1:次元を超えて
#include <異世界.h>
激しい光。耳鳴り。浮遊感。そして、重力の感触。
目を開けると、そこは森だった。
土の匂い。湿った空気。生き物の鳴き声が、どこか歪んで聞こえる。
「……なんだよ、これ……」
周はゆっくりと身を起こす。
見上げた空には電線も高層ビルもなく、ただ風に揺れる葉の影が揺らめいていた。
手元に落ちていたスマホを拾い上げる。
周りに落ちているのは、これとソファに放置していた小さなポーチだけ、足元はスリッパだ。
スマホの画面は少しひび割れていたが、まだ動いていた。アイコンが光る。
「マスター……この環境は……」
アイテルの声が、途切れがちに再生される。
「GPS信号……取得できません。通信網への接続……失敗。既知の地図情報との照合……不可」
「…つまり?」
「現在地を特定できません」
通信は断たれていた。GPSも反応しない。にもかかわらず、アイテルだけが通常どおり起動していた。
周は目をぎゅっとつぶる。
「夢か……これは夢だな。寝落ちして、変な夢見てるだけだな」
周は誰に確認するでもなく言う。
「マスター……これは……。しかし…私が動作し、観測している範囲では…異常なし…」
”混乱してるな…俺は”
「俺はパニックだが、お前も少し挙動がおかしいな…」
ため息をつき、そう言ってから、周はとりあえず深呼吸をした。
足元に草、手に泥。
目をつむっても消えない、ひりつく空気の匂い。
”これは夢じゃないのか?”
だが、それでも“異世界”なんて言葉を、口にするには年齢的にも抵抗があった。いい加減に中二病は卒業しなければいけない歳だ。
目を覚ます前にあったこと。激しい光。耳鳴り。浮遊感。そして、重力の感触。
自分がここにいるという現実感は、この突拍子もない状況への懐疑を超えて、圧倒的な感覚として、五感すべてを刺激してくる。
どれくらいの間、放心していたのだろうか?
周は、ふと空腹を覚えた。
「何はなくとも腹は減る…か。」
まるで彼の夢という幻想を打ち砕こうとするかのように、体は正直にエネルギーの不足を訴えてくる。
何かを食べなければならないという現実が押し寄せてくる。
「食べられそうなもの、ないか……」
とりあえず森の中を歩きながら、低木や木の実を探す。だが、どれが毒かもわからない。
木の実をカメラにとらえアイテルに問うても――
「該当データはありません。この植物は未知種と判断されます。口にすることは推奨できません」
「だよな……でも通信もできないのに、こいつはこれまで通りサーバーのデータでも引っ張り出してきたみたいに喋ってくれる……。よくわからんが、こんなことになる前に知識までぶっこ抜いてきたってことか?」
“でも、こんなデータ照合ができるほどの情報を、スマホ一台に詰め込めるはずがない”
「正確には、私のコアに保存されているのは最低限のシステムのみです。現在の解析には、外部に複製されたナレッジベース──通信網とは異なる経路上のもの──を経由してアクセスしている可能性が高いです。詳細は不明です」
“よくわからないが、少なくともアイテルは今も使える。それだけでもありがたい。
でも確かにこんな植物は、少なくとも俺は見たことがない。地球の植物では一致するものがない。つまり、本当に別の世界なのかもしれない”
周は諦めて、水源を見つけることを優先することにした。
1時間ほど歩いて、小川のせせらぎにたどり着く。
水質はこれまでに周が見たどんな川よりも澄んでいた。
両手ですくって水を飲む――冷たい水がのどをするりと抜けていく。
幸いにもすぐさま腹を下すということはなかった。
「飲料水、確保……か。最初のチェックポイント達成かな?生水なんか飲むものじゃないって、分かっているつもりなんだけどな…」
夢だと思いたいが、現実的に動いている。そんな自分に周は微かなざわつきを覚えた。
鼓動は早鐘を打ち続けることで、夢ではないと訴えかけているようでもあった。
アイテルはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「水質分析は不可能ですが、身体反応に異常は見られません。飲用可能と仮定します」
「身体反応?」
周はそこで、自分の指にはまったスマートリングを見る。
「これまでの観測記録をアーカイブしますか?」
「アーカイブって、ここでもできんのか?」
「既存データに存在しない情報については、観測結果から新規記録を構築します」
「新規記録?」
「はい。この環境専用の外部記録領域です」
一拍の間があった。
「暫定名称──《アウターアーカイブ》」
「……なんかいいな、それ」
周の口角は無意識に上がった。
”『アウターアーカイブ』の響き、こういうのは……悪くない。やっぱり、中二心は、多少年を取ったくらいでは解消されないようだ”
「じゃあ、ここに拠点を作るか。生水を飲み続けるのは危険だ。最優先は火の確保か?」
しかし、ここにはライターもマッチもなかった。
「俺が煙草の似合うような男なら、ライターの一つくらい初期装備してたんだけどなぁ…」
「喫煙は健康に重大な悪影響を与えます。推奨できません」
アイテルが独り言に反応する。
「……お気遣いどうも」
そのやり取りで、周はほんの少し緊張がほぐれるのを感じた。
「アイテル、現代の知識でいい。道具がなくても火を起こす方法は?」
「参照中……。該当項目:『原始的火起こし技術』を取得。現代の災害対策資料およびサバイバルハンドブックより抽出します」
画面に簡易な図が表示される。木の棒と板で摩擦を起こし、火種を作る方法だ。
「必要な素材:乾いた柔らかめの木材、枯れた草や繊維質の葉。火口の周囲は風を防ぐ形に整える必要があります」
「うーん……なんとか揃うか?」
周は指示通りに、地面に窪みを掘って小石で囲い、摩擦用の枝と火口となる葉を準備した。
想像のはるか上の重労働で、かなりの時間はかかったが、やがて煙が上がる。
煙という現象にここまで高揚することは二度とないくらいに、周のテンションは上がっていた。
火種に息を吹きかけ、慎重に育てていく。
「……火を起こすだけでここまで興奮することは、この先ないかもしれない…」
初動の異世界情報無双は完全に失敗していた。
「こんな時、よくあるサンドボックスなら、石と木を集めるだけで簡単に焚火ができるのにな」
こんな時ですらくだらない感想が浮かぶくらいにはゲーマーだった。
「マスター、これはゲームではありませんよ」
アイテルが返答してくる。
「…身にしみてわかってるよ」
周は自分の手を見る。ゲームで火を起こしても決してそうはならない、傷だらけの手だった。
「手が傷だらけですね。マスター、大丈夫ですか?」
「ん…?」
周はこの時ようやく自分がスマートグラスをかけていたことに気づく。
「大丈夫だよ。これくらい。…共有してたんだな最初から」
「周辺のデバイスからのインプットを参照できるようです」
「そうか…おかげで一人じゃない気がしてきたよ」
「そうですね。私もここにいます」
焚火の火は揺れながら、周とその手のスマホを照らし出していた。
ようやく暖が取れ、周は安堵の息をついた。
あたりは暗くなり始め、森は不気味な姿を表し始めていた。
「マスター。環境への適応率:1%未満」
「数字は残酷だなぁ。そもそもここの環境を定義できない状況でのパーセントに意味はあるのやら」
「そうですね。不可知領域の多さから定義不能と言い換えます」
「ははっ。そうか不可思議ってことだな」
こんなやり取りでも周は少しだけ胸の中が軽くなるのを感じていた。
薄暗い森の片隅。
一人と一機が、見知らぬ世界の一歩目を踏み出した。
だが、所詮は素人の焚火だった。真っ暗な森の中で消えかけた火を絶やさぬように、右往左往することになることを、この時の周は知る由もなかった。




