Side Black Rabbit.「水中宮殿の二体」
※黒兎視点の三人称です。
二次試験の終了前――戦闘が次のステージに上がってしまう前に、敵の大将メルキュールを始末する。最低限、水殿の王笏を奪って擬似的な水中を破壊する。
計画は破綻した。いや、そもそも不可能だったと考えるべきか。メルキュールの言が真実ならば、手を切り落として錫杖を奪うなんて戦略の成功率はゼロだったわけだ。
黒兎の胸中は徒労感に蝕まれていた。現に、彼はもう攻撃を停止している。ただ、騎士団ナンバー7の女性はその限りではない。
エイダの拳が大きく引かれ、虚空へ放たれた。突き出した腕はメルキュールの顔の上部を指している。しかし、破裂音が響き、敵の顔のあたりに水の揺らぎが生じただけで、メルキュールは平然としている。
「エイダさん。わたくしに二度同じ手は通用しませんよ。何度貴女の視界を共有いただいても、わたくしはわたくしの識る世界を見失いませんもの」
その言葉ではじめて黒兎は、エイダの右目に嵌まった魔具の効能と、メルキュールを忘我状態に出来た理由を悟ったのだが、通用しないのであれば意味はない。
エイダもさすがに無力を思い知ったのか、はたまた魔力と体力の温存ならびに作戦立案に思考を割きたいのか、それ以上の攻撃はしなかった。数メートル先のメルキュールを睨むのみである。
そういえば、と黒兎は思う。背後の魔物が動きを止めている。おそらくは声に依らない指示によって、魔物は獰猛な本能すら抑え込んでいるのだろう。この水中宮殿に君臨する女帝の忠実なしもべというわけだ。
今のうちに魔物だけでも倒すべきだと思って身を翻そうとしたが、途中で動きを止めた。それどころではなくなったのだ。
全身を突き刺すような、威圧的な感覚が身体を覆っている。悪寒が背を駆け、耳鳴りが激しい。
「それでは三次試験に移りましょう。兵士の皆さんは、これまで以上の数の魔物を相手にしていただきましょう」
後方で膨大な数の魔物の気配が現れる。だが、そんなものは些末に思えた。
黒兎の視線は、メルキュールの背後に出現した二体の魔物に注がれている。
片方の魔物は彼の知識にもあった。半人半蛇の魔物ラーミア。しかし、この個体は通常のそれとは異なっている。上半身こそ女性の裸体だが、下半身は何本もの巨大な触手が垂れていた。
そしてもう片方の魔物は未知の種だが、見覚えがある。砲台を破壊した奴だ。遠目には大蛇のように見えたのだが、そんな形容ではとても足りない。身体こそ蛇に似ているが、背にはヒレが走り、いかにも堅固な鱗に全身が鎧われている。胴は巨木ほどもあった。なによりおぞましいのは顔だ。金色の眼が威を放ち、大きく裂けた口は鋭利な歯列が幾重にも連なっている。手足や翼こそなかったが、ドラゴンと呼ぶほうがしっくりきた。
「お二人には」と言って、メルキュールは片手で背後の二体を示した。「こちらの魔物を相手にしていただきましょう。リヴァイアサンと、ラーミアの変異種です」
リヴァイアサン。聞いたことのない名だが、未知の種を指しているのは明らかだ。
紹介された二体の反応は対照的だった。リヴァイアサンは獰猛にこちらを睨み続け、ラーミアはというとうっとり頬に手を添える。人間そっくりの顔は美しく、ウェーブのかかった金髪も優雅だが、怪物じみた下半身はそれら一切を打ち消す凶暴さを露わにしていた。
「私、あの男の子がいいわ。いいでしょう? あなたに従ってあげてるんだもの、獲物を選ぶ権利くらいあるはずだわ」
なよやかな顔に似ず、ハスキーな声が水中に響いた。ラーミアのものである。
黒兎は自分が標的にされていることに身震いした。が、どちらの魔物が相手であれ脅威なのは変わりない。むしろ、会話可能な相手のほうが望ましいほどだ。
「かまいませんよ。お好きになさってください」とメルキュールはすげなく返し、話を戻す。「エイダさんと黒兎くんには、二体の魔物だけでなく、小型魔物もお相手していただきます。そうそう、今回わたくしは攻撃いたしませんので、その点はご安心ください。ちなみに時間制限はありません。これが最終試験ですもの。わたくしが試験終了を告げればそれでおしまいです」
逆に試験終了の宣言がなければ、魔物が自然消滅する朝まで続くわけだ。もっとも、長期戦になる可能性は限りなくゼロに近い。強力無比な魔物をいつまでも相手にしていられる体力なんてないのだから。
メルキュールの邪魔立てがないのは幸いだが、まやかしだと黒兎は思った。人間の勝利は彼女の撃破以外にありえないのだから。二体の大型魔物と対峙を余儀なくされても、本当の敵は常に見据えておく必要がある。彼女にとっては試験でも、自分たち人間にとっては決死の戦いなのだ。戦争なのだ。自分にとっては縁もゆかりもない王都グレキランスを守るための死闘なのだ。
メルキュールがいかなる理由で試験などという遊戯に耽っているのかは黒兎の知るところではない。おおかた、人間をナメているのだろうと推測していた。実際はまったく別の目的があるのだが。
不意に、ラーミアがメルキュールの横を通り抜けて黒兎へと迫った。敵は一メートル先で動きを止め、じっと彼を見つめる。彼女は長い舌で己の唇を舐めた。
「まだ試験開始を宣言していませんよ。お手付きは禁止です」
「お手付きなんてしないわよ。挨拶、大事でしょ? ご挨拶。はじめまして、坊や。あなた、とってもいいわ。私ね、子供のお肉が大好きなの。それも、太ってなくて、ちょうどいい筋肉がついてるくらいの子が一番。歯ごたえが素敵なのよね」
愉悦に歪んだ目を見つめ返し、黒兎は内心で罵倒を吐いた。お前みたいな化け物に食われてたまるか、と。
しかし、表面的にはなんの反応も示さずにいた。恐ろしさから硬直し、目を離すことさえ出来ない臆病な少年を装ったのである。
怪物を真正面から討ち取れるほど自分は強くない。積極的に認めたくはないが、事実だ。それゆえ知恵が要る。思考をめぐらせることで格上を打倒した経験はこれまで何度もしてきた。敗北を味わったのは二回だけ。クロエとアリス。
あのときの自分は負け知らずで、敗北を認めるのも許さないくらい傲慢だった。たぶん、勝ちすぎたんだと思う。だからこそ冷静さを欠いていた。最後にアリスから痛烈な攻撃を受けて、それから何週間後かにようやく得た反省だ。
相手が反応出来ずに固まっているのをひとしきり眺めてから、ラーミアはメルキュールの背後へと戻っていった。顔には満足げな悦びがある。もう頭のなかでは哀れな男の子を咀嚼するさまを想像しているのだろう。
「クソガキ」
いつの間にか隣にエイダがいたので、少し驚いてしまった。
「なに、オネーサン」
「お前が死んでもオレは哀しまない。どうでもいい。悔しかったら、生き延びてオレを煽ってみろ」
それを聞いて、思わず口元が緩んでしまった。
本当にこのひとは、他人を鼓舞するのが下手くそだ。
「望むところだよ」
こちらの返事を聞き、エイダはするすると泳いで距離を開けた。
生き延びる。なんて魅力的で、可能性の低い夢物語だろう。これからそれを現実にしなければならないのだから、溜め息が出そうだ。
やがて、メルキュールの声が凛と水中を伝播した。
「それでは、三次試験を開始します。ご健闘を」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『黒兎』→ハルキゲニアの元騎士。ナイフを複製する魔具『魔力写刀』の使い手。残忍な性格。本名はクラウス。『白兎』の双子の弟。詳しくは『127.「魔力写刀」』『Side Alice.「卑劣の街のアリス」』『第四章 第三話「永遠の夜ー⑤霧海の繋ぎ手ー」』にて
・『鳴禽卿メルキュール』→夜会卿の第二部隊長。黒の血族で、ラガニアの伯爵。スィーリーの領主だったが、簒奪卿シャンティの侵略により、やむなく夜会卿ヴラドの所有地で暮らしている。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『魔眼のエイダ』→騎士団ナンバー7の女性。シフォンのかつての友達で、右目を失明している。グローブ型の魔具を所持。詳しくは『幕間「或る少女の足跡」』『第四章 第三話「永遠の夜ー③赫灼の赤き竜ー」』にて
・『魔具』→魔術を施した武具のこと。体内の魔力が干渉するため魔術師は使用出来ないとされているが、ニコルは例外的に魔術と魔具の両方を使用出来る。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ラーミア』→半人半蛇の魔物。知能の高い種。『86.「魔力の奔流」』に登場
・『ドラゴン』→巨大な有鱗の魔物。滅多に出現しない。詳しくは『幕間「或る少女の足跡」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。また、グレキランス一帯の地方を指して用いられる。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。実は防御魔術のエキスパート。王都の歓楽街取締役のルカーニアと永続的な雇用関係を結んだ。ラガニア随一の魔術師ヘルメスに弟子入りし、影の魔術を会得。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』『Side Alice.「ならず者と負け戦」』『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』『第四章 第三話「永遠の夜ー⑤霧海の繋ぎ手ー」』にて




