Side Black Rabbit.「紫紺の眼で世界を」
※黒兎視点の三人称です。
手を取って導いてもらうのはいつぶりだろう。分かりきっているのに、そんなことを考えてしまう。モンクシュッドを抜け出したとき、姉に手を引かれて以来だ。
それにしても、と黒兎は思う。
エイダの泳ぎは速いし的確だ。
魔物の間を巧妙に擦り抜けてメルキュールを目指している。グローブで水を固めて方向や速度の制御をしているのだろうが、それを補って余りある動きだった。騎士は水泳が得意なのか、はたまたエイダがたまたま泳ぎに卓越しているのかは定かではない。
「クソガキ」
不意に手が引かれ、黒兎はエイダと並ぶような位置取りになった。耳元に届くのは冷えた囁きだ。相変わらず淡白な口調で、高揚など欠片も見出せない。しかしエイダはそういう人間なのだと、もう彼には分かっている。
「鬱陶しい囀りが消えてるのに気付いてるか?」
「そういえば……」
言われてようやく気が付いた。メルキュールが一定間隔で鳴らしていた音――反響定位が、二次試験に入ってから、すなわちこの水の空間が展開されてから一度も使われていないのだ。
「魔力でしか察知する必要がないってことか。あるいは水中だと使えないとか」
そう呟いた黒兎を、エイダは即座に否定した。
「違う。この水は奴が展開したものだ。内部の動きはすべて把握出来るとみていい」
反射的にムッとしたものの、妥当な話だ。声が問題なく発せられる以上、音の反響はある。したがって反響定位を扱うことは出来るわけだし、それをしない理由はひとつ。別の方法で一切を掌握しているわけだ。
エイダは淡々と続けた。
「あと五分で二次試験とやらが終わる。残り四分で――」
共有されたいくつかの短い言葉は、やはりというかなんというか、ろくに説明のない命令だった。そして彼女の命令に背く意思は、今の黒兎にない。
みるみるうちにメルキュールへと接近していく。双方の間を遮る魔物はいないが、エイダは相変わらずこちらの手を引きながら、蛇行しつつ進んでいる。今も視えざる弾丸が放たれていて、彼女がことごとく回避しているのだと理解出来た。
エイダの行為に無駄はない。これまでの戦闘から、そう思うに足る。
やがて二人はメルキュールの五メートルほど先の地面に到達した。
メルキュールの髪が水中で揺らめいている。彼女もまた地面に立ち、微笑んでいた。
「今度は直接わたくしに挑むつもりなのですね。結構です。お相手しましょう。でも」言葉を切り、メルキュールは二人の後方を片手で示した。「魔物のこともお忘れなきように。試験はまだ続いておりますから」
置き去りにした大量の魔物が迫ってきているのは知っている。そのあたりはすべて織り込み済みだ。
黒兎はメルキュールに背を向け、負傷した左手で持っているナイフを右手に持ち直すと、何度か八の字運動を繰り返した。複製されたナイフが何本も放たれては、推進力を失って水中で制止する。
右手の魔力写刀を引くと、それらは一斉に後退した。
これまで魔物を相手にしてきた通り、一本一本がちゃんと複製元の魔力写刀と同期している。
「黒兎くんが魔物と戦い、エイダさんがわたくしと戦うつもりなのですね」
メルキュールの言葉には微かな笑いが滲んでいる。今、エイダと黒兎はほとんど背中合わせになっていた。
エイダはもちろん、黒兎も返事などしなかったが、メルキュールの指摘通りだ。そしてそれはエイダの指示でもある。
やがて後ろで破裂音がいくつか弾けた。ちらと振り返ると、エイダが虚空に拳を振るっている。拳が放たれて間もなく、音が鳴っていた。
おそらく双方の不可視の攻撃がぶつかり合って、狂想曲が奏でられているのだろう。
後方に向き直ると、すでに魔物の一群が迫っていた。
自分の仕事をしなければ。
居並ぶナイフの目前まで魔物が迫った瞬間、黒兎は右手を突き出した。すると、無数の同期したナイフが一気に敵を串刺しにする。
それからは右に左にナイフの群れを操り、目まぐるしく敵を薙ぎ払う一方だった。一体も討ち漏らしていないものの、数が多いので油断出来ない。背後の音もどんどん激しさを増していて、否が応にも集中力が乱される。
それでも、黒兎は魔物討伐とは別の事柄も遺漏なく並行していた。
計測。
エイダが残り五分と口にしてから、四分間をきっちり計ること。なんとなく、では駄目だ。完璧に、隙なく四分。そのタイミングでエイダがメルキュールに仕掛けるのだから。そして自分は、敵の打破に必要なピースのひとつだ。
エイダが二次試験の残り時間を気にしている理由は容易に推測出来た。一次試験は陸での戦闘。二次試験は魔物を交えた水中戦。
試験を突破するごとに、明らかに状況が悪くなっていく。自分たちが――ひいては東門の人間すべてが勝利するためには、これ以上劣勢になるわけにはいかない。血族と魔物を率い、水中戦を強制しているのはメルキュールである。二次試験の間に彼女を討ち取るのが必達事項。陸上を水中化させている魔術さえ消えれば、水棲魔物は消えるだろう。水中戦に特化した血族たちの動きも鈍る。それでようやく、こちらの勝ち目が出てくるのだ。
四分ちょうどのタイミングで振り返り、エイダの横を通り抜けた。魔物はいまだに迫ってきているが、こちらに到達するまで多少の時間はかかるだろう。黒兎はエイダとメルキュールの両方を視界に収められる位置で動きを止めた。
「あら、黒兎くんどうしたのかしら。新しい作戦だったら、先生、とっても楽しみですわ」
エイダが右目を覆った黒の眼帯を取り去ると、ズボンのポケットにぞんざいに仕舞った。
彼女の右目を見て、黒兎は少々呆気に取られてしまった。
金色の瞳の紋様が描かれた、紫の目。明らかに義眼だが、それが魔具であることに、自分はこの瞬間まで気付かなかったのだ。
「メルキュール。お前に世界を視せてやるよ」
「それはどういう――」
メルキュールの微笑が消える。その身が明らかに弛緩する。
このときエイダがおこなったのは、言うまでもなく義眼の魔具の行使だった。
視覚の強要。
己の見ている景色を余すことなく相手の視界に上書きする力。義眼の魔具が有する能力のひとつである。
メルキュールはこれまでの人生で一度も視覚を用いたことがない。それはあらかじめ失われたものであり、欠けているのが前提の五感だった。ゆえに彼女は、自分を取り巻く世界の色も風合いも識らない。魔力察知や反響定位で補えるのは物体や魔力のかたちであり、時々刻々と変化する世界そのものを目にするのとはまったく異なった認知である。
要するにこの瞬間、メルキュールの目は強制的に開かれたのだ。瞼が閉じていてもそこには現実の景色が――エイダの見ている景色が映っている。茫漠とした夜の水中に、己の姿があった。
新たな感覚は、メルキュールの意識を奪い去るのに充分だったろう。張りめぐらせた魔力察知を束の間、忘れさせるくらいには。
黒兎は刹那の時間を捉え、ナイフで水中を切り裂いた。同期しているのは十数本だけ。それも、一箇所へまとまって振り下ろされた。
錫杖――水殿の王笏を持つ、メルキュールの右手の切断。それが彼の仕事である。
忘我状態になったとしても、メルキュールを殺すのは叶わない。致命的な攻撃を受ければ、いかなる状態といえども防御に移行するはずだ。一撃で死を与えられるならまだしもだが、黒兎のナイフも、エイダの拳も、そこまで強固ではない。
ゆえに、メルキュールを猛者たらしめている根源を奪取するのが最適解。錫杖さえ奪ってしまえば、彼女はただの血族でしかなくなる。それも、魔術師ですらない存在に。
同期したナイフがメルキュールの右手の数センチ先に迫ったときも、刃先が触れた瞬間も、彼女はぽかんと口を開けていた。黒兎が一連の攻撃を終えてからもだ。
ナイフは確かに彼女の肌を切り裂いた。が、ほんの少し切っただけで、水流で弾き飛ばされたのである。それでもメルキュールが忘我状態にあるのを見て、黒兎は愕然としつつも次の攻撃を仕掛けた。何度も何度も右手にナイフを繰り出す。しかし結果は同じ。
痺れを切らして錫杖を直接奪おうと動いたものの、水流で押し戻された。
エイダもまた、援護のためか拳を振るったが、彼女の身には到達しない。
「エイダさん」
メルキュールはぽつりと言う。
「ありがとうございます。貴女の目には、いえ、ほかのすべてのひとの目には、世界はこのように映っているのですね。とても豊かで、ずっと浸っていたいものですが、わたくしはわたくしの知る世界に戻りましょう。……黒兎くんも、よく頑張りました。わたくしの腕を切れば、確かに水殿の王笏の効力は失われます。ですが、無理なのですよ。いささか卑怯に聞こえるかもしれませんが、二次試験を開始した時点で、わたくしは身体に魔術を施しております。傷を受けた際には水流で弾くように」
落ち込まないでくださいね。
メルキュールはそう言って、困ったように微笑んだ。そして二次試験の終了を告げたのである。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『黒兎』→ハルキゲニアの元騎士。ナイフを複製する魔具『魔力写刀』の使い手。残忍な性格。本名はクラウス。『白兎』の双子の弟。詳しくは『127.「魔力写刀」』『Side Alice.「卑劣の街のアリス」』『第四章 第三話「永遠の夜ー⑤霧海の繋ぎ手ー」』にて
・『モンクシュッド』→『最果て』の街。『黒兎』と『白兎』の故郷。子は親の所有物であり、引き換え可能な物としての価値観が根付いている。詳しくは『Side Alice.「卑劣の街のアリス」』にて
・『魔眼のエイダ』→騎士団ナンバー7の女性。シフォンのかつての友達で、右目を失明している。グローブ型の魔具を所持。詳しくは『幕間「或る少女の足跡」』『第四章 第三話「永遠の夜ー③赫灼の赤き竜ー」』にて
・『鳴禽卿メルキュール』→夜会卿の第二部隊長。黒の血族で、ラガニアの伯爵。スィーリーの領主だったが、簒奪卿シャンティの侵略により、やむなく夜会卿ヴラドの所有地で暮らしている。詳しくは『第四章 第三話「永遠の夜ー②隠れ家と館ー」』にて
・『魔力写刀』→『黒兎』の持つナイフの魔具。ナイフの複製を創り出す能力を持つ。アリスに没収され、制作者であるカルマンの手に戻ったが、戦争において加勢した『黒兎』に再び所有されることとなった。詳しくは『127.「魔力写刀」』『Side Alice.「姉弟の情とアリス』『第四章 第三話「永遠の夜ー⑤霧海の繋ぎ手ー」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『魔具』→魔術を施した武具のこと。体内の魔力が干渉するため魔術師は使用出来ないとされているが、ニコルは例外的に魔術と魔具の両方を使用出来る。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて




