Side Black Rabbit.「擬態する少年」
※黒兎視点の三人称です。
試験開始が告げられると同時に、エイダは旋回するようにしてリヴァイアサンへと向かっていった。一方ラーミアはというと、黒兎へと一直線に向かってくる。
「さあ、遊びましょうね、坊や」
滑らかに進む上半身の先で、太い触手が靡く。彼女の下半身から想起するのは蛸だ。触手の外面は見るからに軟性の赤紫色の皮膚があり、生白い内側には吸盤が並んでいる。
黒兎は依然として硬直していた。背後に小型魔物が迫っているのは自覚している。連中を排除するくらい、周囲に散ったナイフを手元のナイフと同期させるだけで済む。ただ、そんなことをする気はなかった。
「どうしたの、坊や。このままじゃ魔物に襲われるわよ?」
黒兎は薄く口を開き、ガクガクと首を横に振った。
ラーミアは数メートル先で動きを止めている。ちょうど見上げる位置で、否が応にも気色の悪い下半身が視界に入ってしまう。
蛸をはじめて見たのはハルキゲニアに来てからだ。海峡に接するその街で収穫された奇態な海産物に、本能的な拒否感を覚えたものである。食べ物に見えない。ぶつ切りに調理されても、吸盤が化け物を思わせる。食感もぐにぐにしていて、気に入らなかった。
黒兎のうなじのあたりに、一匹のイビルフィッシュが到達しようとしている。口を開け、鋭い牙を剥いて。触手に動きがあったのはそのときだ。
末端付近でさえ丸太ほどのサイズ感の触手が、顔の横を通り過ぎ、背後のイビルフィッシュを払った。怯えを維持しながらぎこちなく振り返ると、触手に弾かれただけで怪魚が霧散していく様子が目に入る。
触手は黒兎を目指して泳ぐ魔物を次々と薙ぎ払っていった。
ラーミアを見返り、背後へと視線を移し、再び彼女を見上げた。ラーミアは口に薄笑いを浮かべている。いささか不満が滲んでいるのは、標的の少年があまりに無力だからだろう。別段猛者を求めているわけではなく、小型魔物ごときに血の一滴さえ分け与えるつもりがないのだ。そのあたりの事情はお見通しである。
だから動かなかった。否、自分の推測を確信に至らせるために必要な態度だったのである。
この女――魔物を女性と定義してもいいなら――は、こちらを食い物だと思ってる。雑魚に横取りされるのを許す性格じゃないことは、メルキュールとの話しぶりから察せられた。
視界に映るラーミアの遥か後方――メルキュールを挟んだ位置で、エイダがリヴァイアサン相手に拳を振るっているのが見えた。彼女が何度殴ってもその大型魔物は一向に動じず、胴で薙いだり、噛みつこうとしたりと反撃しているようだった。いずれの攻撃も彼女は身に受けていないようだが、ただでさえ動きのままならない水中で、しかもこれまでの戦闘の疲労もあるはず。遠からずエイダは決定的な一撃を受け、あっという間に命を散らしてしまうかもしれない。
誰かを助ける意識なんて、これまでの黒兎はほとんど抱いたことがなかった。気を失った姉をアリスから庇ったときくらいである。ハルキゲニアで夜間防衛を担うようになってからも、他者を守る気持ちはなくて、自分の腕を磨く意識が念頭にあった。
だから、自分がエイダの助けになろうとしているのを不思議に感じる。そこに不快感がないのも、自分の性格を顧みれば妙な話だ。
東門のリーダーを助けるために、まずは厄介な蛸を始末する必要がある。可及的速やかに。そのために必要な行動は頭のなかに揃っていた。
怯えを装ったまま、ラーミアへと不安定な泳ぎを進める。不意に彼女の目が鋭くなり、触手が背後に迫るのを感じたところで、口を開いた。
「オ、オネーサマ、ありがとう、ございます」
自分を捕まえようとしていた触手の動きが止まる。彼女の目が丸く見開かれた。
その隙にラーミアの上半身まで到達すると、彼女に抱きついた。
「僕を、守ってくれて、ありがとう」
いきなり抱きつかれたというのに、ラーミアは引き離す様子をみせない。やがて背を撫でた手指に、黒兎は安堵した。こいつは今きっと、顔いっぱいに恍惚を表してる。獲物が自ら飛び込んできて、しかも感謝を口にされたのだから、錯乱していると考えるのが当然だ。
いつでも、どのようにでも味わえる食い物。彼女にとっては望ましいはず。ただ、もっと望ましい存在もあるだろう。
「そうよ」とラーミアの声がする。いくらか優しさがブレンドされた丸っこい響きなのは、彼女の演技を裏付けていた。「私はあなたを守ってあげたの。だから安心なさい、坊や。それにしてもお姉様だなんて、ちょっと嬉しくなっちゃうわね」
「だって、すごく綺麗だから」
「それはおかしな話ね。坊やはお腹から下も見てるはずだけど。それでずっと怯えてたんでしょう?」
黒兎は身震いした。なにかされたわけではない。震えてみせただけのことである。そして現実から目を背けるように、彼女の肩に顔を強く押し付ける。
「オネーサマが、僕を食べようとしてるのは知ってる。オネーサマの言う通り、足の部分は、すごく、すごく恐い。でも僕は死ぬって分かってるから、だから、綺麗なオネーサマに食べられたくて……足は見たくない。意識したくない」
数秒の沈黙ののち、ラーミアの微かな笑いが届いた。満足そうな、けれど少し呆れている笑い。
「弱虫なのね、坊や。でもいいわ。私ね、じっくり味わって食べたいの。痛いの我慢出来るかしら?」
「我慢、する。綺麗なオネーサンの栄養になれるなら、僕はもう、それでいいから」
信じるに足らぬ嘘である。通常ならば。
黒兎は言葉を発している間ずっと、自分の言葉を理解していないような錯乱者の口調を演じていた。庇護者にしがみつき、意味内容を解さず声を発する者。極度の恐怖により乱れた精神では、正常な思考など不可能で、自然と言葉も意味不明なものとなる。
知恵ある魔物は、そうした人間の支離滅裂な状態を何度も目にしているだろう。このラーミアも例外ではない。黒兎は、哀れな被害者に擬態したのだ。
彼女にとってもっとも望ましいのは、自ら食われようとする者だ。すべて諦めて、己を捧げる子羊。たとえ錯乱していても、我が身を差し出した黒兎を理想的だと感じてもなんら違和感はない。
現に彼女は、慈しみを湛えた声でこう言った。そこに愉悦が漏出しているのは、涎のようなものだろう。
「なら、坊やをちゃんと味わって、しっかり養分にしてあげる。あなたの命は無駄にならないのよ。安心なさい。嗚呼、本当に美味しそう……。その前に、邪魔な魔物を蹴散らしておかないと。この子は私だけのものなんだから。ひと欠片だって渡さな――」
黒兎はサッと身を離し、右手のナイフを閃かせた。切っ先は彼女の喉を切り裂く軌道だったが、刃は空振りに終わる。反射的に彼女が首を反らしたのである。
ラーミアの目に嗤いが滲む。おおかた、騙し討ちを避けた自分を誇っているのだろう。
「残念――」
声は潰れて消え果てた。無数のナイフの群れが彼女の首から上を引き裂き、細切れの肉に変えたのである。
ラーミアに気取られぬようナイフ群を操作し、手元のナイフと同期させたのである。初撃が避けられるのは織り込み済みだ。もとより、喉を裂いた程度で殺せる魔物ではないのだから。
「残念なのはお前だよ、バケモノ」
大型魔物は霧散するまで時間がかかる。それを待つつもりはなかった。早くエイダのもとに向かわなければ。
泳ぎだした足が細指に掴まれ、肌が粟立った。
見下ろすと、ラーミアの手が自分の足を掴んでいる。そして首の根本から、ずるずると新たな頭部が生まれた。
「は?」
首を切られても死なない魔物なんて、聞いたことがない。
ラーミアは新鮮な首を左右に動かして骨を鳴らし、こちらへと視線を向けた。半月型に歪んだ目は、弱者を見るそれだ。
「残念だったわね、坊や。私、こういう身体なのよ。次はどこを切ってみるつもりかしら? どうせ無意味だけど」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『黒兎』→ハルキゲニアの元騎士。ナイフを複製する魔具『魔力写刀』の使い手。残忍な性格。本名はクラウス。『白兎』の双子の弟。詳しくは『127.「魔力写刀」』『Side Alice.「卑劣の街のアリス」』『第四章 第三話「永遠の夜ー⑤霧海の繋ぎ手ー」』にて
・『魔眼のエイダ』→騎士団ナンバー7の女性。シフォンのかつての友達で、右目を失明している。グローブ型の魔具を所持。詳しくは『幕間「或る少女の足跡」』『第四章 第三話「永遠の夜ー③赫灼の赤き竜ー」』にて
・『ラーミア』→半人半蛇の魔物。知能の高い種。『86.「魔力の奔流」』に登場
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『鳴禽卿メルキュール』→夜会卿の第二部隊長。黒の血族で、ラガニアの伯爵。スィーリーの領主だったが、簒奪卿シャンティの侵略により、やむなく夜会卿ヴラドの所有地で暮らしている。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。実は防御魔術のエキスパート。王都の歓楽街取締役のルカーニアと永続的な雇用関係を結んだ。ラガニア随一の魔術師ヘルメスに弟子入りし、影の魔術を会得。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』『Side Alice.「ならず者と負け戦」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー⑤霧海の繋ぎ手ー」』にて




