Side Johann.「カウントダウン」
※ヨハン視点の三人称です。
『やあ、メフィスト。顔色が悪いね。ちゃんと食事は摂ってるかい? よく眠れてる? 無視はしないでくれよ。冷たいなぁ……。ああ、これかい? なんだと思う? 別に隠すことじゃないから、覆いを取ろう。じゃーん! 面白いだろう? 目も口もご覧の通り縫われてる。鼻の穴もしっかり接合済みさ。手足がないから動けない。そもそも動く必要がないのさ。なんでこんなことを、って顔だね。もっともな疑問だ。これは俺がやったことじゃないよ。ヴラド様が誰かに命じて作らせた作品さ。生きているのは脳だけ。しかも自我さえ極度に薄くなってるときた。その名も脳兵。なんのために、って? 知らないよ。キミが知るべきことじゃないしね。今日の拷問は、脳兵との感覚共有。楽しみだろう? アハハ』
エールの拷問は大概悲惨なものだったが、ヨハンの精神に打撃を与えたのは脳兵だろう。生きてはいるが、死んでいるのと同義。命を奪われない契約を取り結んでいるヨハンにとって、自分が脳兵にされる懸念は大いにあった。生存していれば契約違反にはならない。そんなこちらの思いをすべて読んだうえで、お前も将来こうなるぞ、と脅しているように感じたものだ。ある意味、蟲よりもひどい拷問だった。
煙幕のなか、立ち上がると目眩がした。頭を蹴られれば朦朧とする。ごく自然な反応だろう。
「メフィスト。俺が今どんな気分か分かるか? 愉しくて仕方ない。テメーを拷問にかけた日々を思い出すなぁ。テメーが解放されてから何度か拷問をやったが、大して面白くなかった。テメーが一番愉快だったのさ。ヴラド様を出し抜いた気でいやがるテメーを死なない程度に痛めつける毎日は俺の癒やしだった。テメーは賢い。でも俺よりは賢くない。そんなテメーの目から光が失われていくのを眺めるのは快感だったよ。テメーが今日ここに来てくれて、俺は心が踊った。またあの日々を再開出来る。テメーは絶対に逃がさない。もう一度アスターの監獄にぶち込んで、面白おかしい毎日を過ごそうじゃないか」
充分過ぎるほどエールの悪質さは理解している。今まで出会った者のなかでも五本の指に入るくらいの邪悪な心性。
だが、ここは監獄ではない。一方的に嬲られるしかない状況とは違うのだ。
リスクを冒してでもヴラドのもとへ向かった理由の二点目が、こいつを討つことにある。必ずヴラドのそばにいると確信していた。場が混乱に陥り、自分ひとり逃げようとすればこいつが追ってくることも予測出来た。それでもなお、ヴラドに擬態した交信をエールに送ったのは、念のためである。エールが心変わりしており、ヴラドの忠実な下僕になっていないか確かめておきたかったのだ。
結論、こいつはなにも変わっていない。ヴラドに許される範疇で快楽を貪っている。
好都合だ。
ヨハンが煙幕のなかでエールの方角に手をかざす。まるで示し合わせたかのように、相手も同じ動きを取った。
この場でもっとも単純な暴力とはなにか、双方理解していたのだ。
――疑似餌。
施した相手を魔物の餌にする魔術。ヨハンはエールにそれを行使し、エールもまたヨハンに同じ魔術をかけた。
目眩を感じる。足元が不確かになる。疑似餌をかけられた者に特有の症状だ。キマイラはまっすぐ二人のいる場所へと駆け――。
「くっ!」
ヨハンはすんでのところでキマイラの爪を躱し、魔物の腹の下へと潜り込んだ。
エールに施された疑似餌を解除するまで、約二秒。ヨハンにはそれだけの時間が必要だった。エールが標的にならなかった以上、奴はもっと早く解除したに違いない。
不意にエールの姿が煙幕の先に現れた。放たれた蹴りを、仰け反るようにして避ける。その間、ヨハンは決してエールの両の目から視線を離さなかった。
蹴りを外したエールが、一歩踏み込んで拳を振るう。下腹を突き上げる動きだった。回避は可能だが、それを選ばなかったのは思惑あってのことである。エールがまばたきをしたのだ。
刹那、ヨハンは回避に使うだけの時間的余裕を魔術の行使に割いた。
欺瞞の鏡面。対象の視界を欺く魔術。唯一の欠点は、施した相手に一瞬の暗闇が訪れること。まばたきのさなかに施せば欠点は消える。
下腹部を突き上げる痛みと衝撃で、ヨハンの身は軽々と吹き飛んだ。キマイラの腹を脱し、地面を転がる。視界が撹拌されて吐き気を催したが、なんら後悔はない。
エールはキマイラの真下で、悠々と身を翻しては虚空に殴打を見舞っている。欺かれた視界のなかで、彼は架空の存在と戦っているのだ。幻想のヨハンを相手に踊っている。
欺瞞の鏡面の看破方法として、魔力察知が挙げられる。幻覚の相手に魔力がなければ見抜かれるのは必定。ゆえにヨハンは、エールの見ている幻覚と寸分違わぬ動きの魔力を練り上げ、実体の魔力は巧妙に隠蔽した。
「なんだ? メフィスト。テメーも武闘派なのか? そんな棒切れみたいな身体して、結構動けるじゃないか」
キマイラが後退し、エールと幻想のヨハンとに襲いかかる。当然ながらエールも、幻想のヨハンも回避した。三つ巴の戦闘と言えなくもないが、実際はエールの孤独な演舞に過ぎない。
現実のヨハンは痛む身体に鞭打って、一歩ずつエールへと歩んだ。
あと少し。ほんの少しでこいつは狩れる。
ヨハンの手がエールの心臓の真裏に触れようとした刹那、ヨハンは四度目の打撃を胸部に受けた。視界が霞む。血が否応なしに口から溢れる。彼は地面で一度跳ね、地に伏した。
ひどく気怠い。こんな体力勝負は柄じゃないし、苦手だ。
「メフィスト。テメーは本当に面白いなぁ。俺の演技をちっとも見抜けやしねえ。欺瞞の鏡面が通用すると思ったんだな? 可愛い奴だ。いじめ甲斐がある。お察しの通り、俺は欺瞞の鏡面を会得しちゃいないから、解除は無理だ。ただし、知識だけはあるんでね、すぐに分かった。アスターの官吏はテメーが考えてるよりもずっと過酷な試験を経てる。とびきり優秀じゃなきゃ務まらない。身体能力、知識、交渉力……色んなものが他人より秀でてないと駄目なんだ。隠蔽した魔力ごとき簡単に見破れるくらいの力は必須条件。どこぞの悪質な魔術師の罠にかけられるヘマをしないように、しっかり人選され、教育を受けてる。テメーと違ってな」
ヨハンは、煙の先からゆっくりと表れ出るエールを伏せた姿勢のまま眺めていた。そして内心で刻む。
一。
二。
煙幕を張ってからずっと、狂いなく時間を刻み続けている。殴られ、蹴られ、意識が不明瞭になってさえ。
頭を踏みつけられてもなお、ヨハンはカウントをやめなかった。
「土の味は美味いかぁ? 良かったなぁ、メフィスト。テメーはまた監獄に戻れるぞ。で、俺のバラエティ豊かな拷問を受け続けるんだ。大丈夫。テメーは頑張り屋さんだ。きっと狂ったりしない。五体満足じゃいられないが、正気を保ってくれると信じてる。いつまでも俺の遊び相手になってくれよな。可愛い可愛い――」
三。
声が途切れる。
四。
カウントと同時に、エールの足首に触れる。今、奴の耳には鼓膜を破らんばかりの騒音が鳴っていることだろう。騒音魔術。この程度は突破されるだろうから、おまけに遅延領域も同時に施しておいた。
両方とも解除されるだろう。それでも一秒はかかる。
なぜこれまで蹴られ、殴られ、執拗に心臓を狙ったか。
こちらの仮死魔術を警戒させるためだ。ひとつの警戒は、他方への無警戒を生む。血を吐き、泥まみれになって、充分過ぎるほど演じなければならなかった。知略も体力もエール以下だと思わせなければ、きっと気付いて対処される。
足首に触れた瞬間、彼の姿は霞のごとく消え去った。
こちらの魔術の解除には、どんなに優秀だろうと一秒はかかる。その一秒が稼げればいい。
遥か北門の壁上でたったひとつ残った砲台。五秒間隔で律儀に光線を放射するその兵器は、転移魔術で現れた血族を塵も残さず消す。
ヨハンは立ち上がり、伸びをした。
これでエールは死んだ。が、まだ仕事は半分残っている。
ヨハンは迫るキマイラに鞄から出したナイフを向けつつ、己の半身――二重歩行者に意識を集中した。遥か上空に存在する蝙蝠を忘れることなく。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『メフィスト』→ニコルと魔王に協力していた存在。ヨハンの本名。現在はクロエと契約し、魔王討伐に協力している。初出は『幕間.「魔王の城~尖塔~」』
・『夜会卿ヴラド』→黒の血族の公爵。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『毒色原野』を越えた先に彼の直轄地アスターが存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。不死の力を持つ。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』『927.「死に嫌われている」』にて
・『脳兵』→夜会卿ヴラドの私兵。意識を持たず身体を動かすことも出来ず、しかし脳だけは生きている状態に改造された血族。ヴラドの使役する蝙蝠の魔物の得た情報を処理するためだけの存在。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『アスター』→夜会卿ヴラドの統べる街。グレキランスよりも広く、発展している。金貨に代わる貨幣制度として、ドラクル紙幣が使用されている。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー④銀嶺膝下マグオートー」』にて
・『疑似餌』→魔物の持つ魔力誘引特性を利用した魔物引き寄せの魔術。対象の身体に魔力を注ぎ込むので、対象者が引き寄せの力を持つ。詳しくは『83.「疑似餌」』にて
・『欺瞞の鏡面』→対象の視界を欺く魔術。詳しくは『533.「欺瞞の鏡面」』にて
・『キマイラ』→顔は獅子、胴は山羊、尻尾は蛇に似た大型魔物。獰猛で俊敏。詳しくは『100.「吶喊湿原の魔物」』『114.「湿原の主は血を好む」』にて
・『騒音魔術』→対象の頭に騒音を鳴らす魔術。詳しくは『Side Alice.「狂気と音のアリス」』にて
・『遅延領域』→遅延魔術の正式名称。生物ないし魔術に対してのみ有効。有効範囲は狭く、同時に複数回の使用は出来ない。詳しくは『530.「ひとり五十発」』にて
・『仮死魔術』→一時的に心臓を止めて死を偽装する魔術。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー⑤霧海の繋ぎ手ー」』にて
・『転移魔術』→物体を一定距離、移動させる魔術。術者の能力によって距離や精度は変化するものの、おおむね数メートルから数百メートル程度。人間を移動させるのは困難だが、不可能ではない。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『二重歩行者』→ヨハンの得意とする分身の魔術。影に入り込んで移動することが可能。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて




