Side Johann.「万能ではない」
※ヨハン視点の三人称です。
ひとは万能ではない。人間であれ血族であれ他種族であれ、そして魔物であれ。運の要素を完全に排除し、物事を思い通りに運べる存在などいない。ヨハンは常々そう考えていた。謀略が実るかは運次第。ただし、こうも思う。能う限り相手を理解し、持ちうるすべての情報を動員して脳が焼き切れるほど思考をめぐらし、山ほど準備を積み重ねれば、筋道通りに物事が推移する確率は格段に上がる。完璧ではないにしろ。
脳兵の存在自体は知っていた。エールの拷問でそれが使われたからだ。当時はヴラドの悪趣味を内心で罵ったものである。あの男は極端に無駄なこともするが、一方で尋常でなく合理的でもあるのだ。脳兵が明確な目的のもとで作られ、グレキランス侵攻の道具であると確信したのは、煙宿でヴィハーンと会話したときである。ヴラドは戦争が決まってから、ヴィハーンに問いただしたのだ。どうやって複数人の視覚を得ているのか。結果的にヴィハーンの方法は彼にしか実現出来ないものだったわけだが。
広大な戦場において、情報こそがなによりも重要であるのはヴラドに限った話ではない。ただ、通常であれば交信魔術だけで充分だ。
ここにヴラドの特殊な点がある。
彼は誰ひとり信用していない。
アスターでの革命に参加する前にヴラドについて徹底的に調べたからこそ、極端なまでに物事を信じない性質を把握していた。信用出来るのは自分だけ。となれば、自分を拡張させる手段を採用する。無数の蝙蝠の情報処理に脳兵が用いられるのは自然な成り行きだろう。
空中で敵の布陣を確認し、右方にあたりをつけ、シャオグイの影に二重歩行者を潜ませた。彼女に前線へ出るよう指示し、自分は闇のなかに潜伏し続ける。夜霧の庭園の術者であるエールを殺したのち、露出した車輌に入り込む。すべて計画通りに運んでいた。ヴラドが蝙蝠を放つのも予測済み。二匹のうち一匹にしか欺瞞の鏡面を施せなかったが、さして問題視してはいなかった。視界をいつどのように欺くかは術者の心ひとつ。ヨハンは車輌の下で機を待ったのだ。欺瞞の鏡面にかかっていない蝙蝠が、脳兵の無事を確かめるために訪れるのを。そのタイミングで、もう一匹にも二重歩行者経由で欺瞞の鏡面を施せばいい。それも、厚い布の隙間に入り込む際、どうしたって生じる暗闇の瞬間を狙って。これで二匹分の視界は潰せる。
蝙蝠が去って間もなく、ヨハンは厚い布に覆われた車輌の内部に入った。
なかの作りは複雑ではない。車輪付きの鉄檻が四方を埋め、天井からは無数のチューブが垂れている。魔術除けすら施していなかったのは時間的な問題だろう。ヴラドは脳兵の量産と、蝙蝠の視覚情報を統合する手段に重きを置いたわけだ。
脳兵は拷問の際に目にしている。それでも、彼らを目にしたヨハンは言葉を失った。目も口も耳も鼻も壊され、死んでいるも同然の状態で生きている百名の血族。怒りは感じなかった。むしろ哀れみを覚えたものだ。ヴラドに倫理観が欠如しているのは重々承知しているが、度を超えている。こんなことを躊躇なく実現してしまう男の心性を哀れんだ。
その後のヨハンの行動に一切の淀みがなかったのは、計画通りに事を運ぼうとする意志だけに立脚していたのではない。一刻も早く彼らを解放しなければならないと思ったのだ。脳をナイフで撹拌し、喉と心臓を回復不可能なまで滅多刺しにする。それを百人分。黒い血で染まった鉄檻のなかで、ヨハンはしばし呆然としていた。殺すことでしか救えなかったとしても、達成感など欠片もない。
――死後、皆がユグドラシルに行くとしても、俺とヴラドだけは立ち入り禁止だろう。
そんなことを思った。
脳兵を殺している間も目的を見失わなかった自分に嫌気が差す。無数のチューブは生命維持のものだけではなく、蝙蝠の視界を中継する役割もあるのは一目で分かった。魔力の流れは雄弁だ。ゆえに、チューブには傷ひとつ付けず殺したのである。
この間、ヨハンは分身だけではなく実体のほうもおろそかにしていない。ドーム内には死守しなければならない存在がいる。とりわけ重視していたのはサフィーロだ。彼の翼がなければ、ドームが崩壊したのちに脱出は果たせない。
ヴラドはほぼ間違いなく、最終的に無数の目を――脳兵を使う。未処理のまま流れ込む膨大な情報は、彼の脳を機能不全に追い込むに違いない。ドームが崩壊したあとは最高速度で逃げる。
万が一サフィーロの翼が使用出来ずとも、代替案はあった。クロエもマヤもベアトリスも、猛者と呼んで差し支えない。退路を切り拓くのは可能だ。
ただ、そうもいかなくなってしまった。
マヤが蝙蝠の弾丸で気絶したのである。ベアトリスもそれなりのダメージを負ってしまった。自分も足を撃ち抜かれたが、それはいい。我が身の心配なんてしていない。サフィーロも手傷を負ったものの、まだ無事と言える範疇。代替案のほうが先に駄目になるなんて、ありふれている。何事も完璧にはいかないものだ。
ヴラドへの最後の攻勢――落日の雫と『虚喰』の行使、そしてクロエの動員はフェイクだ。本当の狙いは欺瞞の鏡面による詐術である。両の蝙蝠の視界に差はない。シャオグイによって目減りさせられる人員を黙って見過ごすのはナンセンス。ヴラドは選ばなければならない。偽の視界を信じて前線の絶大な暴力装置――バルクハルトを呼び戻すか。それとも中央部隊の襲撃は偽りと判断してなにもしないか。
こういったケースでヴラドがどうするのか、ヨハンは承知していた。
正確な情報を得ようとする。判断を留保して、確実な証拠へと手を伸ばす。
慎重を期し、石橋を何度も叩き、それでもなお決め手がなければ動けないのがヴラドだ。
かくしてヨハンの読み通り、ヴラドは手を出してはいけないもの――脳兵の情報に縋り、情報の洪水に溺れたのである。顕在化している魔術も維持出来ない。些細なものならまだしも、ドームは常に気を張っていなければ保てないレベルの代物だ。崩壊するのは必然。
「総員撤退! サフィーロさん! 私たち全員を連れて後方へ飛んでください!!」
これで一旦仕事は終わりだ。得るものは得た。壊すべきものは壊した。
このときヨハンが油断していたのは事実だ。ヴラドが正気に戻るまでどんなに短くとも十数分はかかるはずである。それゆえ、ドーム崩壊後に起きたことはヴラド自身も関知しないところで彼の意志が働いたと言っていい。
後方へと足を踏み出したクロエ。その襟首をヴラドが片手で掴んだのである。そして斑模様の箱を取り出した。
ヨハンは強制転移箱を知らない。ただ、あの箱が危険であることは瞬時に悟った。
「お嬢さ――」
箱が開く。その一瞬前に、クロエは横に突き飛ばされた。彼女のもっとも近くにいたサフィーロに。
蒼の竜人は箱に吸い込まれ、消えた。
撤退のための翼が失われたのである。
ひとは万能ではない。すべてを読み切ることなど不可能なのだ。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『脳兵』→夜会卿ヴラドの私兵。意識を持たず身体を動かすことも出来ず、しかし脳だけは生きている状態に改造された血族。ヴラドの使役する蝙蝠の魔物の得た情報を処理するためだけの存在。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『夜会卿ヴラド』→黒の血族の公爵。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『毒色原野』を越えた先に彼の直轄地アスターが存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。不死の力を持つ。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』『927.「死に嫌われている」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。また、グレキランス一帯の地方を指して用いられる。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。ゆえに人探しはご法度。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~①ほろ酔い桟橋~」「煙宿~②不夜城~」』にて
・『ヴィハーン』→縫合伯爵ルドラの領地の官吏。魔術師。領地外の男爵の養子であり、ルドラ領を乗っ取るために移住した。ルドラの兵力のほぼすべてと視覚および聴覚の共有をしていた。脳のみ高速化する異能を持ち、そのため大勢との感覚共有を実現。煙宿の創始者ポールの罠によって水蜜香の中毒者となった。煙宿への移住を宣言している。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー⑤霧海の繋ぎ手ー」』にて
・『アスター』→夜会卿ヴラドの統べる街。グレキランスよりも広く、発展している。金貨に代わる貨幣制度として、ドラクル紙幣が使用されている。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー④銀嶺膝下マグオートー」』にて
・『シャオグイ』→生息圏、風習、規模も不明な他種族である、オーガのひとり。千夜王国の主。『緋色の月』に所属しながら『灰銀の太陽』への協力を誓った。一時期シャルという偽名を使用し、有翼人をそそのかした。生命を犠牲にして力を得る丸薬を所持。武器として鉄扇を扱う。身体能力が並外れて高い。メフィスト(ヨハン)に執心している。かつて夜会卿に囚われていた頃、隣の牢屋にいたヨハンに恋をしたのがきっかけ。詳しくは『748.「千夜王国盛衰記」』『750.「夜闇に浮かぶ白い肌」』『886.「かつての囚われ人たち」』にて
・『二重歩行者』→ヨハンの得意とする分身の魔術。影に入り込んで移動することが可能。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて
・『欺瞞の鏡面』→対象の視界を欺く魔術。詳しくは『533.「欺瞞の鏡面」』にて
・『夜霧の庭園』→対象の領域を感知不可能な仮想空間にする魔術。術者の任意の対象のみ、領域内へ入れる。『毒食の魔女』の邸もこの魔術で隠匿されていた。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『ユグドラシル』→ラガニア地方に伝わる伝説上の大樹。また、大樹ユグドラシルを中心として広がる空想上の国を指す。その国では、あらゆる種が平穏に共生している。『幕間.「魔王の城~書斎~」』『862.「ユグドラシル」』参照
・『マヤ』→縫合伯爵ルドラの次女。雷の魔術師。ルドラの指示で夜会卿に捧げられたが、兄であるアビシェクのみが殺害され、彼女は生かされた。夜会卿への復讐のため人間側に寝返った。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー④銀嶺膝下マグオートー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー⑤霧海の繋ぎ手ー」』にて
・『サフィーロ』→蒼い鱗を持つ竜人。『純鱗』。次期族長候補と噂されている人物で、派閥を形成している。残酷な性格をしているが、頭も舌も回る。シンクレールと決闘し、勝利を収めている。クロエにより、血族であるベアトリスの指揮下での戦争参加を余儀なくされた。クロエに対し、ある程度心を開いていたが、彼女が感情を喪失したことにより関係が破綻。詳しくは『第三章 第四話「西方霊山~①竜の審判~」』『第四章 第二話「幻の森」』にて
・『ベアトリス』→ラガニアの地下都市ヘイズの長であり、バーンズの子孫。黒の血族で、ラガニアの男爵。誠実な男。祖先の恨みを晴らすべく、夜会卿への宣戦布告を目論んでいる。鎧をかたどった貴品『虚喰』により、無形の靄を自在に操ることが可能。ただし、力を使えば使うほど鎧の内部は空洞化する。戦争にて竜人と組んで人間側につくことを誓った。同じく戦争に参加したイアゼル侯爵の異父兄弟。詳しくは『第四章 第一話「祈りの系譜」』『第四章 第三話「永遠の夜ー④銀嶺膝下マグオートー」』にて
・『虚喰』→無形の靄を自在に操る『貴品』。鎧と剣とでセットになっており、能力を使えば使うほど、鎧内の使用者の肉体を空洞化させるデメリットがある。詳しくは『926.「系譜は虚ろに終わりゆく」』にて
・『落日の雫』→魔術を溶かす火の雨を降らせる魔術。ヨハンが独自に編み出した。詳しくは『369.「落日の雫」』にて
・『バルクハルト』→黒の血族。戦争において夜会卿の本隊に所属。全軍で唯一軍馬を用いる容貌魁偉な猛将。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー⑤霧海の繋ぎ手ー」』にて
・『強制転移箱』→対象をあらかじめ指定した場所まで転送する魔道具。戦争において夜会卿の各部隊長がひとつずつ所有している。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて




