかったが、まあ、悪くないアイデアだと思う。お前の槍を掴んだのも同じ理屈なんだから、目を丸くする理由がない」
「……音?」とタテガミが呟き、ザムザは浅く頷いた。
「風の音だ。すべての物体は移動の際、速度と形状に応じて音を出す。風のメッセージを聴くといい。風に親しむと、自分の動きから生じる音を消すのも可能になる。実際、俺はそうやってお前たちの視界の外に出た。足音を消すのも俺にとっては同じ。床の材質を見極め、素足との相性を知る。深く知れば知るほど足音は小さくなり、やがて無音に到達するんだ。これはオブライエンが教えてくれたことじゃない。俺自身の孤独が生んだ技術。あまりにも話し相手がいないものだから、物体や空気と会話した」
不意にザムザが膝を落とし、片手を突いて、床を滑るように蹴りを放った。描いたのは半円。職人の方角を除き、鉄屑はひとつ残らず周囲へと飛び散る。それらがミイナや他種族の肌を裂いた。蹴りを放った当のザムザも傷を負ったわけだが、礫を食らった側よりもずっと傷は浅い。ほんの少しの血が滲んだのみ。
「貴様は」タテガミが拳を握り、前傾する。「我々の攻撃は危害に入らないと言っていたな? しかしミイナを蹴り飛ばした。つまり彼女を――」
「遮って悪い。お前たちは依然として俺に危害を加えるに至っていない。ミイナも同じだ。蹴ったのは、会話の流れで実演すべきだと思っただけで、悪気はない。武術はなかなか口で表現出来ないからな。上手く伝えられるか不安だった。実際に受けてもらうのが一番だと思ったんだが……駄目だったか?」
タテガミが殺気を漲らせていたのは事実だが、同時に踏み出せないでいたのは、なにもザムザを恐れてのことではない。この男の馬鹿げた考えと、それを衒いなく口に出来る朴訥さに、やや呆れてしまったのだ。今しも鉄屑を散らしたのも、追撃の意図がなかったと素朴に言い放つだろう。修正しがたい対話能力のズレと、実力の高さがチグハグだ。
鉄屑を蹴散らしたときと同じ唐突さで、ザムザが槍を投げた。持ち手の部分がタテガミの手に収まるように。
「それはお前の武器だから、返す。これは間違っていないだろう?」
敵でなければ間違っていない。だが、敵同士ゆえ侮蔑に限りなく近い行為である。ザムザとしては前者のつもりなのだろう。いまだに他種族およびミイナを敵視していない。単なる会話相手と見做している。
タテガミの瞳孔が開き、唸りが漏れた。
殺気を意に介さず、ザムザは指を立てて言う。
「ひとつアドバイスを。武器は今すぐ捨てたほうがいい。ひと通りの武器を扱った経験があるから言うんだが、槍持ちのお前もミイナも、あとトロールたちも、武器に意識が持っていかれている。攻撃手段として拳や蹴り、膝も使ってはいるようだが、武器が本命なのが透けているんだ。要するに武器に操られている。本物の使い手は、武器を肉体の一部として使う。お前たちはまだその域に達していない。俺がもっと弱ければまともな戦いになったかもしれないが、残念なことにお前たちの段階では到底勝てる見込みはない。視界から外れる動きを取らずに戦ったとしても後れは取らないと断言出来る。だから武器を捨てて、肉体ありきで戦うのが一番いいんだが、それであっても無理だな。……口が過ぎたなら謝る。すまない。悪気はないんだ。事実を伝えるのが親切だと思――」
躍りかかったタテガミの視界から、ザムザが消える。槍で周囲を薙ぎ払おうと、当たる感触はない。それでも彼は攻撃をやめなかった。ミイナと同じく、無我夢中で虚空と戦う。床付近で蹴りを放った事実を考慮し、床から数センチの低さにも刃を振るい、死角にこそ意識的に攻撃した。空いた足で蹴りや膝を見舞うのは、バランスが崩れないタイミングのみ。
徒労感とせめぎ合いながら、孤軍奮闘するタテガミ。その一方で、ミイナは徐々に己を取り戻しつつあった。脳の揺れが収まり、視界が正常に復する。そして同時に、正気を失う寸前にあった。体力が尽きたわけでもなく、意志が挫けてもいない。
血。
彼女は己の手を見つめていた。
血。
礫のひとつが額に命中しており、一筋の血液の轍が生まれている。それはやがて眼球に達し、彼女の視界の半分を赤に染め上げた。
「血。血。チ。……ああ、アアア……」
ケダモノ。冗談ではなくミイナをそう呼ぶ者がいる。ほかならぬアカツキ盗賊団の仲間たちだ。絶対に彼女の耳に入らない場所で、ひっそりと。愚痴でも揶揄でもない。彼らは、そうとしか表現出来ない状態を目にした経験があるのだ。
転がった執行獣を片手で担ぎ、散った鉄屑を踏みしだいてミイナは歩む。ケダモノの唸りを上げて。
タテガミが彼女を目にし、瞬時に距離を取ったのは妥当な選択だ。ザムザとは一対一で戦わねばならない。でないと同士討ちの危険があるのだから。ただ、それを『判断』と呼ぶのは語弊がある。タテガミの行為は反射だ。怒りのままに解放したタテガミの獣性すら凌ぐ狂気が、少女から迸っていたのである。
ミイナの目に、正対するザムザが映った。
「アアア……ラァアアアア!!」
咆哮を上げて跳び上がり、執行獣が床に打ち付けられる。腕に走る激痛は彼女の動きを損なわない。すでにミイナの視界からザムザは消えていたが、彼女は問題視しなかった。そもそも、ろくに頭が働いていない。
思考なき一匹の凶獣。彼女の振るう金棒が、ミイナの背後で息を潜めるザムザの目の前をよぎった。
ザムザが位置を変えても、執行獣は執拗に彼を追っている。その一場を、意識を取り戻した他種族たちが目撃し、唖然としていた。先ほどまで怒りで我を忘れていたタテガミでさえ、吸い込まれるように見入っている。
これまでのミイナの戦闘は、ほぼすべての攻撃がザムザを捉えるに至っていなかった。傍目にいる者にしか分からない事実である。しかし今この瞬間は違う。執行獣はザムザの鼻先数センチを横切り、回し蹴りが肩のすぐそばを射抜き、裏拳が脇腹を掠めている。一撃たりとも目標を見失っていないのだ。
やがてザムザの姿勢が変化し、床を這い、ミイナの足の真横を抜け、顎を突き上げる蹴りを放った。
「ミイナ。訂正する。お前は、お前だけは俺に危害を加えられる。残念だが、排除させてくれ」
少女の身が垂直に打ち上げられ、砕けた歯が宙を舞う。切れた口内から血が流れる。そんな状態にありながら、彼女は奥歯を噛み締め――。
「オアァァアアアア!!!」
着地と同時に執行獣が振り下ろされた。
すんでのところでザムザは回避したものの、実のところ彼に余裕はない。いまだにほぼ無傷の彼が、この場の誰より動揺していた。
なぜミイナは俺の位置が分かるんだ。
そんな疑問で頭が埋め尽くされている。
彼が答えに辿り着くことはない。ケダモノの心理など知りようがないのだ。そして、正解を知ったとしても無意味だ。彼女の得ている確かな情報を消す手段をザムザは持ち合わせていない。
鉄屑を蹴散らした際の僅かな血。
ザムザの血の匂いで、彼女は獲物の居場所を把握しているのだから。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『ミイナ』→アカツキ盗賊団のリーダー。詳しくは『第二話「アカツキ盗賊団」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。外界で活動しているのは彼の分身『二重歩行者』であり、本体は一切の魔術的干渉を受けない檻に閉じ込められている。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『紫電のザムザ』→騎士団ナンバー1の男。銀の髪を持つ魔術師。幼い頃の記憶がない。ときおり頭のなかに響く『声』に従って行動をする。実はオブライエンによって作られた、魔道具に限りなく近い人間。故人。詳しくは『幕間.「王都グレキランス ~啓示~」』『Side Winston.「紫電の組成」』にて
・『トロール』→よく魔物に間違えられる、ずんぐりした巨体と黄緑色の肌が特徴的な種族。知能は低く暴力的で忘れっぽく、さらには異臭を放っている。単純ゆえ、情に厚い。『灰銀の太陽』に協力。詳しくは『741.「夜間飛行」』にて
・『アカツキ盗賊団』→孤児ばかりを集めた盗賊団。タソガレ盗賊団とは縄張りをめぐって敵対関係にあった。詳しくは『第二話「アカツキ盗賊団」』にて
・『執行獣』→アカツキ盗賊団団長のミイナが所持する金棒。詳しくは『22.「執行獣」』にて




