10.ずっとそばにいた男
何も残らない。何の力もない。
意思を持っていることも認められず、ただの都合のいい人形になるしか生きていけない。
私のこれまでの人生は我慢に我慢を重ねたつまらないものだった。だけど、ここまで我慢できたのは、その先に未来が、希望があったからだ。
人形のように生きていたくなくて堪えてきたのに、突如それらを奪われた。
――私がどうしようと、結局何も変わらないの?
ひどく空虚な気持ちになる。
「おい。しっかりしろ」
「……あっ」
ノアに声をかけられ、はっとする。
気づけばビビアンたちの姿はなかった。
「大丈夫か?」
「――わからない」
誤魔化す元気もなく、ただ首を振った。
なんとなしに窓の外を見る。
日はとっくに沈み今日がもう終わろうとしていた。だから、それがどうしたとすべての事象が無機質に思える。
「しっかりしろ」
叱咤する声にノアを見上げた。
私を見下ろす金色の瞳は、怒りに燃えている。
最初は興味なさそうだったのにある時からずっとノアは私に怒っているなと、そんなどうでもいいことを考える。
「お前らしくない」
「私らしくって何なの? 私のこと知らないくせにらしさを語らないで!」
八つ当たりだとわかっている。わかっていても止められなかった。
じろりと睨みつけると、ノアはバカにしたような軽侮の表情を浮かべた。
「ああ。知らないな。見せようとしなかったんだから。だが、どれだけしんどくても最後までやり遂げるのが俺の知っているお前だ」
「今回はそんな簡単なことではないの。卒業できなければ私は――」
腹が立つ表情のはずなのに、私を見るノアの双眸に労わるような穏やかな光が浮かび上がっていた。
その金の瞳を前にすると攻撃的な気持ちが引っ込み、なぜか不安を口にしていた。
情緒不安定な自分が、ビビアンなんかに感情をかき乱されているのが悔しくて口を引き結ぶと、ノアはそこでふっと笑った。
「いつもきつく髪を結んでいるから考えが凝り固まるんだ」
するりと髪紐を解き、ぽん、と私の頭の上に手を置くとわしゃわしゃと乱す。
櫛を通す以外のお手入れをしていないため、潤いを失ったキャラメル色の髪がぱらぱらと広がる。
突然のことに目を見開く。
私はこの三年間化粧もしていないし、アクセサリーもつけていない。髪はいつもひとまとめにして過ごしてきた。
動きやすさを重視し、金銭的に余裕がないためこのスタイルを選んだが、それらを三年間徹底して変えなかった理由はビビアンにある。
彼女にハストン家への融資を止められたくなければ言うことを聞けと、化粧やお洒落はするなと脅されてそうしてきた。
「あっ」
一通りぐしゃぐしゃと私の髪を乱し片方の耳に髪をかけると満足そうに頷き、机に軽く腰掛け腕を組んだノアは挑発的に私を見下ろした。
「何もせずに諦めるのか?」
「諦めたくないわ」
反射的にそう答えていた。
「なら、そんな顔をするな」
そんな顔? どんな顔をしているというのか。
確かめるように顔を触っていると、組んでいた手を解いたノアが私の手をどけ、ぐいっとほっぺたを引っ張った。
「ひょっひょ」
びよーんと頬が伸びているのがわかる。
仮にも女性なのに容赦ないなとその手を叩くと、嬉しそうにノアが笑った。
「少し調子が戻ってきたな」
その表情が今まで見たどの笑顔よりも素に近いもので、ノアが本当に喜んでいるのが伝わってくる。
じっと見ていると、ん? と首を傾げまた笑うものだから、胸の辺りがくすぐったくなって私は目を逸らした。
「いひゃい」
妙に気恥ずかしくて、誤魔化すように文句を告げると上下に動かしてくる。
「物理的に痛いと目が覚めるだろ?」
「わひゃったにゃら」
「ふっ」
小さく笑みを漏らし、手を離すとぽんと私の頭を撫でた。
もしかして、彼なりに元気づけようとしてくれたのかもしれない。
それに気づくと、かぁっと体温が上がった。
優しさに慣れていない。特にノアとは口を開けば言い合ってきたため、急な優しさにどう反応していいのかわからない。
「腫れたらどうするのよ」
「そうなったら責任を取るから心配するな」
ノアはするりと私の頬を撫で、にやりと笑う。
私は頬を引きつらせた。
「責任って? 治療代でもくれるというの?」
「一生使いきれないほどの治療代でも請求するつもりか?」
「うっ。そんなことしないわ。——―……でも、元気が出た。ありがとう」
人とつるまないノアが見せてきた、文句や笑いは私個人に向けられた感情。
顔を合わせれば口喧嘩をしてきたけれどアカデミーで一番私のことを見てくれていた、知ろうとしてくれたのはノアだ。
彼の存在がこれほど頼もしいと思った日はない。
たった一本の紐を解かれただけだけど、何もできないと絶望に似た気持ちから少し余裕が生まれる。
すべてを自分の意思で動いているつもりであったけれど、いつの間にか支配されていたようだ。
それに気づかせてくれたことに感謝して礼を伝えると、ノアは面白そうに口の端を上げた。
「へえ」
「私が礼を言ったらおかしい?」
「いや。そんなことはないが、初めて聞いたなと思って感動した」
大袈裟に目を見開き、またもや頭を撫でられる。
「それはあなたが口を開けば文句ばかり言ってくるから」
「文句を言われるようなことをしてきただろ? あんな女の言いなりになっていたのだから」
わしゃわしゃとさらに乱暴に撫でられるそれは、もう言いなりになるなと言われているようだ。
私がビビアンに言われるがまま動いていたのが、私が考えていた以上に気に食わなかったのかもしれない。
あれだけ突っかかってきたのだからわからないでもないが、これまでの分を甘やかすような手や眼差しはくすぐったい。
「気に食わなかったとしても言い方はあったと思うのだけど。 もっと優しくできないの?」
「してほしいならするが?」
にっ、と笑い流し目を向けてくるノアに、私はぶんぶんと首を振った。




