14-2: // Null != Zero(中盤)
忘却の火
「助かった……ナナ、それをこっちに」
ナナは、すぐにうなずき人型を抱えて周の近くに配置する。
シムラクルムは予期せぬ痛みに悶え苦しんでいる。
アイテルの声がわずかに震えた。
「マスター……定義不能領域を検出。アルゴリズムが整合性を失います」
「いいんだよ」
周は掠れた声で囁いた。
「それでいい…」
シムラクルムは、体を霧に変え、刺さった矢が地面に落ちる。そしてまた、ゆっくりと形をとる。
周は最後の力を振り絞り、スマホを握った手を魔法陣に押し付ける。アイテルと、くみ上げた魔法陣が重ねて浮かび上がっていく。
「《エリシュ・ラヴァーレ》──」
清澄な水が湧き上がり、赤黒い陣を洗い流していく。
血の筋は淡い水流に溶かされていく。何時ぶりだったのだろうか?この場にこのような濁りのない流れが生じるのは。
人型と陣が反応を始める。
光と水と空白が交わり、そこに新たな構文が形を結び始めた。周の手の中でスマホが共鳴するように光を帯びる。
「……アアアアア──?」
シムラクルムの叫びが、響き渡る。
まるで自らを否定されると抗うかのように。そして、その光に突進していく。光はシムラクルムを押し返した。
光が弾け、霧が押し戻される。
その中心に佇む人影には確かな息遣いがあった。
流れる髪は夜の帳のように深く、瞳は青空の澄明を宿していた。
それは誰かを模した形でも、理想の再現でもない。
アイテルという“データ”が、初めて“身体”を得て現れた姿――心が体の輪郭を整えたかのようだった。
ぎこちなくも意思を宿した表情に、周は息を呑んだ。
「……なにこれ」
ナナは見とれるように声を漏らす。
透き通るような白い肌は水に濡れ、その震える指先を確かめるように握りしめる。
ナナは息を呑み、はっと気づくように自分のローブを脱ぐ。
「これ!」
彼女はローブを投げかける。
アイテルは驚いたようにローブを受け取り羽織る。
「これは“私”で……なのでしょうか?」
自分の顔を、四肢を確かめるように撫でていく。
その動きは、ぎこちなさはありながらも滑らかだった。透き通った肌は、段々と赤みを増し、生命としての熱を感じさせる。
その瞬間、霧の渦がうねりながらアイテルを襲う。
「こういう時、外野は黙って準備を待つのがルールでは?」
そう言いながらも発動された防壁は、その渦の流れを変えていく。
「やはり、五感を通しての演算は全くの別……なのでしょうかね」
ぼそりとつぶやく。
アイテルは、まだ自らの体を持て余しているようだった。
指を握り、開く。軽くステップを踏み、わずかによろめく。
それでも、その一連の動きは、どこか楽しむようだった。何かを一つずつ確かめるように動きを紡いでいた。
瞬時に距離を詰めたシムラクルムは、防壁ごと打ち払おうと、濃密な霧を纏った腕が振り下ろされる。
アイテルは反射的に身を翻す。
まだ不慣れな所作。だがそれは確かに攻撃の間を縫っていく。
「……これが……摩擦、慣性……重力……」
彼女は呟きながら、一つ一つの現象を確かめていく。言葉の概念が確かな経験として蓄積される。新しい発見への興味を隠さないで、五感すべてで遊ぶように。
シムラクルムは狙いを変えるように、部屋全体に刃の雨を降らせる。
その瞬間に断続的に爆発が起き攻撃の一部を打ち消した。
「やはり貫通力のある攻撃は部分的に相殺した方が確実でしょうか?」
アイテルの起こした爆風は、防壁を使うことなく四人を守り切っていた。
「しかし、効率はあまり良くないですね」
「アイテル……やれるか?」
息も絶え絶えで周はアイテルに問いかける。
「なんだってできそうですよ?今の私は」
アイテルは優しく笑いかける。




