Side Shiki.「弱く強い者たち」
※シキ視点の三人称です。
シキは起きた事柄をなにひとつ見落とさず、それでいてなにものも意識の裡に入らなかった。
目の前でこちらを庇うように背を丸めたザレハドラ。彼の肩から胸にかけて斬り裂いたレイピアは、今も食い込んだままである。そして乾坤一擲の一撃を放った男は、体力の限界を迎えたのか、地に伏していた。しかし死んではいない。新たに失った右前腕から血を流し続けながら、なおこちらを睨んでいる。射るように。
シキはザレハドラの行為について、なんら怒りを覚えていなかった。脱力感が総身を支配している。そのような状態に陥った理由はひとつであり、シキも自覚していた。
敗北と死。
もしザレハドラが割って入らなければ、必ずや訪れた顛末である。
自分が戦っていた男は紛れもなく弱者だ。敵と呼ぶのも憚られる程度の。
だがしかし、当のその男に殺されたのだ。彼が武器を咥えて刹那の迷いもなく振るった刃は、この首を飛ばしただろう。
なにが間違っていたのか、おぼろげながら理解している。シキは戦闘において、基本的に真っ向勝負を己に課していた。もし制約を破るときが来るとしたら、遥か高みにいる強者との死合のみ。だが、弱者である男との死合において、戦場にいる別の者に意識を向け、その者と死合うのを望むあまり、己の芯である戦闘様式を離れてしまった。武の神は心逸りを見逃さない。小手先には代償が伴うと口にしたのは、ほかならぬ自分である。
奇なることに、こうしてまだ生きているのも、もうひとりの弱者――ザレハドラのもたらした結果だ。
道理に合わない。
「シキよ。貴君を失うわけにはいかん」
真っ黒な血を流して苦悶する主君を見据え、シキは返すべき言葉がなかった。
なぜこの臆病者が、身を盾にしてまで臣下を守ったのだ。傷も痛みも厭うていたのに、なぜ咄嗟の勇を発揮したのか。
いくつもの問いが胸中でわだかまり、行き場を失って喉を圧迫していた。
感謝はない。死すべき定めにあったのだから。武の神が失態を赦し、命を繋いだとでもいうのか。それは自分の仕える武とはあまりに反した在り方だ。武は煌々と輝く、冷徹で一貫した静かなるものである。
人間の兵士の幾人かが、咆哮を上げて駆けるのを見た。めいめいに得物を携えて。彼らにとって頭領格の男が倒れたのだ。逃げるか戦うか、身の振り方はふたつにひとつ。これまでのように傍観に徹していられる時間が過ぎ去ったのである。
殺さねば。そう思って踏み出したが、ストンと膝を突いてしまった。身体に力が入らない。
これは、きっと罰だ。武に反した己が、どうしてもう一度武に仕えられよう。目の前が暗くなる。目は開いているのだが、なにも視えない。
そうした意識の暗闇を裂いたのは、今度もザレハドラだった。彼は今、こちらに背を向けて人間に相対している。飾りでしかなかった大剣を手にして。だが、その武器を振るおうとはしなかった。ザレハドラは大地に突き立てたのである。
「人間に告ぐ! 我々は今このときをもって敗北を認める! 以後、我が軍は一切手出しをせん!」
見た目だけは威のある巨漢がザレハドラだ。レイピアを身体に突き刺したまま声を轟かすさまは、その肉体に相応しいものだったろう。
人間たちが足を止め、顔を見合わす。困惑と疑義が顔に表れていた。騙そうとしているのかもしれないと疑うのは至極当然である。ただ、そのような疑念を払拭するだけの威容が、今のザレハドラには備わっているように感じられた。甚だ不思議なことだが。
「異論ないようだな。よし。これで我が軍は貴殿らの敵ではない。ならば、早くそこの男を手当てせよ。血を失い過ぎている」
早合点だ。なにも終わってなどいない。そのはずだが、後方に控える同胞は異を唱えず、依然として魔物の後ろに待機している。人間もまた、ザレハドラの言葉に逆らって刃を向けることはなく、不器用な止血をはじめていた。
シキは、間違っている、と心のうちで独白する。途方もなく間違っている。どちらかが潰えるまで戦うのが死合ではないか。
だが、どうにも口を開く気にさえなれなかった。それを言う資格はないと強烈に感じていたのである。武に仕える者にこそ、その主張は正当性を帯びるのだ。自らの過ちにより、武という主君から絶縁状を叩きつけられた自分は、もはや死合云々など語り得ない。武以外のなにものも夾雑物と見做して捨て去った男は、どんな言葉であれ発する資格がないだろう。
シキはこの瞬間、己の人生が無音で散じる感覚を得た。
失うとは、こういうことか。あのとき死ねたのなら、奇怪な虚無感などなかった。恨めしいはずだが、恨む気も起きないとは。
心に生じた巨大な空洞に響いたのは、亡き父の声である。
――弱き者の強さを、いつか知る日が来るだろう。猛者と死合う以上に、お前の導きとなる。
視線は自然とザレハドラを捉えた。それから慌ただしく立ち働く人間たちへと移り、自分を殺すはずだった男へと固定される。
ここにいるのは弱き者たちだ。一秒もかからず始末出来る弱者ばかり。例の男も、最初の幻想ではそうだった。
「君は――」
なかば無意識に口が開く。倒れ伏し、手当てを受ける男と眼差しが交わる。
「人間は弱い。弱いが、強い。なぜだ」
シキの問いに答えたのは、倒れた男だった。幻想のなかでおよそ百回は死に、それでもなお立ちはだかり、実質的に勝利した男。
「信義があるからだ……。守るべきものを背負っているからだ……」
信義であれ正義であれ道義であれ、シキは知らない。義。これまで捨ててきた多くのもののひとつである。とうに忘れ去ってしまった。
「シキよ」肩に触れるのはザレハドラの大きい手だ。片膝を突き、視線を合わせるその顔は豪胆で、声もまた堂々たるもの。つまりは普段のザレハドラだが、このときばかりは、彼の心に巣食う臆病の虫をなんら意識させなかった。この場にいる誰にも。「貴君は守るべきものを見つけるといい。長い人生だ。見つかるまでの間は、俺の側近として立ち続けよ。俺がいる限り、貴君が折れることは決してない」
武の占めていたであろう膨大な空間を埋めるには足りないかもしれないが、シキはこのとき確かに、ザレハドラの存在を心中に置いた。そして、例の男の言葉も。
守るべきもの。信義。なるほど、後者はともかくとして、ザレハドラが勇を奮えた理由は得心がいく。彼は守るために自身を鼓舞し、そして実際に臣下の死を払ったのだ。それを強さと呼んでも違和感はない。
シキはザレハドラに黙礼し、例の男に顔を向けた。
「最後に君の名を教えてくれ」
「ジャックだ……」
「覚えておく」
「もうひとつ、覚えておいてほしいことがある……。もしクロエという女性に会ったら、助けになってやってくれ……。お前の信義に背かない限りでいい……」
シキは頷き、身に刺さった武器を抜いて返却したザレハドラとともに、魔物の背後へと去っていった。率いていた魔物は無論のこと、部隊の血族もひとりとして無駄口を利かず随伴する。
やがて、以前までザレハドラ軍が隊伍を組んでいた場所までやってくると、大将はどっしりと腰を下ろした。
「さて、俺たちはとりあえずここで待機する。人間が迫れば後退するが、戦場を離脱せぬよう心得よ。ウハハ! 戦場に居さえすれば夜会卿も苦言を呈すまい!」
明らかに空元気だ。言葉に理もない。戦わない者を兵士とは呼ばないだろう。
シキは彼の隣に真っ直ぐ立ち、上空を眺める。大量の蝙蝠に覆われた空を。
「……ザレハドラ様。今さらですが、敗北を認めるとまで宣言したのは性急では」
当然の疑問として聞いたつもりだったが、ザレハドラはひどくばつの悪そうな顔をし、シキを手招いた。耳を寄せるように。大人しく膝を突くと、ほとんど消え入りかねない囁きが届いた。
「貴君はあのとき、もはや戦えなかったろう? 俺も――俺の知人に同じ状態に陥った者がいてな、それを思い出したのだ。あのまま全軍で特攻をかけるのは愚策というもの。それに、貴君なしでは泥仕合だ。……シキよ。それより、臣下の勤めを果たすがいい。具体的には、そう、喩えばだな、主君が傷を負えば救護するものではないか?」
どうやら、とシキは思う。
どうやら、しばらくはこの弱き猛将を守るために自分は戦えるだろう。誰が相手であろうとも。これほど清々しい気分になったのは、もしかするとはじめてかもしれない。
「シキ。貴君もそんな顔をするのだな。無表情よりずっといい」
自分がどんな表情をしているのか分からなかったが、主君が言うのだ、そう悪いものではあるまい。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『シキ』→黒の血族で、ザレハドラ男爵の側近。ザレハドラの貴品の実質的な所有者。線が細く、小柄で眼鏡をかけた男。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー⑤霧海の繋ぎ手ー」』にて
・『ザレハドラ男爵』→黒の血族で、ラガニアの男爵。豪放磊落な態度と大柄な見た目に反して小心な男。側近のシキに貴品を与え、自分の代わりに戦ってくれるよう懇願した。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー⑤霧海の繋ぎ手ー」』にて
・『ジャック』→『タソガレ盗賊団』元リーダー。ハルキゲニアでは帽子屋を名乗り、騎士団長をしていたレイピア使い。魔力察知能力に長けている。現在は『タソガレ盗賊団』に復帰して副団長を任されている。詳しくは『137.「帽子屋の奇術帽」』『152.「今日もクロエさんは器用~肖像の追憶~」』『48.「ウォルター≒ジャック」』『幕間.「Side Jack~正義の在り処~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『夜会卿ヴラド』→黒の血族の公爵。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『毒色原野』を越えた先に彼の直轄地アスターが存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。不死の力を持つ。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』『927.「死に嫌われている」』にて




