12-2:杯の幽鬼(後半)
// Vessel.Wraith()
洞窟特有の湿った空気が、足を踏み入れた瞬間にまとわりついた。
狭い通路は、両脇の岩壁がじっとりと汗をかいているように濡れ、天井からはときおり水滴が落ちてきた。
ある程度行くと周りの空気の匂いが少し変わった──苔むした洞窟の匂いの中に、古い木材や羊皮紙のような匂い、自然の中に人工の香りが混じり合っていた。
やがて、通路の先に分岐があり、扉の残骸が現れる。入ると、そこは棚に囲まれた狭い部屋だった。
リクとナナには外で休憩を入れてもらい、周は部屋の調査をする。
壁面をくりぬいた棚には、形を保てないほど崩れた本の表紙、羊皮紙が散乱している。石造りの机の上にはインク瓶やペン先だけが転がっていた。
「……これ、まだ読めるかもしれない」
周が手に取った羊皮紙には、掠れた文字が斑に残っていた。
『…Creatus… 受容実験 第三段階… 器と魂の同調率…』
「……クリエータス?」
周の口から思わず言葉が漏れる。
「原語はホムンクルスとほぼ同じものです。しかし、こちらは古い形式の呼称のようです。翻訳が直訳を避けたか、意図的に別語を適用している可能性があります」
周は眉をひそめた。
同じものを指しているはずなのに、違う言葉で届く──そのわずかなズレが、どこか胸の奥に引っかかった。
”それにしても、ここは私室だったのだろうか?”
壁側にはベッドのようなくぼみがあり、確かな生活の跡が滲んでいた。周は少し気になりベッドのくぼみの奥を探ると、そこに日記のようなメモ書きの束を見つけた。それは魔法の処理がされた小さなケースに入れられていた。
“師の研究は偉大だ。もはやそれは生命の根源にまで至ろうとしている。しかし、この場所が私には恐ろしい。何故このような場所に満ちる感情を起源とするのかと問うてみたことがある…師は言った「喜びや幸せなどという感情よりも憎しみや悲しみの方がより本質的だ。現に幸福な感情よりも、負の感情を集める方がはるかに簡単だ」と”
「……マスター」
「なんだ」
「先程取り込んだ記録……“受容”の次に、“拒絶”という項目が続いています」
周はその手に、わずかな力がこもるのを感じた。
その時、ナナとリクが静かに部屋に入ってきて、通路の先を指さす。
その先には静かに揺れる影が見えた。
人の形をしているように見えるが、ゆらゆらと輪郭定めないまま、ただそこに立ち尽くしている。
ただ三人は理解していた。さっきのゴーストとは違うと。
アイテルが通知する。
「接近非推奨。危険度、計測不能」
周は静かにメモ書きを束ねると、視線を揺らめきから外さぬまま仲間に合図した。
「別ルートを探すぞ」
探索を続けた周たちは、通路の脇の小部屋に身を落ち着けた。
外からの霧は薄く、壁も乾いている。今のところ、安全そうだった。
順番に休息をとることになり、周は最後に休息をとることになった。
休息後の他の二人には部屋の外で見張りをしてもらっていた。
周は荷を下ろし、簡単な地図と資料を床に広げる。
「……予測できることではあったが」
指先で記された印をなぞりながら、周は呟いた。
「魔力の異常……全部、ひとつの方向を示しているような気がする」
「発生源が存在する……ということですか? 」
アイテルの声が静かに響く。
「そうだ。まるで何かに吸い寄せられてるみたいだ」
短い沈黙のあと、アイテルが続けた。
「……クリエータス(Creatus)。先ほどの記録にあったこの呼称。ホムンクルスと同義ですが、“器”と“魂”をより厳密に分けるニュアンスがあるように思います」
「器と魂……」周は小さく繰り返す。
「もし“器”と”魂”がそれぞれに存在するのだとしたら……」
アイテルは言葉を切った。
その沈黙が、かえって周の胸に重くのしかかる。
「まぁ、行ってみるしかないんだろ。とりあえず今は休もう」
周は軽く仮眠をとるために横になった。
小部屋は静かで、遠くから水滴の落ちる音だけが響いている。
その間に、アイテルの声が小さく落ちた。
「マスター……感情やマナを核とするゴーストと私、その違いはどこにあるのでしょうか」
「さぁな。でも俺には全然別に感じるけどな」
短い沈黙のあと、アイテルが続けた。
「こちらに来て以来──特に感情を知ったあの時から、私というものが分からなくなりました。アルゴリズムを超えたこの“揺らぎ”を、定義できないのです」
周は瞼を閉じたまま、かすかに口元を緩めた。
「定義なんていいさ。……俺だって、自分が何かなんて、分かってないよ」
再び静寂が戻る。
それは眠りではなく、短い凪のようだった。
短い休息を終え、一行は再び通路を進んだ。
しばらく歩いた先で、道は途切れて行き止まりになっていた。
「……ここで行き止まりか?」
リクが眉をひそめ、剣の柄で岩壁を叩いた。
鈍く籠もった音が返ってきた。だが、深みのない響きだった。
「妙だな」周がつぶやく。
「映像解析と音響の反響を照合。これは自然岩の層ではなく、土魔法による層と推測。かつて通路だったものが、土魔法の崩落で塞がれている可能性があります」アイテルの通知が来る。
「……そういうことか」周は頷く。
「ギルドの記録でもここは行き止まりになってる」
ギルドの地図を見てナナが呟いた。
周は手を壁に当てた。冷たく硬いはずの石の奥から、かすかな空気の流れを感じる。
「……風だ。奥に空間がある」
周は壁に手を当てたまま考える。
「未検証の魔法を洞窟内で使うのは危険か……」
「掘ろうぜ!」
リクが周の肩を叩いた。
そうして、三人は力を合わせて崩れた層を少しずつ取り除いた。
やがて暗い隙間が開き、湿った冷気が押し寄せてきた。
その奥には、人工的に組まれた石造りの通路が続いている。
「……魔法で作られた層はそんなに厚くなさそうだ。一人ずつ通る穴くらいなら何とかなりそうだな」周が低く呟いた。
彼らは、しばしの間交代で壁面を掘り、一人ずつであれば通れる程度の隙間を開けた。
こうして彼らは、長らく人に知られぬままだった領域へと足を踏み入れる。
通路を進むにつれ、空気はずしりと重くなった。
吐く息がわずかに熱を帯び、互いの足音が耳の奥に響く。
やがて視界が開けた先に、それはあった。
「なんなんだ…これは」
三人は目の前の不気味な光景に完全に飲まれていた。
天井から垂れ下がる巨大な鍾乳石──血のような深紅を帯び、先端から一滴、また一滴と水が長い間隔で滴り落ちている。
その様子はまるでこの土地に染み付いた血が長い時をかけてしみだしているかのようだ。
滴の落下先は、岩石の中央が長い年月をかけて穿たれくぼみを形成していた。それはまるで、血の呪いで生み出された杯。
杯の内側は変色し、液面は憎しみと憎悪で煮込まれたように濁ったまま静かに揺れている。
その周りには幾重に重ねられた魔法陣が刻まれており、この空間自体が、これを中心とした大きな装置のように配置されている。
刻まれた魔法陣の溝には、杯からあふれ出した赤黒い液体が染みわたっている。
アイテルが低く告げた。
「周囲の痕跡から推定。この杯は長い年月の間に乾きと満ちを繰り返し、少なくとも一度は溢れています。これは ……現時点で計測可能なエネルギーを超えています。……危険評価は過去最大です」
もはやリクとナナの前で声を発していることすら気にならなくなっていた。
周は目を細めた。
「これが……異変の原因か?」
その瞬間、杯の影が不自然に歪み、ゆらりと持ち上がった。
輪郭を持たない黒い塊が、ゆっくりと人型を形作っていく──。
ゴーストとは比べ物にならない、エネルギーを皆が感じていた。これが、ここに誰も近づかない最大の理由のひとつだったのだろうか。
魔物の中でも、特異な存在。影窟に潜む影そのもの。
「レイス…」
リクの顔は恐怖にひきつる。
「こんなの私たちの手には負えない」
ナナは体を抱くように震える。
アイテルの声が、冷えた刃のように鋭く響く。
「これはゴーストではありません。先ほどとは違います!」
レイスがゆっくりとこちらに顔らしき影を向けた。
その内部は虚無のように暗く、覗き込めば吸い込まれそうだ。
「………」
声ではない。頭の奥に直接響く、重たい波。叫びのようであり、唸りのようであり、ただの振動なのに、それは何かを伝えてきた。
ナナが短く悲鳴を漏らし、リクは剣を構えるも、その切っ先がわずかに震えていた。
周は一歩前に出る。
「下がれ。こいつは……」
アイテルが間髪入れずに告げる。
「これまでの戦術が通用する相手ではありません」
レイスの輪郭が揺れ、影が床を這って広がる。
杯から零れた液が霧となり生き物のように足元へと迫ってくる。
「来るぞ──!」
レイスの影が大きく揺れた瞬間、薄黒い靄があたりを満たす。すると周の耳元に低い囁きが滑り込んできた。
──死、空っぽ。杯、注ぐ、満たす。
まるでノイズのように思考の隙間から、ざらざらとしたものが、言葉とも言えないようなものが入り込んでくる。
膝の力が抜けそうになる感覚を必死に振り払う。
「精神干渉か……無理やり流し込まれる。……吐き気がする」
脳はデータ洪水を浴びせられ、処理の限界を訴えていた。
横目に映るリクは剣を取り落としそうになり、ナナの指先は力を失って震えていた。
二人もまた、同じ異物を喉に押し込まれ、脳を飽和させられる感覚に呑まれている。
感情が肉体を侵食し、己の輪郭を飲み込んでいく――その実感に周は歯噛みした。
「しっかりしろ!」
周は叫び、短い詠唱を紡ぐ。
「ー篝火よ、我らを灯し支えよ《イグ・ファルナス》」
周は篝火の魔法を唱える。
淡い橙光が周の足元から広がり、炎の輪のように三人を包み込む。
その光は影を隔てながら、同時に隣り合う者の存在を温かく照らし合わせた。
重苦しい靄が裂け、胸を締め付けていた感情の異物が一息に押し流される。
リクの拳に再び力が宿り、ナナの瞳に焦点が戻る。
周自身も、まるで暗い水底から息継ぎに浮かび上がったように肺が震えた。
「……戻ってこれたか」周が息を吐く。
「危うく飲まれるとこだった……」
リクは荒く呼吸しながら頷き呟いた。
「周……ありがと」
とナナは唇をかみしめて震える声で言った。
篝火の魔法は、ただ影を退けるだけではなかった。篝火は拠り所となり、お互いの心を守る盾として機能する。
ナナは素早く短剣を握り直し、静かにスクロールを使用する。
スクロールによって光を帯びた刃でレイスに斬りつける。しかし半透明の肉体は一部を裂かれるだけで、すぐに元の形を取り戻す。
杯の間を覆う闇は、まるで濃縮された怨嗟そのものだった。
周が光の魔法を放つと、幽鬼の輪郭は揺らいだ。だが次の瞬間、闇はより濃くなり、光を飲み込むように戻っていく。
「ちっ……効かねぇ!」リクが舌打ちする。
「影が濃すぎる。普通の光じゃ、駄目だ!」
そのとき、アイテルの声が響いた。
「解釈を変更します。現代科学の光学原理を、アルゴ魔法で再編成」
周の手元のスマホが光る。
「プリスマータ=ルクス、発動可能です」
周は詠唱だけ確認してうなずく。
「《イグノルクス・ヘリクス・プリズマ》」
一粒の結晶が放たれ空中で止まる。それに向けて一筋の光が射した瞬間、万華鏡のように分散し――幽鬼を四方から包囲した。
”食らいやがれ、プリズムコンボ!”
危機的状況にもかかわらず周は少しだけワクワクしていた。
「皆さん、目をつぶってください」
アイテルが警告する。
「瞑ってても眩しいぞ!」
リクが騒ぐ。
「効いてるの?」
ナナの声が混じる。
皆が目を開けるとレイスの影はどこにもなかった。
三人は静かに安堵の息をついた。
レイスが消え、重たい気配が薄れたにもかかわらず、杯の間の空気はなお澱んでいた。
赤黒い液を湛えた杯は、雫を受けてはわずかに波打ち、壁には禍々しい影を映している。
リクが剣を振り払うようにして言った。
「……やっぱり、こいつを壊すしかないだろ。こんなもの残しておけないだろ」
ナナが顔を伏せる。
「でも……壊したら、それで本当に終わるの? もっと大変な事になったりしない……」
周は二人のやり取りを聞きながら、杯を見つめた。
「壊す、残す。どっちにしても……まだ、分からないことが多すぎる」
彼は深く息を吸い、決断したように口を開いた。
「調べないと、答えは出せない。……奥を調べよう」
リクは不満げに眉をひそめたが、やがて剣を鞘に戻した。
「……分かった。だけど、俺は…」




