幕間.「風のない朝」
その日、ウィンストンは常と変わらず過ごしていた。短い睡眠を摂り、食事をし、室内の掃除をする。仮住まいなのだから掃除の必要性は皆無だったが、主人の邸で暮らしていた頃の習い性だ。
『お前には苦労をかけるねェ』
もう何度耳に蘇ったか分からないくらい、脳裏に焼き付いた言葉。毒食の魔女が死に際に口にした台詞である。
寝室ひとつに、リビング兼キッチンがひとつ、浴室と手洗い場がひとつ。それだけの小さな部屋に今は三人が暮らしていた。
「交代の時間です」
寝室を出たウィンストンが声をかけた相手は、睨むような目付きを返した。逆立った黒の短髪の下に、威圧的な表情を浮かべている。ショートパンツにへそ出しの黒い丸首シャツ。褐色肌の少女が座るソファの背の部分に、大仰な棘付きの金棒が立てかけられている。彼女はずっと、手の届く範囲にその凶器を置いていた。こちらを警戒しているわけでなく、日頃からこうなのだろうとウィンストンは察している。
ミイナ。それが少女の名だ。数日前にこの家にやってきた新入りである。とてもじゃないが友好的とは言えないし、出会い方も最悪に近い。
数日前、彼女はこの家に押し入ったのだ。最初はノックされ、無視を続けていると、扉を蹴破ろうとする乱暴な音に変わったのである。示し合わせた合図を使わない相手は絶対に入れない決まりだ。だが、扉を壊されかねない状況を放っておくわけにもいかない。やむなく扉を開けた瞬間、タイミング悪く金棒が振り下ろされたところだった。咄嗟に金棒を持つ手を捻り上げた矢先、側頭蹴りを放った彼女は強盗にしては大胆過ぎる。片手で蹴りを防ぎ、空いた手で項へ手刀を打って即座に意識を奪ったのは妥当な判断だったと言えよう。
彼女が何者なのかは同居人が教えてくれた。アカツキ盗賊団なる組織のリーダー、ミイナ。『最果て』出身で、かたちとしては此度の戦争の援護部隊ではあるが、ずっと壁内に留まっていたのは戦うのが目的ではないからである。盗賊団を組織した『親爺』なる人間が攫われたのでずっと捜索を続けていたらしい。
『彼女の身元は私が保証しよう』
同居人は、気を失ってソファに寝かされたミイナを一瞥して言った。小振りのダイニングテーブルを挟んで同居人が微笑む。中性的な面立ちをした、白銀色の長髪を持つ長身の男。碧のローブを羽織った彼もまた、『最果て』からの来訪者である。合図通りのノックでこの家を訪れた、森の王様。グレガー。
起き上がって叫ぼうとしたミイナの口を淀みない動きで塞ぎ、落ち着かせたのもグレガーである。
王都にやってきて二週間ほど昼もなく夜もなく『親爺』の捜索を続ける彼女が、この家に訪問――もとい家探しに現れたのは、痺れを切らしたからとのこと。外はもちろん、食堂やらの店を片っ端からめぐり、どこにも『親爺』がおらず、姿を見た者もいなかったため、いよいよ民家を攻めたと語った。まったく反省の色なく、ぶっきらぼうに。この仮住まいが最初の標的だったのは、彼女にとってもウィンストンにとっても幸運なことだった。お尋ね者がこの家に入ったとなれば目を引く。そして彼女が必死になって探す人物は、きっと地上にはいない。王都中の魔具職人がある日一斉に姿を消した噂は聞きおよんでいるし、居場所も見当が付いていた。今すぐ訪れることの出来ない場所。ほとんどすべての者が存在すら感知していない場所。時機が来たら突入する場所。少女を室内で匿うのは妥当な判断だった。野放しにすれば騒ぎを起こすに違いないから。
ソファで腕組みするミイナは明らかに殺気立っている。
「悪いけどアタシはちっとも眠くない」
それはそうだろう、とウィンストンは思った。作戦開始は近い。王都の門が突破されたなら、遠からず合図が来るはずだ。
ダイニングテーブルを見やると、グレガーがじっと紙片に目を落としていた。
共益紙。作戦決行の合図はそこに記される。煙宿陥落の報せが書かれてから、今日までなんの音沙汰もない。今この瞬間も。
一昨日の朝、血族の軍勢が王都の各門に迫っていると語ったのはグレガーだ。昨晩襲撃があったと口にしたのも彼である。壁の内側にはなんの報せもない。夜に入って間もなく、数日間の外出禁止令を出したのち、カエル頭の交信魔術師は沈黙を続けていた。
「気配はある。落ちていないのだろう」
出し抜けにグレガーが言う。彼はそれ以上、なにも口にしない。ウィンストンも言葉の意味をつぶさに確認するつもりなどなかった。
壁内の魔力の気配はあちこちから感じ取れる。大きな変化はない。
魔物の気配が朝になれば消え去るのは普通だ。あえて言葉にすることでもない。『落ちていない』の主語は門であろう。誰にとってもそれがもっとも重要なのだから。
昨晩、各門の防衛が成功し、血族が一時撤退したのか。今宵の再戦に備えて、夜まで待つつもりで。
そんな可能性があるだろうか。大量の魔物と血族を相手に、ひと晩凌ぎきるなど。それもすべての門で。なにより、あのヨハンが見誤るとは思えない。
彼はイフェイオンを訪れたときに、必要な戦略はすべて共有してくれた。大っぴらに口に出せないこともすべて。
作戦の細かな部分は戦況次第で変わりうるとしても、大筋に変更はない。門の陥落は作戦決行が間もなくであると示している。もし血族が人間側に苦戦するようなら、ヨハンは平気で血族に肩入れするだろう。どれほどの血が流れようとも。
門が陥落したならば王都に流れ込む血族の気配で分かる。ベッドに横になりながらも、ウィンストンは戦場で弾ける魔力の数々を察知していた。敵味方の区別なしに。そして今、門の先で展開されていた魔力は減退している。血族が休戦を選んだのなら、戦闘で生じる魔術は消え、当然ながら察知出来る魔力も減る。道理だ。ただ、ウィンストンはその情報を鵜呑みにする気はなかった。グレガーも同じはず。でなければ『落ちていないのだろう』などと、あえて憶測めいた言い回しはしない。
ウィンストンは背を正してキッチンに立ち、残り僅かな保存食を工夫して、それらしいモーニングの支度をした。干し肉も、刻んで焼いて調味料を加えればメインディッシュになる。煮てもいい。蒸しても柔らかくなる。ウィンストンはふと気になって玄関に向かい、扉のそばに立ち、しばらくしてから朝食作りに戻った。
どの家でもそうだろうが、どんなに密閉したと思っていても隙間風が入り込む。耳を澄ませば外の風音も聞き取れる。ミイナが蹴破ろうとしたせいで歪みが生じたのか、隙間風がしょっちゅう入り込むようになってしまった。
昨晩作ったスープの残りに火を入れる。今朝はスープと丸パンと、刻んだ干し肉を和えたマッシュポテトだ。これを朝食に出したなら、夜間防衛から戻った魔女は満足するだろうか。昼夜逆転の生活を送っていたあのひとは質素な朝食を好んだ。もっとも、ゲストがいるときは別だが。嗚呼、しかし、ワインと和音ブドウがないのは減点だ。気を損ねる。
懐かしい記憶を手繰るのをやめて配膳に取りかかりながら、先ほど確認した玄関に意識を向ける。
隙間風はもちろんのこと、風音ひとつなかったのだ。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『ウィンストン』→『毒食の魔女』の邸の執事をしている魔術師。丁寧な口調の壮年男性。ジェニーとは犬猿の仲。昔から魔女の命を狙って暗殺を繰り返している。魔女を殺害したオブライエンへ、並々ならぬ復讐心を持っている。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『279.「物好きな主人」』参照
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。本名はカトレア。オブライエンの策謀により逝去。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『Side Winston.「ハナニラの白」』にて
・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だったとされる男。不死魔術の研究により、王都から追放された。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。勇者一行であるゾラとの面識あり。ゾラの記憶する限り、グレガーはかつて騎士団の頂点に座していた。詳しくは『205.「目覚めと不死」』『868.「若年獣人の長き旅⑥ ~奪取~」』にて
・『ミイナ』→アカツキ盗賊団のリーダー。詳しくは『第二話「アカツキ盗賊団」』にて
・『アカツキ盗賊団』→孤児ばかりを集めた盗賊団。タソガレ盗賊団とは縄張りをめぐって敵対関係にあった。詳しくは『第二話「アカツキ盗賊団」』にて
・『最果て』→グレキランスの南方に広がる巨大な岩山の先に広がる土地。正式名称はハルキゲニア地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『親爺』→アカツキ盗賊団の元頭領。クロエの所有するサーベルは彼が製造した。詳しくは『40.「黄昏と暁の狭間で」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『魔具』→魔術を施した武具のこと。体内の魔力が干渉するため魔術師は使用出来ないとされているが、ニコルは例外的に魔術と魔具の両方を使用出来る。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『共益紙』→書かれた内容を共有する紙片。水に浸すと文字が消える。詳しくは『625.「灰銀の黎明」』にて
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。ゆえに人探しはご法度。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」「煙宿~②不夜城~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『イフェイオン』→窪地の底に広がる豊かな町。王都に近く、特産品の『和音ブドウ』を交易の材としている。『毒食の魔女』によって魔物の被害から逃れているものの、住民一同、彼女を快く思っていない。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』にて
・『和音ブドウ』→イフェイオンの特産品。皮から果肉を出す際に独特の音が鳴ることから名付けられた。詳しくは『230.「和音ブドウと夜の守護」』にて




