46.切れない過去
「ちょっと」
「ありがとう」
びっくりして反射的に胸を押そうとしたが、感極まった声で礼を言われその手を下ろす。
「礼を言われるようなことはまだしていないわ」
「いや。アリシアをアリシアとして見てくれている。それだけでいい」
「そんなの当然のことでしょ」
「――そうだな」
そこでノアが私の肩に顔を埋めた。
居心地のよいところを探すようにもぞもぞと動かし、落ち着くとさらに力を込められる。
――ノアもノアで厄介なのよね。
なかなか本音を見せない。立場上仕方がないのだろうけれど、難儀だなとは思う。
満足するまで好きなようにすればいいとしばらく目の前の景色を眺めていると、ふぅっと息をつきぐりぐりと顔を押し付けようやくノアは顔を上げた。
「陛下に呼ばれて王都に行かなければならなくなり、しばらく屋敷を空けることになった。早くても二週間はかかる。その間ひとりで大丈夫そうか?」
「ええ。アリシアとのことは無理に進めないわ」
「それはそうしてくれたらいいが。じゃなくて俺が長期で離れるのは初めてだろ?」
金の瞳が私の瞳の奥を覗き込んでくる。
もし私が少しでも不安だと言えば、すぐさまその大事な用事に断りを入れそうな勢いだ。
「私のことを心配してくれているの?」
「当たり前だろ」
ちょっと怒ったように言われ、申し訳なくも笑ってしまう。
ノアは内側に入れた相手には、情が深く甘い。外と内への対応の落差がすごい。
「私なら大丈夫よ。ここに来て大分経ったし、プララや料理長と知り合いも増えたしすることもあるから」
当然のように私もそこに入れてくれていると、ふとした瞬間に実感させてくれるノアのそれに気づくたびに心が軽くなっていく。
何かをすると一緒に喜んでくれる人たちがいて、否定しないでくれる人がいるこの環境はこれまでにないゆとり、つまり私が求めていた自由があった。
「……俺は寂しいが、クロエは平気なんだ?」
「平気って、二週間でしょ?」
「二週間もだ」
むっとした顔で言われ、ノアの顔を凝視する。
じとっとこちらを睨む目の奥は本気でおもしろくないと語っており、冗談ではなく拗ねているようだ。
ノアがいるから、まだまだ足りないことだらけの私でもここにいてもいいのだと胸を張れるのを知らないのだろうか。
「ノアがそばにいてくれるならそれは安心だけど、ノアだってやることがあるでしょ? 私はノアがノアらしく過ごしてくれているほうが嬉しい」
寂しいとか考えたこともなかった。
いろいろ与えてくれるノアの足は引っ張りたくない。それだけだ。
「ふ~ん。まだその辺は追々だな。それよりも離れる前に話しておかなければいけないことがある」
意味深な笑みを浮かべていたが、徐々に真面目な顔になるとノアは手紙の束を私の前に差し出した。
「手紙。私宛?」
ちらりと見えたハンコにはラグーゼ国のものが押されていた。嫌な予感しかしない。
眉をしかめると、ノアも嫌そうにそれらを睨みつけた。
「そうだ。この一か月で届くようになった。一通だけは普通便で三通ほど届いた後に来たが、上から差し出しされた順だ。クロエから話は聞いていたし見たくもないと思ったが、さすがにここまで溜まると黙っているわけにも、こちらが勝手に処理するわけにもいかない」
その返答に誰からなのか想像がついた。
「見ても?」
「ああ。見るも捨てるも好きにすればいいが、問題なければどういった内容なのか、クロエがどうしたいかを話し合いたい。それにより今後の対策も変わる」
「わかったわ」
頷き、手紙の束を受け取ろうと手を出す。
その際にわずかに手が震え、ノアが手紙の代わりに私の手を握った。
「大丈夫か?」
「ええ。大丈夫」
自分でもなぜこのような反応をしてしまうのかわからない。
遠ざけたはずの存在がすぐそばにまたやってきたことへの恐怖。胸の中がざわざわして、悲しみ、怒り、失望といった感情が綯い交ぜになりコントロールできなかった。
過去に囚われているのはアリシアだけでなく、私もだ。
けじめをつけてきたつもりでも、気持ちや考えを示してきたつもりでも、相手には届かなかったようだ。
――ビビアンの話を蹴ったことで私には伯爵家と関わる意思はないとわかるはずなのに……。
捨ててきた、切ってきた、終わったものとしていたのに、付きまとわれているこの感覚は一生拭い去ることができないのだろうか。
そう思うと、目の前が暗くなっていく。
「クロエ! ――またにするか?」
掴まれた手に力を込められ、はっとする。
小さく首を振り、ふぅっと大きく息を吐き出し気持ちを整える。
「ちょっと驚いただけ。手紙を受け取っても?」
「だが……」
「大丈夫。あまりのしつこさに動揺しただけで、私のスタンスは変わらないから。どのような内容であろうと、私を利用しようとするものに応えるつもりはないわ」
いつまでも父たちに囚われたままでいるのも、手を差し伸べてくれたノアの前で気持ちが揺れるのも情けない。
目の前の人と一緒に進みだしたのだからこれくらいのことで動揺していてはまだまだだと、自身に気合を入れる意味も込めて笑みを浮かべた。
「ならいい。俺がいることを忘れるな」
「ええ。ノアもいるから私はこうして笑っていられるの」
そう告げた私を探るようにノアはじっと見ていたが、ゆっくりと瞼を伏せると手を離し手紙の束を私の手の上に置く。
それを受け取り、差出人の名を確認した。




