14.契約
目の前に差し出されたのは、随分と立派な紙だった。
魔法がかかっているのがわかるが、その術式も文字も見たことのない様式でこの国の物ではなさそうだ。
「これは何?」
「今後のために必要な書類だ。契約書だと思ってくれたらいい。伯爵と交わした契約を悪用される前に効力が上のもので契約すれば手出しはできない」
ノアには家を出る時に父との契約書を交わしていること、そのため卒業できれば家門から離れることを説明していた。
「確かに父はすぐに自分の都合のいいように考え動く人だけど、契約書があるから卒業証明書を手に入れた今は私に手は出せないはずよ」
「伯爵だけならな。だが、もはや伯爵家だけの問題ではなくなっている。ハストン伯爵家の援助をしているイレイド侯爵家がどう出てくるのかわからない。実際にあの女は最後の最後で覆そうとしてきた」
家を出る前に父の曖昧さに不安を覚え、自由を得るために契約書を作成した。そのため、卒業という肩書さえあれば私は自由の身になるはずだった。
あと一歩のところで簡単に覆されそうになったが、契約書があるのとないのとでは違う。
そう思っていたけれど、今回のことのように簡単に力がある者によって改ざんされる可能性を指摘される。
「そうだけど」
「あの仕打ちから、国にいたら安心できないとの考えに至ったのだろう? 違うか?」
「そうね」
あまりにも暗い未来に見ないようにしてきたことをはっきりと指摘され、それを認めるしかなかった。
最後の最後まで、ビビアン、そして彼女にこき使われるきっかけを作った父はどこまでも私の自由を邪魔してくる。
「話を聞いただけだが、伯爵は相手の悪意ある思惑などわからずうまく丸め込まれ、聞かれるがまま契約の話をしている可能性はある」
「残念ながら、指摘通りね」
その手のことに父が信用ならないことは、娘である私が一番わかっている。
「もし、親子間で交わした契約書の存在を知っていたら、卒業後に伯爵家の借金とは関係なくクロエ個人を狙ってくるだろう。貴族ではなくなったクロエになら、さらにやりたい放題するだろうな」
「そこまで……。最悪ね」
働くのを邪魔されるだけではないのか。だが、言われてあまりにも容易く想像ができる。
身震いすると、ノアは安心させるように笑みを浮かべた。
「それで先ほどの話だ。今、ここに卒業証明書がある。そして、これは他人に改ざんされることのない契約書だ」
何が言いたいのかわかった。
「卒業証明書を一日早くもらってきたのにも理由があるのね」
父との契約は卒業証明書を得て成立する。そこで初めて、家門に囚われず自由を得ることができるのだ。
その後に個人的に狙われるなら明日を待たずに今卒業証明書を有効にして、すぐに新たな契約を結べば横入りはできない。
そうノアは言いたいのだろう。
「ああ、これ以上邪魔をさせないためにも急ぐ必要がある」
ここですべてを済ませてしまえば確実だ。
だが、ノアのほうに問題が起きる。
ノアは子爵家であり、長子ではないのなら家督を継がない可能性は高い。
ただでさえも身分的にこちらが弱いのに、その状況で侯爵家を敵に回すことは子爵家にとってリスクしかなく、厄介なものを押し付けてしまっていないか気がかりだ。ノア自身の立場も心配になる。
「確かにここですべてを済ましてしまうことは有効ね。だけど、そちらの家のほうは大丈夫?」
「ああ。その辺りは説明してきた」
「説明してきたの? どこまで?」
興奮して詰め寄ると、ノアは何でもないことのように告げる。
「この証明書をもらってくるのと同時に、家族にも理解を得てきた」
「嘘?」
かなり大事になっていた。
いや、よく考えれば雇われるのなら内容によっては家門に関わることもあるかもしれないし、そこまで話を通してくれてありがたい。
だが、こちらが思考する先を常に読んでいて、そのスピード感についていけていない。
ビビアンに仕掛けられた時とは違った無力感に襲われる。
アカデミーで好成績を修め、記憶力がよいこともあってわりとなんでもうまくこなせる自信があったが、ノアはさらにその上を行く。
さすが常にトップを張っていた人だ。頭の回転からして違う。
「俺なら大丈夫だ。あとで揉めるようなことにはならない。安心して一緒に行けばいい」
「……そう、ね。本当にありがとう」
じわりと眦が濡れる。
自分でもどうしていいのかわからなかった。
「泣くな。俺は対価を要求しているからな」
「うん。わかっている」
それでも親身になってくれていることに、これだけ自分のために動いてくれる人がいる事実に感動した。
これまで、何かと面倒を押し付けてくる人の尻ぬぐいばかりしてきた。表立った評価は得られず、彼らのために身を粉にして働き、自分のしたいことを我慢してきた。
「これさえあれば、俺は全力で守ることができる」
すべては私のため。
対価を支払うことになっていても、ノアが私の身を案じてくれていることは確かだ。
かゆいところに手が届くどころではなく、先回りでかなり快適な道を進めさせてもらって申し訳なさもあって、与えられることに慣れない。
「どうしてそこましてくれるの?」
「言っただろう? 俺はアカデミーでずっと見てきた。もう誰にも利用されてほしくない。国を出て誰かのもとで働くつもりなら、俺のもとにこい。俺はクロエが欲しい」
ここで初めて名前を呼ばれ、心臓がどきりと跳ねた。




