Side Shiki.「二片のガラス板」
※シキ視点の三人称です。
底冷えのする板張りの稽古場でひとしきり竹刀を打ったのち、端座して深々と礼をする。稽古の終わりは常にそのようにして、儀式めいた様式で区切られた。父であり師である老武芸者に、父が亡くなってからは誰もいない虚空に礼を送る。誰もいないはずなのだが、いつも、なにかが在るように感じた。武の化身であろうか。武の神であろうか。定かならぬ。
早朝の稽古を終えて稽古場に隣接する小さな平屋で何時間か眠り、ザレハドラの側仕えの仕事に赴く。夜になれば魔物の退治。小規模な村ゆえ、そうそう強力な魔物は出ない。量も大したことはない。それでもシキが夜間防衛に参加するまでは数名の死者はあったらしい。
『お前に教えられることはもうない』
生前の父の言葉をときおり思い出す。十歳を迎える頃のことだ。剣を極めたとされている父にそう言われたのが、どうにも辛かった。認められた喜びはいささかもなく、道が途絶えたように感じたのである。シキは武芸者として育てられ、武人であることが彼のすべてだった。村の学び舎で施される教育は別段興味を惹かず、父の語る兵法の数々のほうがよほど聞き応えがあった。当今は用いられない古の兵法であっても。
『お前はこれからザレハドラ卿を主君とせよ』
これも父からの命である。ひどく不思議に感じたものだ。村の長であり領主であるザレハドラとは、以前に手合わせをしたことがある。面子を潰さないよう工夫して負けるのはなかなか難事であった。そしてまた、終わってから冒涜的な不快感を覚えたのも記憶にこびりついて離れない。武の神がいるのなら、わざと負けた自分から目を逸らす気がしたのだ。以来ずっと、神の目はこちらを向いていないように思っている。関心の一切が向けられていない。当然、祝福も訪れまい。
個人的な願いとしては、この寒村を離れて別の町へ行き、そこで師範を見つけたかった。だが父は許しを与えなかったのである。ザレハドラと密約でも結んでいるのかと疑ったが、父の真剣な顔を見るにつけ、そうではないと悟った。
『しかし、ザレハドラ様に仕えても私は高みに至らないでしょう。強き者と打ち合う機会がなければ、私は永遠に今のままだという気がします』
シキの反論に対し、父は沈黙した。それこそ時間の感覚が失せるくらいには。返事を考えあぐねていた様子はない。日頃から厳しく、何事も見逃さず、一見すると飛躍した思考にも筋が通っている男である。このときも父は、不動でシキを見据えていた。
『シキ。いつか、弱き者の強さを知る日が来るだろう。猛者と死合う以上に、お前の導きとなる』
父の言う『いつか』が訪れる日を待ったのだが、ザレハドラの側仕えをする日々にそのような機会は一度もなく、やがて父は老衰で亡くなった。父のほかにシキの家族はない。もとより独り身だった父が、捨て子であるシキを拾って育てたのだと聞いている。
父の死後、稽古場と隣家を引き継いで、ずっとそこで暮らした。ときどき父の知人を名乗る者が現れて稽古場で手合わせをする機会もあったが、父にはおよばぬ。すなわちシキの相手ではない。相手が未知の剣技を使ったとて、後れを取らなかった。小手先は弱い者のすることだ。己には不要な夾雑物であり、武の道をおのずから穢しているようでもある。そのような手合いは容赦なく叩き潰した。だからだろう、シキの継いだ道場に足を向ける者は日に日に少なくなっていった。
ところで、ザレハドラである。豪快を装っている大男が、びっくりするほど弱いのはすでに知っていた。ただ、心まで弱いと察したのはしばらくしてからである。言葉はいかにも豪胆だ。しかし実が伴っていないものだから、嫌でも見抜いてしまう。威のある容貌と磊落な言葉で鎧うた小さき心を。
この男が導きになると父は言ったが、不満と疑問は常にあった。ザレハドラから得るものなどなにひとつないように感じていたのである。せいぜい、給金くらいか。
『貴君の実力を買い、俺の宝剣を預けよう。この武器は貴君に相応しい。雄々しく戦うのだ』
人間――ニコルがラガニアに入り、アスターを踏破した噂が広まった頃、シキはザレハドラから『死随剣』を譲り受けた。当人の実力を反映した、死闘の幻想を与える剣。この村が襲撃される可能性を憂いたのだろう、ザレハドラは対人でのみ効力を発揮する得物をシキに託したのである。その言葉と行為から、代わりに戦ってくれという懇願を汲み取るのは容易い。
ザレハドラの危惧は杞憂に終わった。それも当然で、アスターと首都ラガニアを結ぶ直線上にこの村は位置していない。首都ラガニアの先、それも遠く離れた僻地なのだから、ニコルが迂路を選ぶとしても村が襲われる危険性は限りなく低かった。
憂いが去り、シキが貴品の返却を申し出てもザレハドラは首を横に振るばかり。
『一度預けた品だ。雑に扱われるのは困るが、貴君の武器とするがいい。そしてなにより、シキよ、貴君は俺の右腕だ。有事に際しては勇を奮うがいい』
これもまた、ザレハドラと二人きりのタイミングで言われた内容だ。よほど戦いを恐れているらしい。そんな彼が戦争参加を肯ったのは奇妙だが、ほかの貴族が参加する手前、言葉と身体だけは豪胆なザレハドラは断れなかったのだろう。
参戦が決まった日はシキにとって思い出深い。首都ラガニアからの使者として単身で訪れた人間の少女――シフォンは異様だった。普段ならば一目見るだけで相手の力量を計れるのだが、シフォンに限ってはなにひとつ見抜けなかったのである。一見すると隙だらけだ。視線の動きも、何事にも関心なさげである。歩みにも武芸者じみたところはなく、肉付きも鍛錬を経た者のそれではない。にもかかわらず、シフォンは決して弱者ではないと直観が訴えていた。
参戦要請を淡々と告げる場に居合わせたシキが、幻想の手合わせを要求したのはごく自然な成り行きである。ザレハドラがなにか言う前に、シキが申し出たのだ。
果たして、幻想は一秒も経たず終わりを迎えた。『死随剣』を下賜されて以降、手合わせした相手はひとりの例外もなく一秒程度で死んだのを告白し、稽古場から逃げ出したものだ。それゆえ短期での決着はこちらの勝利を意味しているはずだったが、どうも相手の反応が芳しくない。シフォンは何事もなかったかのように、ザレハドラへ参戦の意志を問うたのである。
よもや自分が殺されたのではないか、と感じたのはシフォンが去ってからだ。手合わせの結果を聞くのは無粋であるとザレハドラが釘を刺し、さっさと参戦を決定してシフォンを追い返してしまわなければ、実際に剣を交える機会が生まれたかもしれない。それを思うと残念ではあったが、過ぎ去った物事に頓着しないのはシキの美点である。
『俺の父は偉大な男だった』
参戦が決まった日の晩、シキは夜間防衛から返るや否やザレハドラの邸に招かれ、酒臭い一室で赤ら顔の主と顔を突き合わす運びとなった。どうやら一晩中呑んでいたらしく、泥酔している。呂律も怪しかった。
『父は貴君の師と肩を並べる強さだったと聞いている。死随剣に見合う男だった。決して殺さず、死合の結果だけを与える剣に相応しい。死随剣は殺す剣ではない。活かす剣だ。肉ではなく心を斬る』
活かすと聞いてもシキにはピンと来なかった。架空の戦闘で殺すのだから、心を斬るという言葉に異論はない。ただ、これまで稽古場に訪れた、腕に覚えのある者たちはいずれも死の影に恐怖して逃走した。それからは村内で見かけても顔を背けるばかり。彼らを指して活かしたなどとどうして言えよう。
ただ、これはシキが事後の対処になんら顧慮していなかった点に由来する。立場の上でも性格の上でも、活かす剣に見合っていなかった。ザレハドラの父は幻想の死合を通過した者に労いや安心を与え、精進するよう必ず伝えたのである。確かな実力を有する領主と、たとえ幻想のなかであれ刃を交えるのは幸福だ。その後に贈られる望外の激励は、死のショックから立ち直らせるには余りあるものだろう。
『俺は父の外面だけを授かった。貴君も知っての通り、俺は――いや、言うまい。俺は領主としての父を尊敬している。ゆえに、父が健在ならばどうするかを己に問い、答えの導くままに行動した。これからもそうするだろう。シキよ。貴君の目に、俺が滑稽に映るか?』
『いいえ』
『ならばどう映る』
『私はなにも感じません。武にまつわる事柄以外、なにも関心がないのですから』
『ああ、そうだったな。貴君はそういう男だ。頼もしい限り。しかし、危うい。そして物悲しい。こう言うと貴君は気分を害するかもしれんが、俺と貴君はある意味で似ているのだ。二片の割れたガラス板のように、単身では歪なものの、重ねればぴたりと合う』
シキはザレハドラの言葉を酔漢の妄言として聞き流した。
グレキランスの地に到達し、北門の襲撃に直面して、シキは多少の期待を覚えていた。幻想の死を与えても意気を失わぬ兵士を快く思ったものだが、結果は落胆に値する。根性だけの阿呆だった。そして幾人かの兵士は、幻想の死で戦意を喪失したのである。
ひとりだけ。
レイピア使いだけは死を味わっても無益な突撃は仕掛けず、かといって死の恐怖に侵されるでもなく、『もう一度』と求めたのだ。死を重ねるなかで成長しようとする存在に出会ったのははじめてである。見るからに弱者だが、これまで『死随剣』を使った相手のなかでは格段にマシと言えた。それでも、敵軍中陣に感じる猛者の気配には遠くおよばない。ともあれ、幻想を経由して強くなっていく者を見るのは好ましかった。最初は一秒程度で死んだのに、五分も生き延びるようになったのは快挙だ。このまま延々と続けても良かったが、中陣に斬り込む欲求も抑えがたい。砲台のほとんどが壊滅した以上、そう時間を置かず魔物の進軍もはじまるはず。そうした理由から、一度きりの現実の戦闘へと踏み切った。大切に育てた作物の、最上の刈り入れ時。
ザレハドラの退却指示は侮蔑に等しい。彼が弄する言葉の数々も聞くに耐えない酷さだった。
ゆえに斬ったのである。あまりに卑小で、および腰な、保守的で、小心で、臆病で、尊大な、邪魔者を。
主君が斬られた事実は、魔物の背後に控える血族の目にも映ったろう。もちろん、最前のザレハドラの声も耳にしているはずだ。誰も救護の手を差し伸べないのは、シキを恐れてか、それともザレハドラの弱さに呆れたか、その両方か。シキとしてはどうでもよかった。
死を肥料に育った獲物を狩る。
狩りの邪魔をする者がいなければ、あとのことなどどうでもいい。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『シキ』→黒の血族で、ザレハドラ男爵の側近。ザレハドラの貴品の実質的な所有者。線が細く、小柄で眼鏡をかけた男。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー⑤霧海の繋ぎ手ー」』にて
・『ザレハドラ男爵』→黒の血族で、ラガニアの男爵。豪放磊落な態度と大柄な見た目に反して小心な男。側近のシキに貴品を与え、自分の代わりに戦ってくれるよう懇願した。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー⑤霧海の繋ぎ手ー」』にて
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者だが、実は魔王と手を組んでいる。黒の血族だけの世界を作り上げることが目的。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。詳しくは『875.「勇者の描く世界」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『アスター』→夜会卿ヴラドの統べる街。グレキランスよりも広く、発展している。金貨に代わる貨幣制度として、ドラクル紙幣が使用されている。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー④銀嶺膝下マグオートー」』にて
・『貴品』→血族たちの作り出した魔具。詳しくは『911.「貴品」』にて
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。戦争において簒奪卿の部隊に配属されたが裏切り、血族も人間も殺戮した。自分の感情も思考も持たず、ニコルに従っている。前線基地にてクロエに敗北し、彼女の命ずるまま、現在はシンクレールに従っている。風の魔術の籠もった貴品『シュトロム』を使用。実は騎士団長ゼールの養子。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』『幕間「或る少女の足跡」』『幕間「前線基地の明くる日に」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。また、グレキランス一帯の地方を指して用いられる。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて




