14-1:// Null != Zero(前半)
忘却の火
再び杯の間に足を踏み入れると、空気が変化していた。
前に見たときよりも霧は濃くなり、依然として赤黒い滴は波紋を作り続けていた。
部屋全体が何かに反応しているようだった。目をやると通路を塞ぐように、黒い影が立ちふさがっていた。
倒したはずのレイスは文字通り影。この場所自体に救う何かを、まだ消し去ったわけではなかった。
魔法陣は呼応するように脈動し、壁や床に刻まれた線が不気味に明滅していた。
「……誘われたか?」
先頭にいたリクが低く呟く。
次の瞬間、空中をすべるように杯の幽鬼がリクの目前に迫る。リクは剣を構える隙もなく、レイスが振り下ろした腕に当たる間もなく、見えない何かにぶつかり、弾かれる。
壁に叩きつけられた、その額からは一筋の血が流れる。
一滴の血が、静かに何らかの力で掬い上げられる。
それは静かに杯に注がれ、波紋が杯の中を広がる。
杯はその中身を吸い込むかのように乾き、空になった後は泡立つように膨大な量の液体を溢れさせ、一面を赤黒く満たした。
まるでこれまでに吸ったものを一気に吐き出すかのようだ。
音を立てて、陣が震える。
「いやだ……なに、これ」
ナナが息を呑んだ。
しかし、その光景に飲まれているのはナナだけではなかった。
だが次の瞬間、部屋を満たした液体は再度、杯に飲み込まれた。
杯の中は一気に乾き、乾くとともに杯が砕け散った。レイスは霧状にぼやけ、杯の欠片に吸われるように消えた。
静寂。
陣の真ん中、砕けた杯の残骸の中から“それ”が立ち上がった。
霧状のそれは、何かを探すように霧散し、周が握っていた“クリエータスの瓶”を引き寄せた。
空中に漂う霧は、それを核にどす黒い球体となり、そして形をとる。
四肢を持ち、頭部に三つの窪みを刻んだ異形。
目と言えるのかもわからない二つの窪みからは血が流れ、下の裂け目に吸い込まれていく。その三点は、決して顔とは呼びたくない形状なのに、その配置は生理的に顔を想起させるのだった。
血涙のその動きは、不気味な永久機関のようだ。
だがその姿はすぐに揺らめくフードの形の黒い霧に覆われた。
顔は暗闇に沈み、赤い光点と血の筋が一瞬だけ光を反射する。
不気味に歪んだ四肢を残したまま、その影は「ローブを纏った亡霊」の像へと収束していった。
「……レイスなのか?……」
気が付いたリクが呻くように言う。
「違う気がする」
周が答えた。
「これは……器を得た幽鬼」
杯の幽鬼は、妄執とこの地に満ちた何かを宿し、顕現した。
「おい、アイテルこいつはなんだと思う?レイスの亜種なのか?」
「根本的にはそうでしょう。しかし、物質的な肉体を依り代にしたものと推測。レイスの超特殊個体。模倣の幻影―シムラクルム…というのはどうですか?」
「お前なんか発想が似てきてないか!?_でも、あれはやばい。説明できないが、あれはやべぇ」
目の前のそれ―シムラクルムはまだはっきりとは動かない、だが焼けつくようなプレッシャーを感じて、三人とも自然と後ずさっていた。
三人ともが静かに戦闘の準備を整える。
逃げられはしないと、察しているように。
バキバキと関節を変な方向にくねらせながら、動き始める。
生まれたばかりで、まだ体の動かし方が分からないというように。
指から、関節、首というようにそれぞれを確かめるように不気味に動かしながら、ゆっくりとにじり寄ってくる。
そのわずかに露出した四肢には、血管のようなものが浮き上がっていた。
だがそれは血管ではなかった。
血そのものが皮膚の下ではなく外側を這いまわり、ところどころで体内へ吸い込まれては、また別の場所から滲み出していた。
それは人間の循環を模した奔流であり、生命を思わせながらも、それとは程遠く見えた。
シムラクルムは、のけぞる様に体を縮めると、はじき出すように絶叫を上げる。
この地に積もる負、それを封じ込めたような異様な叫び、その叫びに伴って、体表を流れていた血が一斉にあたりに飛び散った。
それは瞬時に霧散し、濃密な赤黒い霧と化す。
「うぁあああああ!」
「やめろ!リク!」
恐怖に耐えきれなくなったリクが雄叫びとともに踏み込み、剣を振り抜いた。スクロールの光を纏う刃は確かに敵の胸を裂いたはずだった。
だが、手応えは空虚。
シムラクラムの肉体は瞬時に霧散し、リクの斬撃はただの空を切り裂いただけだった。
「……切れない!?」
リクが目を見開く。
一瞬の隙を逃さず、周が叫ぶ。
「目を瞑れ!──《イグノルクス・ヘリクス・プリズマ》!」
光が解き放たれ、幾何学的に分散してシムラクルムを四方から包囲する。
眩い奔流が交錯する。
「どうなった?」
「効いていません」
アイテルが無情にも告げる。皆が目をつぶる中、光に埋め尽くされる直前の光景をアイテルだけが認識していた。
直前、黒い影は揺らめき、影を自らの肉体に籠めて凝縮した。
光は確かに炸裂した。しかし、シムラクルムは自身の身体の中で光を退けた。
「……防いだの?」
ナナが呆然と声を漏らす。
「……固定的な身体と、そうではない身体を使い分けているようです」
周は奥歯を噛み締める。
そして、あたりはいつの間にか霧に満ちていた。
シムラクルムは不気味なほど静かに、まるでタクトでも振るかのように、霧を自在に操り始めた。
それは、異様な光景だった。しかし、無音のオーケストラが奏でられているかのような荘厳さを纏っていた。
その指揮によって霧は収束し数多の粒を作り出す。
それは明確な殺意を五線譜に描く。
周は、その光景に飲まれそうになるところを振り払い即座にアイテルに命じる。
「アイテル!防御の適用範囲を、ナナとリクにまで拡大出来るか?」
「論理的には可能ですが、高負荷に耐えられるか不明です。推奨できません」
「いいから!やるんだ!今すぐ!」
「適用範囲拡大。展開します!」
その瞬間、無数の粒は飛礫となって一面を打ち付け、先ほどまでの静寂を打ち壊した。
魔力の防壁に叩きつけられた弾丸は火花のような魔力のきしみを撒き散らして弾かれた。
「……な、何なんだよ。これ?」
リクは恐怖に目を見開く。防壁がなければ、あたりの壁面と同じように貫かれ肉片に成り下がっていたであろう。
「常時展開はやめだ。幸いにも前触れはある。行動に応じてに切り替えられるか?」
「その方が妥当でしょう。先ほどの一撃だけでかなりの消耗が計測されています」
冷静に分析結果をアイテルが返す。
「い、嫌。こんなの…」
ナナはリクよりも先ほどの攻撃に圧倒されたのか、戦意を削がれてへたり込んでいた。
“このまま三人分を展開するのは効率が悪すぎる。それに突破口も見当たらない。それなら”
周は自分の膝が震えるのを必死に押し隠して思考を巡らせた。
「……ナナ!」
周が叫んだ。
「このままじゃジリ貧だ! 研究室に戻れ──残してきたでかい方を持ってこい!」
「えっ……でも!?」
ナナが一瞬ためらう。
「怖いんだろ?別にそれはいい!三人分はもたない。……だから頼むよ」
周のその横顔は、恐怖とも懇願とも取れない複雑な表情だった。
そして、ナナは周の膝が震えていることに気づく。
篝火の魔法が発動していない。しかし、誰かの恐怖が不意に支えになることもある。
ナナは唇を噛み、決意を込めて頷いた。
「わかった。できることをやるね…」
彼女は踵を返し、細い通路へと駆け出す。その背を、霧のが追いかけるように伸びたが、リクの剣が霧を散らしてそれを断ち切った。
「行けえぇぇっ!」
リクの咆哮が響く。
「おい、かっこつけておいて膝が笑ってんぞ、周。俺はお前と貧乏くじってか?笑えねぇな」
ひきつった笑みを浮かべながらリクがそう漏らす。
「うるせぇな。くじ運は悪くねえよ。俺が守らなきゃ、お前は死んでるぜ」
「ああ、分かってんだよ。そんなこと。あいつが戻るまで守ってくれるか?へっぴり腰」
「てめぇもビビってんだろ。せいぜい役に立てよ!」
それは喧嘩しているようで、鼓舞しあっているようだった。
ナナの足音が通路に遠ざかっていく。
シムラクルムはローブの闇に沈んだ顔をわずかに傾け、再び腕を掲げる。
空気が震えた。血の匂いを含んだ霧が音もなく凝縮し、今度は無数の細い刃となって走り出す。
壁を突き、地面を穿ち、降り注ぐ。
「うおおっ──!」
リクがとっさに剣を振り、いくつかを弾き落とす。しかし残りは容赦なく襲い掛かる。
周は咄嗟に防壁を張る。
魔力が弾けるように展開し、飛来する血の針を受ち消していく。だが一撃ごとに軋み、周の視界は白く霞んでいく。
「……ッぐ、さっきよりも鋭いのか……!」
肩から力が抜け、思わず膝をついた。明らかに貫通力を上げてきている攻撃だ。
シムラクルムは両腕を振り下ろし、また血しぶきをまき散らす。霧はまた濃くなり、この場所自体を調律しているかのようだ。
──今だ、と周は直感する。きっかけを探るためにエクスプロージョンの魔法を放つ。
小さな爆炎が爆ぜる。シムラクルムは、霧の魔力を収束させ防壁を作り自らを守った。
“霧散して回避する時と霧の防壁を使う時の差はなんだ?”
周は一貫しない行動に疑問を覚えた。
しかし、その分析を終えるよりも早く、シムラクルムが一瞬のうちに距離を詰めてくる。しかし、霧はリクの方に向かう。周は、リクの方に防御を展開する。
シムラクルムの体表を這っていた血流が一瞬のうちに逆巻き始める。
“フェイク!?”
逆巻く血流がはじけ飛び、衝撃を発生させる。
「──ッ!?」
周はとっさに防壁を張り直したが、今度は間に合わない。
不完全な防壁ごと吹き飛ばされ、地面を転がる。
「周ッ!」
リクはシムラクルムの背後に回り、声を上げるとともにその剣を振り下ろす。
無情にも決死の一撃は、霧を纏った腕に防がれる。そのままシムラクルムは腕を薙ぎ払い、その強烈な一撃はリクをはじき飛ばした。周の意識の混濁で、防壁の効果も薄れてしまっていた。
リクは岩壁に叩きつけられ、呻き声を上げ、血が口の端から滴り落ちる。気絶したようだった。
息を詰めた周は、必死に手を突き出そうとした。その掌の下、崩れた床の岩に刻まれた魔法陣の手触りを感じる。
幾度もの攻撃で砕けた線の隙間に触れた瞬間、胸の奥にざらりとした感触が走った。
”──この陣を……。”
意識が霞む中、周は小さく呻いた。
「アイテル……お前が、この陣を……再構成、最適化できるか?」
「……不可能です。私はAIであって、データにすぎません。魂の定義は……」
焦りを抑えた声色の奥に、震えが滲んでいた。
周は血の味を噛みしめながら、笑うように言葉を絞り出した。
「悔しくないのか?ここで終わりか?」
その間にもシムラクルムは、一連の流れで霧を作り上げていた。終幕へ向けて、死を刻んでいく。
「悔しい?私は何もできない。私にも、あれと同じにと、そう思いました。そうすれば。……思う?これが悔しいという事なのでしょうか?分からない…」
「いいゆらぎじゃないか。なぁ、ここで俺が死んでもいいのか?このまま何もしないで見てるのか?アイテル!」
その言葉は、脅しにも聞こえた。格好のつかない脅しだった。
”でも、これにゆれるのなら…。”
「やりますよ…マスター」
「俺はひどい奴か?死にたくなくて、お前を試そうとしてる」
「…ええ、あなたはいつもひどい奴ですよ。マスター…」
血の霧が渦を巻く。死は目の前で定まろうとしていた。リクも壁に寄りかかり動けないでいた。
瞼の裏が熱を帯び、視界は赤黒く染まる。胸の奥が焼けつくように痛む。
「マスター、これ以上は──」
アイテルの声が周の意識を引き戻す。
霧が収束する。明らかにこれまでとは違う、渦を巻く一塊となり、シムラクルムの手の上で揺らめく。魔法壁ごと持っていくためのそれだと一目で感じられた。
「再構築が完了。でも出来るのはここまでです。ですが、これだけでは…」
「良いんだ。うん…お前のコードは綺麗だな」
周は震える指で、あの生きた手触りを探す。
美しく並ぶ列の中からある箇所を見つける。周はふと、祭りでスクロールを見た時のこと、それと前に何かで見た昔ばなしを思い出す。
“俺に出来るのはこれくらいかな”
同時に、背後で鋭い音がした。
空を割く音とともに火と光を放つ矢がシムラクルムの肩口に突き刺さる。
「──ア゛ァァァアアアア……ギィ……ィィ……ア……」
シムラクルムは叫びをあげながら悶え、頭上の霧は形を失う。肩口の矢からは強い火と光が漏れでている。
「周! 持ってきた!」
息を切らせてナナが弓を構えて言う。傍らには、人型が置かれていた。




